〔コラム 夢の一枝〕 フラクタルとしての個人 または自由なる学び
「フラクタルの父」、ブノア・マンデルブロートさんがお亡くなりになった。
フランス系アメリカ人のユダヤ人数学者、85歳だった。
時事通信 ⇒ http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010101700011
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マンデルブロートさんが提唱した「フラクタル」とは何か?――
それは、ひとことで言って、「自己相似性(Self-similarity)」の原理である。
同じパターン、同じ式の単純な「繰り返し」の中から、複雑なパターンがさまざまに生成されるが、元に戻せば、そこにあるのは、同じパターン、同じ式……!
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僕にはもちろん、あいまいな理解(無理解)があるだけで、「フラクタルとは何か」、正直言って、正しく定義する自信はないが、そこに何か、深い真理が潜んでいることは、直感できるような気がする。
マンデルブロートさんの訃報(死亡記事 ⇒ http://www.independent.co.uk/news/science/father-of-fractals-dies-at-85-2109421.html )を読み、マンデルブロートさんが遺した――
(ことし2月、カリフォルニア・ロングビーチでの収録 ⇒ http://www.ted.com/talks/benoit_mandelbrot_fractals_the_art_of_roughness.html)
――最後の講義ビデオを視聴して心に留まり続けるものは、ある人間の学びとは(その人の人生とは)、その人間の個人としての「フラクタクル」としての発展、それ以外の何物でもないのだな……という事実に由来する感動である。
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そう僕が思うのは無論、マンデルブロートさんの数学理論をトレースしたからではない。
知識の理解ではなく、僕の体験として了解でしかない。
61歳になった今、自分の人生を振り返って、その原初にあるものを見ようとする時、今現在に通じる、あるパターンなり、考え方、傾向、ズレのようなものが、その後の人生の基本にあったことに気付き、その事実を(苦笑をもって)認めざるを得ない。
それ、すなわち、「自己相似性」の再確認!
三つ子の魂は、少年、青年、中年、老年を通じて、それがどんなに激しく転変しようとも、自己相似性についてはまったく不変である……これは、誰しも自分自身の経験から頷くことができることではないか。
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自分というシンプルなパターンの繰り返し――その中から、複雑な自分というものが生れるのだ。
ピカソを見るがよい! あの劇的な変わりようは、ピカソという「自己相似性」があったればこそ、現象し得たものではなかったか!
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マンデルブロートさんのことし2月の最後の講演のタイトルは、「フラクタル――ラフであることの芸術(Fractals and the art of roughness)」だった。
講義の冒頭、マンデルブロートさんは、こう言った。
Roughness is part of human life forever and forever.
「ラフなもの(パターン)こそ、人生である。永遠に、永遠に」
自分の中のラフなもの――いまだ規則化されていないもの――を、自分というアンデンティティーの原基として、それを永遠に繰り返して行く。
そこに、その人間の、学びを通じた自己実現があるはずだし、あるべきではないか?!
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この世に生れた、〈私〉というフラクタル――自己相似形をどう維持し、発展させるか?
そこにたぶん、今日の教育の課題が(希望が)あるのではないか、と僕は思うのだ。
「子どもというフラクタル」を――それ自体においてナチュラルでシンプルなものを――早々と抑圧し、解体してはならない。
その子の「かたち」を破砕してはならない――と僕は思うのだ。
子どもたちに、学びの反復による、自己創造を赦す教育が――学校が、生れなければならない。
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マンデルブロート氏は、ビデオ講義の最後を、まるで遺言のように、以下のような言葉で締めくくっていた。
Bottomless wonders spring from simple rules, which are repeated without end.
底知れない驚きはシンプルなルールから生れるものです。終わりのない繰り返しの中から。
自分というものを生涯にわたって繰り返して行く。
それを子ども期において早くも破壊している現状は、許されるべきことではない。