2010-12-12

〔いんさいど世界〕 PISA・読解力・上海

 OECDの「ピザ(PISA)」(「ピザ」と発音する)で、日本は今回、〈「読解力」が前回15位から8位になり、初回00年の水準に回復〉(読売)した。
 ⇒ http://news.google.co.jp/news/more?pz=1&cf=all&ned=jp&cf=all&ncl=d50BKzIxpvzKeVMbKHkV2BnyYIhkM

 なぜ、日本の15歳の「読解力」は、少し高まったか?

 日本の文科省の学習指導要領による「統制教育」が威力を発揮したとみる者は、おそらく1人もおるまい。

 では、なぜ?

 これはもちろん、僕の勝手な「読解」に過ぎないが、メールののやりとりが、15歳の読解力を上げている、からだろう。

 しかし、メールのやりとりは前年も同じ程度、行われていたはず。

 にもかかわらず、どうして「読解力」は「上がった」のか?

 思うに……15歳同士の間の人間関係の断絶の深化が、この1年で、さらに進んだためではないか?

 個の分断が、否応なしに、相手の言わんとする意味、狙いをさぐりあてる「読解力」を育てている…………?

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 さて、今回の(2009年の)調査には、上海が初参加し、いきなり「全分野トップ」を達成した。

 ニューヨーク・タイムズ (⇒ http://www.nytimes.com/2010/12/07/education/07education.html )によれば、上海でのテストは、オーストラリアのテストNPOの監督下で行われたそうだ。(米国の専門家は、上海のテスト結果の正確さは疑い得ない、と同紙に語っている)

 上海を知る米国の専門家によれば、今回の結果で最も重要なことは、「中国は暗記学習の国」という、広く信じられていた仮説が一蹴されたことだそう。

 では、「暗記」でなくて何が?

 その答えに直接結びつくものかどうかは知らないが、タイムズ紙の記事には、こうある。

 In Shanghai, the authorities have undertaken important curricular reforms, and educators have been given more freedom to experiment.

 上海では当局がカリキュラム改革を進め、教師にはより大きな(教育)実験の自由が与えられている。

 ここに、上海と日本の、決定的な違いが?!

 ####

 日本の子どもたちは「いい会社」に入りたがるが、中国では「起業して社長になる」と言う子どもが多いそうだ。

 師走の街を、寒風に吹かれながら、喪服のような黒服で、成算なき就活を続ける、日本の若者たち。

 僕の住む仙台の街角で飛び交う元気のいい言葉は、ほとんどが中国語である!

Posted by 大沼安史 at 05:01 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2010-09-11

〔いんさいど 日本〕 学校・教師・アウシュヴィッツ

 「この裁判で学校が変わってほしい!」――自死した新任の女教師の遺族が、そう訴える裁判が静岡で続いている。

 死んだ娘の死を無駄にしてほしくはない。「学校」のあり方を真正面から考える契機にしてほしい。

 そんな裁判が静岡で続いている。

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 2004年の4月の新学期。静岡県磐田市立の小学校に、ピカピカの新人で着任した木村百合子さんは、(おそらくは、すぐさま)「困難な状況」に直面した。
 そこは (おそらく、ごくありふれた)荒れた学級だった。

 百合子さんは当時の管理職から、「おまえの授業が悪いから荒れる」「アルバイトじゃないんだぞ」「問題ばかりおこしやがって」などと責め立てられた。

 百合子さんは、「本当に必死な毎日」「必死にならなければ毎日を過ごせない状態」(百合子さんの日記より)と奮闘したが、半年後の9月、追い詰められ、欝で自ら命を絶った。24歳だった。

 遺族が公務認定を求めて裁判をしている。その第11回公判が、この9日、静岡地裁であった。⇒ http://www.labornetjp.org/news/2010/0909hokoku/

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 この裁判の経過を追って、私なりにたどり着いた先は…………またしても、日本の「学校」の、「アウシュヴィッツ」化した、惨憺たる状況に対する憤りだった。

 またしても日本の「学校」は、果たしてほんとうに「学校」なのか、という根底的な疑問が湧いたのだ。

 なぜ、(そんなにも)「極端な見方」(こう思われる方は、このブログの読者の方にも多いはずだ)を、私はするのか?

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 私は鬱病にかかり自死なされた百合子先生は、「アウシュヴィッツ」的な言い方をすれば、あの「Kapo(カポ)」になれなかった――なり切れなかった、理想を持った教師だった、と思う。

 「カポ」とは何か?

 収容所、つまり「学校」の管理の第一線に就く、抑圧者集団を指す。

 アウシュヴィッツであれば、ユダヤ人収容者に対する、管理・弾圧の最前線に立った、同じ被抑圧者の、あのユダヤ人管理者のことである。

 百合子さんはきっと、子どもたちを「管理」仕切れなかったのだ(いや、子どもたちを管理したくなかったのだ)。子どもたちを「調教」できなかったのだ(いや、きっと調教したくなかったのだ)。

 だから、きっと、子どもたちに対して、プロ教師的な威圧的な態度をとり切れなったかった!
 
 「学校アウシュヴィッツのカポ」になれなかった!

 子どもはある意味で大人以上に現実的だから、そんな百合子先生の人間味を「弱さ」と思い込み、百合子先生の指示に従わなかったのではないか?(もちろん、これは単なる憶測である。真相は分からない……)

 +++++

 アウシュヴィッツを生き抜いた、エリ・ヴィーゼルは、体験記の『夜』に、あの悪名高き、メンゲル医師による「選別」の場面を書いている。

 メンゲルの前を、ユダヤ人たちは走らさせられるのだ。走りっぷりを見たメンゲルが、その人間の「番号」を記したら、一巻の終わり、ガス室に送られる。

 最初にメンゲルの前を走るのは、現場の管理者である「カポ」たちだ。ナチスの手先のカポたちは、それなりに待遇されているから、栄養状態がいい。だから、走れる(管理できる)! メンゲルにガス室送りされるものはいない。

 しかし、エリ・ヴィーゼルら、アウシュヴィッツのふつうの「生徒」とも言うべき、収容者は違うのだ。

 頬っぺたを叩いて、血色のいいように見せ掛け、メンゲルの前を、必死になって駆け抜ける…………

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 私が危惧しているのは、ヒトラーの「国民学校(フォルクス・シューレ)」をサル真似し、敗戦後もそのまま「民主主義」の「皮」をかぶって生き延びた、いまの文科省による統制教育が、現場の教師に「カポ」の役割を強制し、子どもたちのナチュラルな学びを窒息させている(「ガス室」送りしている)のではないか、ということである。

 百合子先生はたぶん「カポ」になれなかった…………いや、なりたくなかった。教師でありたかったのだ。

 だから、「自死」に行き着かざるを得なかったのではないか。

 +++++

 「労災認定」のかたちととったこの裁判は、日本の国家教育のファッショ性を問う裁判でもある。

 この裁判に、負けてはならない。

 私が思うに、この裁判の行方を、ほかの誰よりも、心を痛めながら、ひそかに見守っているのは、百合子先生が担任した子どもたちに違いない。

 子どもたちはたぶん、百合子先生が亡くなったあと、分かったはずだ。

 百合子先生こそ、自分たちに、きちんと向き合おうとした教師であることを分かったはずだ。 

 責任を感じているはずだ。感謝しているはずだ。

 その意味では、子どもたちもまた被害者である……。

 +++++

 百合子先生が担任した子どもたちは何人だっか、は知らない。しかし、その子どもたち全員のふたつの「瞳」を輝かすことができなかったのは、百合子先生の責任ではないだろう。

 新任教員が着任半年で自死するような制度を運営する者こそ、責任を取らねばならない者たちだ。

 「静岡」が、管理統制の「大分」であるのは、ひとえに文科省の責任である。

Posted by 大沼安史 at 07:12 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2010-09-07

〔いんさいど世界〕 中3いじめ自死……「遺書」と「リーフレット」

  「中学3年生」といえば、日本の基礎教育の「完成年度」である。この最終学年で、小・中「9年」間の「義務教育」が完了。年明け3月の卒業式では「日の丸」を仰ぎ、「君が代」を歌って、輝かしい未来に向けて巣立って行く(…………ことになっている)

 日本の文科省による「統制・管理教育」の「学年」は――4月にはじまり、3月に終わる「学年」は、こうして毎年、過ぎて行く。
 全国一斉、一糸乱れぬ、画一的な、整然たる姿で……。

 川崎市の「学年」も、こうして過ぎて行く(…………はずだった)。
 何事もなく(いや、何事も表面化せず)平穏無事に…………過ぎて行く(はずだった)。

 ひとりの男子生徒が死ぬまでは…………。

 ++++

 一学期の後半の6月7日、市立中学の中3男子が自宅で自殺した。

 「友人のいじめを救えなった」と、手書きの遺書を残していた。

 神奈川新聞(電子版)⇒ http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1006100005/

 友人も、自分も、いじめに遭っていた。
 遺書には、自身の生い立ちを振り返る内容や、両親への感謝の気持ちなども書かれていた。

 それから3ヵ月が過ぎた、今月(9月)4日、その学校の調査委員会が、「いじめ自殺」の調査報告書をまとめた。

 報告書は――同級生や保護者からの指摘を受けてもいじめを見抜けず、報告体制にも問題があった教員側の対応などを含めて「学校全体がいじめ状態にあった」――と結論づけた。
 神奈川新聞 ⇒ http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1009040035/

 「学校全体がいじめ状態にあった」……そういう「学校全体のいじめ状態」の中で、中3の男子が自殺した。

 友人を救えなかったことを悔いながら…………。

 これを受け、川崎市の教育委員会は翌々日の6日、「市立の小中学校、高校、特別支援学校の合計172校の校長らを集めた臨時合同校長会議を開いた」。

 神奈川新聞 ⇒ http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1009060045/

 今後、1ヵ月を「児童生徒指導点検強化月間」と「位置づけ」、「教育相談」や「教職員研修」などを「実施」し、「いじめ問題の適切な対応方法などを示したリーフレットを全教職員に配布」して、「再発防止」に向けた取り組みを進める――そうだ。

 ++++

 川崎市の教育委員会は恥を知るがよい。

 「学校全体をいじめ状態」にし、一人の男子を死に追いやった、君たち、教育委員会の指導監督責任は、どうなったのだ?

 「リーフレット」を配る?……
 そこに君たちは、またも「人命の尊さを思い……」などといった、空疎な文字を――それも「活字」で並べ立てるつもりなのか?

 そうして「再発防止」に向けた取り組みの中で、「学年」をやり過ごしてしまうつもりなのか?

 「友人を救えなかった」男子が命を絶ったのは、学校の運営者である君たち教育委員会の責任である。

 君たちがこれからも「教育者」を名乗り続けるのであれば、「友人を救えなかった」男子を「救えなかった」――いや、「救わなかった」責任を、真正面から引き受けるところから始めるべきだろう。

 今後1ヵ月間にわたって「点検強化」すべきは、君たちのモラルであり、君たちの教育者としての姿勢である。

 問題は「再発防止」ではない。問題は、それを起こしてしまった、ことだ。取り返しのつかないことを起こしてしまったことだ。

 中3の手書きの「遺書」は、君たち教育者=教育官僚に対する、若い命の最期に綴った、抗議のメッセージをあることも、忘れてはいけない。

 その子が苦しみながら生き続け、ついに離脱して行った「学年」の「生き地獄」を管理・運営して来たのは、君たちなのだから。
  

Posted by 大沼安史 at 03:57 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2010-09-05

〔いんさいど世界〕 学校・いじめ・アウシュヴィッツ 

 英紙インディペンデント(電子版)に、同紙の教育記者、ポール・ヴァレリー(Paul Vallely )氏による、アウシュヴィッツ訪問記が掲載されていた。
 英国の教師グループに同行し、アウシュヴィッツとは何なのか、その恐ろしさを、子どもたちにどうしたら伝えることができるか――をともに考えたルポルタージュだった。
 ⇒ http://www.independent.co.uk/news/world/europe/tough-lessons-how-teachers-are-seeking-answers-at-auschwitz-2067788.html

 +++ +++

 ヴァレリー記者のルポを読んで、3つのことが心に浮かんだ。その3つがひとつになって…………これはもう何としても、一刻も早く解決策を見つけ出すべき、重い課題となって、心に迫って来た。

 ひとつは、「アウシュヴィッツ」と日本の学校での「いじめ」の関連。

 もうひとつは「アウシュヴィッツ」と日本の「学校」の相似。

 そして最後に、「アウシュヴィッツ」的な日本の教育状況を、どう超えて行くかという最重要な問題――。

 +++ +++

 順を追って見ることにしよう。まずは「いじめ」との関連から。

 アウシュヴィッツの現場で、一緒に旅した英国人女性教師(倫理科担当)が、ポール・ヴァレリー記者に、自分は学校でどんなふうにホロコースト問題を教えているか、こう説明してくれたそうだ。

 女教師は「どうしてそんなひどいことを?」「止める人はいなかったの?」と疑問をぶつけてくる生徒たちに、逆にこんな質問を返すのだそうだ。「あななたち、いじめがあるって知ってるでしょ。あなたたち、その時、どうした?」と。

 ヴァレリー記者のルポ記事のこの箇所が、私の心にひっ掛かったのは、最近の日本の学校での、無残というほかない、「いじめ自殺」の多発が頭にあったからだ。

 「いじめられた友人を守れなかった」と遺書を残して死んだ川崎市の中3男子。「いじめられていたらしい」大阪・高槻の小3の女の子の自死。始業式の日にマンションから飛び降りて死んだ、東京・昭島市の中1女子…………

 ユダヤ人を駆り立て、アウシュヴィッツに追い込んだ、ふつうのドイツ人たちと、級友を自殺に追いやった、日本のふつうの児童生徒たちと――。
 そこに、何らかの類似性があるような気がして、胸が痛んだ。

 +++ +++

 第二の問題――「アウシュヴィッツ」と日本の「学校」の相似を思い浮かべたのは、ヴァレリー記者の、ナチス権力による「ホロコースト」遂行の徹底した中央管理、効率性の追求の指摘に触発されてのことだ。

 その指摘のせいで、「死の工場」(アウシュヴィッツ)と「教育工場」(日本の「学校」)との間に、どれだけの本質的な「違い」が、決定的な「断絶」があるのか、わけがわからなくなってしまった。

 ベルトコンベアー式の徹底した集団管理。そして個の分断。
 「生き残り」への駆り立て。自然な、生の(成長)欲求の破壊。ストレス、そして憎悪。

 アリス・ミラーによれば、ナチス・ドイツが生れた背景には、産業社会の期待に応えるべく出現・定式化された、子どもを徹底して調教・管理・抑圧する(暴力も行使しながら……。ヒトラーも父親に死ぬ目に遭わされた……)、あのシュレーバー流の「暗黒教育(あるいは闇の教育) Schwarze Pädagogik 」があったとされるが、現代の日本の「学校」も、子どもを徹底管理し、自由な学びを(そして遊びを)まったくもって認めないという点で、アウシュヴィッツを産み出したものと、相似しているのではないか?…………

 +++ +++

 (こう考えることは、もちろん、とても辛いことだけだど)私たちが、この「相似」と向き合う勇気を持ちさえすれば、「いじめ地獄」が蔓延する、日本の学校にも、それを乗り越えて行く方向性が生れる――これが、ヴァレリー記者のルポを読んで、私が覚えた、3つ目の感想である。
 
 「学校」から、「アウシュヴィッツ的なもの」に、もしかしたらなりかねないものを一掃する。管理と統制で子どもたちの生を窒息させているものを除去して行く…………

 子どもを選別の対象とするのではなく、子どもの生に敬意を表し、その生の実現を支援して行く…………

 これに今、踏み切らないでどうする?

 誰が?――――

 日本の「学校教育」を縛り上げて来たのは、文科省の中央統制だから、ヴァレリー記者が紹介していた、あの、倫理科の女教師の問いかけ――「あなたたち、助けたこと、あるの?」は、この国ではまずもって、政府の教育行政当局に投げかけられるべきものであるだろう。 

 +++ +++ 

 ポール・ヴァレリー記者のルポ記事には、「アウシュビィッツ」へ続く鉄路の写真が添えられていた。

 その線路の上を、英文学を専攻していたパリ・ソルボンヌ大学のユダヤ人女子学生、エレーヌ・ベールさんも、貨車で通過したのだ。

 『エレーヌ・ベールの日記』(飛幡祐規訳、岩波書店)によれば、それは「1944年3月8日」のこと。

 エレーヌさんはこのアウシュヴィッツから、さらにベルゲン・ベルゲン収容所に移送され、そこで非業の死を遂げることになる(ベルゲン・ベルゲンには、当時、あのアンネ・フランクもいた!)が、いったいどんな思いで、あの「労働は自由をつくる」の「欺瞞の門」をくぐり抜けたことだろう?

 エレーヌさんも、もっともっと、学びたかったのだ!

 自死した日本の子どもたちも、「学校」が言うのとは違った自分の学びを、ほんとうは、きっと、もっともっと学びたかったことだろう。

 +++ +++ 

  エレーヌ・ベールさんの「日記」は、「1942年4月7日」に始まる。

 あの大家のポール・ヴァレリー(Paul Valéry)のパリの居宅に押しかけ、その著書に「献辞」を書いてもらったのだ。

 それからわずか2年後、ナチスに殺される女子大生のために、老詩人は本の見返しに、こう書いた。

  目覚めに なんと優しい光、そしてこの生き生きとしたブルーの なんという美しさ

 +++ +++ 

 日本の子どもたちからも、朝の平和な目覚めを奪ってはならない。
 

Posted by 大沼安史 at 05:58 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2010-08-11

〔いんさいど世界〕 英国で教育改革法(アカデミー法)が可決・成立 優秀校を「アカデミー」(独立校)と認定 教師・父母らによる「フリースクール」新設の道も スウェーデンをモデルに 保守党主導で連立政権が公教育を改革 

  英国で、保守党が主導する「公教育改革」が始まろうとしている。「公教育の独占を打ち破る」とされる今回の「改革」は、7月26日に英議会で可決・成立した「アカデミー法」に基づくもので、

 ①「アカデミー(独立校)」の新たな新設プログラム と
 ②「フリースクール(教師・父母らによる新設独立校)」プログラム の

 2つを柱にしている。
 ⇒ http://www.guardian.co.uk/education/2010/jul/27/mps-pass-academies-bill

 《アカデミー》 保守党が進めようとする「アカデミー」の新設プログラムは、労働党のブレア政権が推進していた「アカデミー」とは、以下の点で異なる。

 ブレア政権の「アカデミー」は教育崩壊が著しい貧困地域を主な対象とし、スポンサー(大学、企業など)の応援を得た公立学校が、独自の教育プログラム(カリキュラム)を持つ、独立校としての地位を獲得し、活動を開始するものだが、今回、保守党主導の連立政権の、マイケル・ゴーヴ教育相(保守党)が進めようとしている「アカデミー」は、英政府(OFSTED=教育基準局)が「優秀校」と認めた公立校には、スポンサーの有無にかかわらず独立校のステータスを与えるというもの。

 ことし2010年9月――つまり来月の新学期から始める、という慌しさで、現在、申請を募っている。

 また、労働党政権の「アカデミー」は、地元自治体との「協議」の上、申請する仕組みだったが、保守党の新「アカデミー」は、「適切なグループとの協議」を求めるだけで、地元自治体との協議義務を求めていない。

 自治体との事前協議が外されたのは、これが「アカデミー」申請の足かせになっている(と、保守党が主張している)ためだ。

 「アカデミー」に認定された公立校は、
 ①地元の当局のコントロールから離脱する
 ②政府から直接、学校のファンド(運営資金)の交付を受ける
 ③交付されたファンドの使途を自由に決める
 ④「広く、バランスのとれた」独自のカリキュラムを決める
 ⑤フェアな基準に基づき、独自に入学者を決める
 ⑥教師・スタッフの雇用条件を決める

 ――ことができる。

 《フリースクール》 一方、来年、2011年の9月の新学期からスタートする「フリースクール」は、教師や父母らが立ち上げる新しいタイプの公立校で、認可されれば、上記の「アカデミー」のステータスを持つ。

 新政権はこのためのスタートアップ・ファンドとして5000万ポンド(67億5000万円)を用意するとしている。
 また、この財源について新連立政権は、他の公教育予算を削って充当するものではない、としている。

 この「フリースクール」もすでに申請受付が始まっており、その半数は教師グループによるものだという。

 シュタイナー学校やモッテソーリ学校のほか、宗教学校、あるいは無神論の学校の、「フリースクール」認可申請もあるという。

 なお、保守党と連立を組んだ自由民主党は(選挙戦中は、保守党マニフェストを批判していた!)、「フリースクール」の設置に同意するにあたり、保守党から、既存の公立学校にもカリキュラムの自由を認める、との合意を取り付けている。

 《スウェーデン・モデル》 保守党は、総選挙で自党の教育改革マニフェスト「フリースクールはスウェーデン・モデルだ」と言って、有権者(父母)に売り込んだ。

 スウェーデンでは、とくに中道右派の政権下、1993年以降、「独立‘自由’学校(independent ‘free’school)」制度が導入され、今では公立学校の10%にあたる千校以上が開校している。(現在は野党の立場の旧政権党、社会民主労働党は、制度には賛成しているものの、今後の新設については「凍結」するよう求めている)

 この「独立‘自由’学校」に子どもを通わせる家庭には「教育バウチャー」が支給され、各「独立‘自由’学校」は家庭からこれを受け取って、学校を運営する仕組みだ。

 「教育バウチャー(クーポン)」は、公教育における生徒1人あたりの経費と同額。 
 
 また「独立‘自由’学校」は、「営利」も容認されている。つまり、教育企業による学校経営も認められているわけだ。

 60社ほどあるこうした教育企業の中で、最大のものは、Kunskapsskolan(「知識学校」の意味)で、中等学校22校、高等中等学校10校を運営している。

 英紙インディペンデントが紹介していた、首都ストックホルムにあるKunskapsskolan 高等中等学校の場合、生徒数は580人。普通の高等中等学校の3分の1の規模だ。

 同紙は生徒のひとり、ロビン君(17歳)の学校生活ぶりを紹介しているが、ロビン君は1日ワンレッスン受けるだけ。あとは自宅で勉強したり、マイペースで学んでいる。
 「(前に通学していた)古いシステムに僕は縛りつけられていた。僕は家で勉強するのが好きだ。(ここでは)自分で立てた課題に責任を持つことができる」と、ロビン君。

 しかし、このKunskapsskolan は、徹底した「フリースクール(自由学校)」ではない。ロビン君もまた、毎週、チューターの面接を受け、次週の課題を設定したりしている。

 (Kunskapsskolan のWikiによれば、35段階の「ステップ」のほか、「自分って何?」といった「コース」が設けられている)

 英国の保守党は、この「スウェーデン・モデル」をモデルに、父母らが申請した「フリースクール」に対し、教育企業との「パートナーシップ」を認めることにしており、公教育の民営化に新たなチャンネルが開かれることになる。
 (英国の公教育の民営化は、部分的ながら、もうすでに始まっている。たとえば米国の教育企業、エジソン社は、ロンドン北部のチューリン・グローブ校の運営を請け負っている)

 ロンドン西部では現在、作家・ジャーナリストのトビー・ヤング氏を中心に、父母400人が集まって、「ウエスト・ロンドン・フリースクール」の開設準備を進めているが、適当な教育企業と組んで運営する予定だ。
 素人がやるより、プロに任せた方がいいというのが、その理由。組んだ教育企業がダメなら別の企業に乗り換えればいい、と考えている……。 

 こうした「スウェーデン・モデル」とともに、英保守党が「手本」としたのが、米国の「チャータースクール」だ。労働党のブレア政権もチャータースクールを念頭に、「シティー・アカデミー(その後、ただの「アカデミー」に改称)」を立ち上げたが、これは発祥の地、米ミネソタ州にあるチャータースクール1号校の名前を拝借したものだ)

 《保守党 教育改革への批判》 今回の保守党主導の「教育改革」に対する批判はさまざまだ。
 
 その中で特に重要と思われる指摘を紹介すると、ブレアの「アカデミー」が貧困地域の公教育の「再生」を狙ったものであったのに対し、今回の保守党の「アカデミー」は、教育に関心が高いミドルクラス(中流層)に的を絞ったものではないか、との見方が出ていることが、まず挙げられる。

 次に、先にも指摘したことだが、地元自治体との「協議」を外し、「アカデデミー」を政府が直接ファイナンスすることによる、教育分権の否定と中央集権化の推進に対する批判。

 そして三つ目が、これまた繰り返しになるが、教育企業への公教育の「売り渡し批判」である。

 さらに、新政権が「アカデミー」の入学者決定を方式を、「申し込み順」といった「公平な」ものでない、その学校に独自のものであっても構わない(たとえば成績、テストでの選考)と考えていることを示す内部文書がプレスに漏れたことで、公教育にふさわしくない、エリート校をつくるものではないか、との見方も出ている。

 そして最後に、「改革」の外側に取り残された、公教育「本体」部分の改革ビジョンの欠落――。

 先に指摘した通り、保守党と組んだ自民党は既存公立学校にも「カリキュラムの自由」を認める合意を取り付け(さらに、貧困家庭にキャッシュを支給する支援策も、保守党に約束させているが)ているが、その具体策が何も示されていないのは問題である。

 グローヴ教育相の派手な宣伝にもかかわらず、「アカデミー」「フリースクール」の申請数が実は、公表数より一桁少ない、それぞれ153、62校にとどまっていることが暴露されるなど、保守党がキャンペーンで描く「夢」と「現実」の落差は大きい。

 9月にスタートする「アカデミー」はどんな「顔ぶれ」になるのか――懸念されているように、全国テスト高得点校だけが「優秀校」として認可されるのか――、審査の結果と今後の行方を見守る必要がある。

BBC ⇒ http://www.bbc.co.uk/news/10161371

      http://www.bbc.co.uk/news/10350661

ガーディアン ⇒       http://www.guardian.co.uk/education/2010/jul/19/michael-gove-schools-academies-plan

      http://www.guardian.co.uk/politics/2010/jul/21/swedish-style-free-schools-social-divide

        http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/jul/21/michael-gove-free-schools

インディペンデント ⇒
    http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/tories-swedish-schools-plan-will-not-work-1902992.html

    http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/government-publishes-free-school-application-forms-2003950.html

    http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/free-school-conservatives-eye-the-swedish-model-1042734.html

  http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/youre-not-going-far-enough-swedish-expert-tells-cameron-1042733.html

Kunskapsskolan ⇒ http://www.kunskapsskolan.se/foretaget/inenglish.4.1d32e45f86b8ae04c7fff213.html
  Wiki http://en.wikipedia.org/wiki/Kunskapsskolan

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2009-07-29

〔いんさいど世界〕 「神の国」はいつでもどこでも「死の教育」

 「戦争」を考える――考えねばならない「夏」が来た。日本の権力者どもは文部省の統制教育を通じ、さらっとなぞるだけの“神隠し・教科書無記述”の情報戦に勝利を収め、おかげで私たちの「戦時中」は、歴史的な記憶のいわば「真空地帯」と化している。

 「神の国」の「死の教育」を強制した文部省は、自ら手を汚さず、子どもたちに墨を塗らせて証拠隠滅を図り、涼しい顔を続けて来た。
 おかげで、われわれもまた、「あれっ、日本って、アメリカと本当に、戦争したっけ?」などと、間抜けな面(つら)を曝け出している。

 戦争は終わっても、戦争責任、教育責任に終わりはない。同様に戦後世代のわれわれだからと言って、戦争を知らないからと言って、知らないで済まされない、だろう。

                 *
 
 英紙インディペンデント(電子版)に、タリバンがパキスタンのスワット渓谷で、自爆を教える死の学校を開いていた、との記事が掲載されていた。
 ⇒  http://www.independent.co.uk/news/world/asia/taliban-running-school-for-suicide-bombers-1764028.html
 
 最年少の子は、なんと9歳!
 「神の国」は、いつでもどこでも「死の教育」をしたがるものだな、と暗然たる思いに囚われた。

 聖戦の自爆戦士たち!――日本の戦時中と、同じではないか!

 爆薬をからだに巻きつけて特攻攻撃に向かうタリバンの子。
 人間魚雷や練習機で特攻攻撃に向かう皇国の少年戦士たち。

 タリバンのカミカゼ学校は、日本の「戦時中」を映し出す鏡である。

                 *

 私が尊敬申し上げる教育学者の長浜功氏は、戦時中のファシズム教育を研究する専門家である。
 その著書、『国民学校の研究』(明石書店)で、尋常小学校改め「国民学校」の「修了生の答辞」を紹介していた。

 昭和十八年三月二十三日 横浜市大岡国民学校修了生代表の「答辞」である。

  「私達は今日修了証書を頂いてこの新たなる決心と輝かしい希望とを忘れず、必ず今後に実行いたします。今日本が大東亜戦争を完遂しなければならない形に、私達一人一人めいめい決心を完遂し、中途で止める様な事は断じていたしません。では校長先生と諸先生並になつかしき在校生の皆様、いつまでもご健康で御奮励下さることを神かけてお祈り申し上げます」

 敗戦まで2年半――長浜氏によれば、この時期の「答辞」は、これでもまだ「牧歌的」だそうだ。

 それでもまだ「希望」を語る修了生代表。12歳、ぼくも「少国民」。

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 日本の「国民学校」では「練成教育」というのがあって、子どもたちは「皇国のために身命を捧げて励みます」など「誓詞」を言わされていた。

 タリバンの学校でも、子どもたちが同じようなことを言わされているのだろうか。

 日本の国民学校のように、ひょっとしたら修了式のようなものがあって、「答辞」を言わせられている(言っている)卒業生代表がいるかも知れない。

 日本の子どものように「聖戦の完遂」を語り。「神かけて」在校生に別れの言葉を告げる、神の国の子が……。

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 「九条の会」の呼びかけ人で作家の澤地久枝さんは、戦時中、トルストイに共鳴して兵役を拒否し、その後、熊本の山村で農業を営みながら、トルストイの翻訳を続けて来た北御門二郎氏との、中学生たちを前にした対談(1992年、エミール社刊、澤地・北御門共著、『トルストイの涙』収録)で、ミッドウェーの海戦での「日本側の一番若い幼い戦死者は15歳です……日本は満14歳で志願して15歳で死んでいった。それこそ人を愛することも、あるいは失恋することも知らない、人生のほんの入口で死んでいった子供たちが含まれて帰ってこないんです」と、痛切な思いを込めて語っていた。

 そして、「そういう意味で私は……戦争に対して『ノー』と命がけで言わなきゃならないだろうという人間にとうとうなってしまったと思います。それが今から四十七年前の八月十五日に、ああ神風は吹かなかったと思い、それまでは何とかして戦争に行って死のう、死ななければ申しわけないと思っていた人間の人生が行き着いた場所です」とも。

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 長浜功氏はこの『国民学校』でも少し触れているが、他のところで、戦時中、皇民教育の旗を振ったファシスト教育者どもが戦後、民主主義教育者になりすまし、時代の寵児となって、しまいには進歩的な教育者として大学の学長までなりおおせた――など、とんでもない実例を実名を挙げて、紹介している。

 「戦後民主教育」など、一皮剥けば、その程度のこと。
 一枚、めくり返せば、そこには、戦時中の皇民教育、死の教育の、なおギラついた目が、こちらを睨んでいる。

 だから、検定歴史教科書なのだ、だから君が代・日の丸なのだ。

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 北御門二郎さんは東大英文科を中退し、農村で晴耕雨読(訳)の毎日を送り、生涯を絶対平和主義のトルストイとともに歩み続けた方だ。
 
 民主主義の仮面をかぶり、子どもに墨を塗らせて、過去の犯罪を隠滅して来た者どもとは、人間の格が違う。

 日本の教育改革は、戦時中、「戦争にノー」と言った北御門二郎さんの、絶体絶命の極限まで遡り、「死の教育」を否定するところから始めなければならない。

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 「生き残り」を賭けた、トーナメント戦及びバトルロイヤル戦に子どもたちを追い込み、「死の教育」をなおも続ける、日本の権力者たち。

 子どもに号令をかけ続け、子どもの自由を許さない、統制教育のネオファシストどもに、「死の学校」を運営するタリバンを笑う資格はない。

Posted by 大沼安史 at 09:21 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)