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2010-09-11

〔いんさいど 日本〕 学校・教師・アウシュヴィッツ

 「この裁判で学校が変わってほしい!」――自死した新任の女教師の遺族が、そう訴える裁判が静岡で続いている。

 死んだ娘の死を無駄にしてほしくはない。「学校」のあり方を真正面から考える契機にしてほしい。

 そんな裁判が静岡で続いている。

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 2004年の4月の新学期。静岡県磐田市立の小学校に、ピカピカの新人で着任した木村百合子さんは、(おそらくは、すぐさま)「困難な状況」に直面した。
 そこは (おそらく、ごくありふれた)荒れた学級だった。

 百合子さんは当時の管理職から、「おまえの授業が悪いから荒れる」「アルバイトじゃないんだぞ」「問題ばかりおこしやがって」などと責め立てられた。

 百合子さんは、「本当に必死な毎日」「必死にならなければ毎日を過ごせない状態」(百合子さんの日記より)と奮闘したが、半年後の9月、追い詰められ、欝で自ら命を絶った。24歳だった。

 遺族が公務認定を求めて裁判をしている。その第11回公判が、この9日、静岡地裁であった。⇒ http://www.labornetjp.org/news/2010/0909hokoku/

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 この裁判の経過を追って、私なりにたどり着いた先は…………またしても、日本の「学校」の、「アウシュヴィッツ」化した、惨憺たる状況に対する憤りだった。

 またしても日本の「学校」は、果たしてほんとうに「学校」なのか、という根底的な疑問が湧いたのだ。

 なぜ、(そんなにも)「極端な見方」(こう思われる方は、このブログの読者の方にも多いはずだ)を、私はするのか?

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 私は鬱病にかかり自死なされた百合子先生は、「アウシュヴィッツ」的な言い方をすれば、あの「Kapo(カポ)」になれなかった――なり切れなかった、理想を持った教師だった、と思う。

 「カポ」とは何か?

 収容所、つまり「学校」の管理の第一線に就く、抑圧者集団を指す。

 アウシュヴィッツであれば、ユダヤ人収容者に対する、管理・弾圧の最前線に立った、同じ被抑圧者の、あのユダヤ人管理者のことである。

 百合子さんはきっと、子どもたちを「管理」仕切れなかったのだ(いや、子どもたちを管理したくなかったのだ)。子どもたちを「調教」できなかったのだ(いや、きっと調教したくなかったのだ)。

 だから、きっと、子どもたちに対して、プロ教師的な威圧的な態度をとり切れなったかった!
 
 「学校アウシュヴィッツのカポ」になれなかった!

 子どもはある意味で大人以上に現実的だから、そんな百合子先生の人間味を「弱さ」と思い込み、百合子先生の指示に従わなかったのではないか?(もちろん、これは単なる憶測である。真相は分からない……)

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 アウシュヴィッツを生き抜いた、エリ・ヴィーゼルは、体験記の『夜』に、あの悪名高き、メンゲル医師による「選別」の場面を書いている。

 メンゲルの前を、ユダヤ人たちは走らさせられるのだ。走りっぷりを見たメンゲルが、その人間の「番号」を記したら、一巻の終わり、ガス室に送られる。

 最初にメンゲルの前を走るのは、現場の管理者である「カポ」たちだ。ナチスの手先のカポたちは、それなりに待遇されているから、栄養状態がいい。だから、走れる(管理できる)! メンゲルにガス室送りされるものはいない。

 しかし、エリ・ヴィーゼルら、アウシュヴィッツのふつうの「生徒」とも言うべき、収容者は違うのだ。

 頬っぺたを叩いて、血色のいいように見せ掛け、メンゲルの前を、必死になって駆け抜ける…………

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 私が危惧しているのは、ヒトラーの「国民学校(フォルクス・シューレ)」をサル真似し、敗戦後もそのまま「民主主義」の「皮」をかぶって生き延びた、いまの文科省による統制教育が、現場の教師に「カポ」の役割を強制し、子どもたちのナチュラルな学びを窒息させている(「ガス室」送りしている)のではないか、ということである。

 百合子先生はたぶん「カポ」になれなかった…………いや、なりたくなかった。教師でありたかったのだ。

 だから、「自死」に行き着かざるを得なかったのではないか。

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 「労災認定」のかたちととったこの裁判は、日本の国家教育のファッショ性を問う裁判でもある。

 この裁判に、負けてはならない。

 私が思うに、この裁判の行方を、ほかの誰よりも、心を痛めながら、ひそかに見守っているのは、百合子先生が担任した子どもたちに違いない。

 子どもたちはたぶん、百合子先生が亡くなったあと、分かったはずだ。

 百合子先生こそ、自分たちに、きちんと向き合おうとした教師であることを分かったはずだ。 

 責任を感じているはずだ。感謝しているはずだ。

 その意味では、子どもたちもまた被害者である……。

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 百合子先生が担任した子どもたちは何人だっか、は知らない。しかし、その子どもたち全員のふたつの「瞳」を輝かすことができなかったのは、百合子先生の責任ではないだろう。

 新任教員が着任半年で自死するような制度を運営する者こそ、責任を取らねばならない者たちだ。

 「静岡」が、管理統制の「大分」であるのは、ひとえに文科省の責任である。

Posted by 大沼安史 at 07:12 午後 いんさいど世界 |

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