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2009-07-29

〔いんさいど世界〕 「神の国」はいつでもどこでも「死の教育」

 「戦争」を考える――考えねばならない「夏」が来た。日本の権力者どもは文部省の統制教育を通じ、さらっとなぞるだけの“神隠し・教科書無記述”の情報戦に勝利を収め、おかげで私たちの「戦時中」は、歴史的な記憶のいわば「真空地帯」と化している。

 「神の国」の「死の教育」を強制した文部省は、自ら手を汚さず、子どもたちに墨を塗らせて証拠隠滅を図り、涼しい顔を続けて来た。
 おかげで、われわれもまた、「あれっ、日本って、アメリカと本当に、戦争したっけ?」などと、間抜けな面(つら)を曝け出している。

 戦争は終わっても、戦争責任、教育責任に終わりはない。同様に戦後世代のわれわれだからと言って、戦争を知らないからと言って、知らないで済まされない、だろう。

                 *
 
 英紙インディペンデント(電子版)に、タリバンがパキスタンのスワット渓谷で、自爆を教える死の学校を開いていた、との記事が掲載されていた。
 ⇒  http://www.independent.co.uk/news/world/asia/taliban-running-school-for-suicide-bombers-1764028.html
 
 最年少の子は、なんと9歳!
 「神の国」は、いつでもどこでも「死の教育」をしたがるものだな、と暗然たる思いに囚われた。

 聖戦の自爆戦士たち!――日本の戦時中と、同じではないか!

 爆薬をからだに巻きつけて特攻攻撃に向かうタリバンの子。
 人間魚雷や練習機で特攻攻撃に向かう皇国の少年戦士たち。

 タリバンのカミカゼ学校は、日本の「戦時中」を映し出す鏡である。

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 私が尊敬申し上げる教育学者の長浜功氏は、戦時中のファシズム教育を研究する専門家である。
 その著書、『国民学校の研究』(明石書店)で、尋常小学校改め「国民学校」の「修了生の答辞」を紹介していた。

 昭和十八年三月二十三日 横浜市大岡国民学校修了生代表の「答辞」である。

  「私達は今日修了証書を頂いてこの新たなる決心と輝かしい希望とを忘れず、必ず今後に実行いたします。今日本が大東亜戦争を完遂しなければならない形に、私達一人一人めいめい決心を完遂し、中途で止める様な事は断じていたしません。では校長先生と諸先生並になつかしき在校生の皆様、いつまでもご健康で御奮励下さることを神かけてお祈り申し上げます」

 敗戦まで2年半――長浜氏によれば、この時期の「答辞」は、これでもまだ「牧歌的」だそうだ。

 それでもまだ「希望」を語る修了生代表。12歳、ぼくも「少国民」。

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 日本の「国民学校」では「練成教育」というのがあって、子どもたちは「皇国のために身命を捧げて励みます」など「誓詞」を言わされていた。

 タリバンの学校でも、子どもたちが同じようなことを言わされているのだろうか。

 日本の国民学校のように、ひょっとしたら修了式のようなものがあって、「答辞」を言わせられている(言っている)卒業生代表がいるかも知れない。

 日本の子どものように「聖戦の完遂」を語り。「神かけて」在校生に別れの言葉を告げる、神の国の子が……。

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 「九条の会」の呼びかけ人で作家の澤地久枝さんは、戦時中、トルストイに共鳴して兵役を拒否し、その後、熊本の山村で農業を営みながら、トルストイの翻訳を続けて来た北御門二郎氏との、中学生たちを前にした対談(1992年、エミール社刊、澤地・北御門共著、『トルストイの涙』収録)で、ミッドウェーの海戦での「日本側の一番若い幼い戦死者は15歳です……日本は満14歳で志願して15歳で死んでいった。それこそ人を愛することも、あるいは失恋することも知らない、人生のほんの入口で死んでいった子供たちが含まれて帰ってこないんです」と、痛切な思いを込めて語っていた。

 そして、「そういう意味で私は……戦争に対して『ノー』と命がけで言わなきゃならないだろうという人間にとうとうなってしまったと思います。それが今から四十七年前の八月十五日に、ああ神風は吹かなかったと思い、それまでは何とかして戦争に行って死のう、死ななければ申しわけないと思っていた人間の人生が行き着いた場所です」とも。

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 長浜功氏はこの『国民学校』でも少し触れているが、他のところで、戦時中、皇民教育の旗を振ったファシスト教育者どもが戦後、民主主義教育者になりすまし、時代の寵児となって、しまいには進歩的な教育者として大学の学長までなりおおせた――など、とんでもない実例を実名を挙げて、紹介している。

 「戦後民主教育」など、一皮剥けば、その程度のこと。
 一枚、めくり返せば、そこには、戦時中の皇民教育、死の教育の、なおギラついた目が、こちらを睨んでいる。

 だから、検定歴史教科書なのだ、だから君が代・日の丸なのだ。

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 北御門二郎さんは東大英文科を中退し、農村で晴耕雨読(訳)の毎日を送り、生涯を絶対平和主義のトルストイとともに歩み続けた方だ。
 
 民主主義の仮面をかぶり、子どもに墨を塗らせて、過去の犯罪を隠滅して来た者どもとは、人間の格が違う。

 日本の教育改革は、戦時中、「戦争にノー」と言った北御門二郎さんの、絶体絶命の極限まで遡り、「死の教育」を否定するところから始めなければならない。

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 「生き残り」を賭けた、トーナメント戦及びバトルロイヤル戦に子どもたちを追い込み、「死の教育」をなおも続ける、日本の権力者たち。

 子どもに号令をかけ続け、子どもの自由を許さない、統制教育のネオファシストどもに、「死の学校」を運営するタリバンを笑う資格はない。

Posted by 大沼安史 at 09:21 午後 いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2009-07-25

〔渇っ! BOO仙人の連坊語録〕 誰が、日本語を殺したか?

 【注】 この「BOO仙人」(またの名をBOO寛、あるいは連坊小路の良寛さま???)の、ありがたい御言葉は、小生(大沼)の盟友、小笠原信之(フリージャーナリスト)のブログ、「閑居愚考」の「コメント」欄に、ななんと仙人さま直々に、お寄せになられたもの(あるいは、それに加筆したもの)であります。
 BOO仙人は、いずれ、『ヘイヘイ語録』として上梓したいものじゃの、などとおっしゃられております。(ヘイヘイ? 永平なら、聞いたこと、あるけど……???)

  ⇒ http://geocities.yahoo.co.jp/gl/nbsn001/comment/20090724/1248415752#comment

     誰が、日本語を殺したか?
 
 むむ、われらの世代の(コトバの)ベースは……たぶん何もない?!――お主の言う通りじゃな。

 それはなぜか?――わしはの、「国語」教育を含む、文部省の「国(=愚)民化・統制教育」が元凶と信じておる。子どもの生きる時間・空間を囲い込む「ネオ国民学校」の「国語教育」が元凶なんじゃ。

 そうじゃ「国語」。「国」語。「日本(人)語」じゃなく。

 「検閲教科書」で「正しい読解」を強制し、コトバをつくり・コトバで遊び・コトバで自己=他者=世界へ向かう道筋を全部閉ざしておる。

 サンズイを跳ねないから×、間違った解釈だから×、起承転結じゃないから×、字がキタナイから×、60点しかとれないから×、95点だから○、正しい答えだから花○

 なんじゃ、ウカンムリじゃなく、ナベブタに見えるとぉ~??
 なら、文部省国語統制局長(?)に聞くが、お前さん、あの良寛さまの、あの素晴らしい、崩しの漢字と仮名、どお、お考えかな?

 な、何…………キタナイ、跳ねてない、×だ、零点だ、「1」だ、落第だ、とぉ~~
 
 ま、それはともかく、ではなぜ、この国では、コトバの世界を「校門」で封鎖しておるか?

 コトバは未来を、可能性を拓くものだから、子どものコトバを封じておるのじゃ!
 コトバは人間の、新しい可能性を生み出すものだから、コトバを殺しておるのじゃ!

 コトバ(自分&他者&世界=希望)を持った新世代による「世直し」を怖がっておるのじゃ。

 「国語」とはの、日本人の「コトバ」をたわめる、「日本語」をつぶす、「日本人」を飼い殺す、仕掛けなんじゃよ。

 言論の自由・表現の自由・思想の自由……すべては「コトバの自由」、じゃがなもし。

 わしはの、この国のコトバは今、あの戦時中並みの低レベルへ落とし込まれているとみる。

 コトバを考えず、コトバを疑わず、自分のコトバを持たず、愛のコトバも忘れ、黙って、お国のために生きて死んで行け!

 誰がコトバを、本を殺したか?

 そう、きまっとる。「お国」の「国語教育」じゃがなモチ。

 

Posted by 大沼安史 at 09:14 午前 BOO仙人の連坊語録 | | トラックバック (0)

2009-07-21

〔教育コラム 夢の一枝〕 公立「中高」で「入試」をする頽廃 

 私が暮らす仙台市の連坊で、旧・県立宮城ニ女高の立替工事が進んでいる。公立の中高一貫校に生まれ変わるのだそうだ。

 受験産業が早速、騒ぎ出し、受験生(小学生)を相手に「模試」を実施する、と宣伝している。

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 この仙台の新設「中高一貫校」に限らず、「中高」の「中」は、もちろん、義務教育の段階だ。

 そこにどうして点数による「競争原理」を持ち込むのか?

 「高」ならまだしも、「中」で。しかもその「中」の狭き門に挑むのは、「小」(学生たち)である。

             *

 アメリカにチャータースクールという公設民営校がある。そのシステムについては省くが、地域住民全員の税金(の一部)が投入された準公立校である。

 けっこう、人気が高い。

 だから「選抜」することになるが、方法は――「籤引き」か「(空き)順番待ち」だ。

 公平の原則が徹底している。

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 当然だ。公立学校は――とりわけ義務教育段階の公立学校は、税金で(つまり、自治体を構成するみんなの負担で)運営される学校だから、中高一貫校といえども(教委の直接統制をまぬかれたチャータースクールといえども)、一部の「お受験組」のための学校ではないし、そんなふうに運営してはならない。

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 公立学校――いや、「学校」とはそもそも、「学力を引き上げる」場所であるはずだ。学力の低い子どもに、より注意を向け、援助する場所であるはずだ。

 入試をして、小学校から塾通いした(教育投資を一身に浴びた、教えやすい)「点数の高い子」を集める……

 教育界のモラルは、どこに行った? 

 どうしても「入試」するというなら、点の低い子から取りなさい……などといったら、あなた方はきっと、せせら笑うのでしょうね。
 
 
 

Posted by 大沼安史 at 02:07 午後 コラム・夢の一枝 | | トラックバック (0)

2009-07-19

〔教育コラム 夢の一枝〕 日本の夏休み……りんごの木の育たない夏  ブレイクの詩に寄せて  

 統制教育の国の、遅く、短い「夏休み」が始まった。

 小学生から夏期講習……。
 新聞に、新設高校の「模擬試験」の大広告。合格力の判定。

 日本の夏は学力の夏。点数、学力、キンチョーの夏。
 「夏休むな」の「夏休み」……

         *

 「学力世界1」のフィンランドでは、6月には「夏休み」に入る。休み返上で、学習塾に通う子はたぶん、いない。

 「学力日本1」の秋田では、教育界のスキャンダルが噴き出ている。長老ボスが、やたら金を借りまくって、使い込み、お亡くなりになった由。

 「教育界・統制ピラミッド」があるから、こういう不祥事が。
 大分も秋田も同じだ。人事に利権……子ども、そっちのけ。

         *

 「学力崩壊」の責任を、子どもや教師に押し付け、涼しい顔の文科省。
 統制の元凶、教育行政の当事者、責任者は、君たちではないか!

 ズル、ごまかし……それを英語では、Cunning と言う。

         *

 ブレイクの詩、「夏に(To Summer)」の一節。

   絹を脱ぎ捨て 流れに飛び越め!
   われらが谷は 誇りの夏を愛してる! 
  
         *
 
 何それ、試験に出る?
 出ないから、大丈夫。余計なこと、考えるんじゃない!

         *

 ブレイクの詩を、もうひとつ。こんどはもろ「学童(The School Boy)」!

   夏の朝 学校へ?
   ああ、うれしさ、全部、飛んじゃうよ
   疲れ果てた教師の残酷な目
   一日が台無しだ
   ため息と絶望だけだ

   But to go to shool in a summer morn,
      O! it drives all joy away;
      Under a cruel eye outworn,
      The little ones spend the day,
      In sighing and dismay

         *

 遊ばせちゃだめなんだよ、教えこまなくちゃだめなんだ!……予習、復習、ドリル、テスト。
 覚え込ませるんだ、詰め込むんだ、正解だ、マルだ、点数だ!

         * 

 ブレイクは言った。

 「リンゴの木はね、ブナの木に、育ち方、聞いたりしないよ」

   
 

Posted by 大沼安史 at 08:32 午後 コラム・夢の一枝 | | トラックバック (0)