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2008-02-17

〔コラム 夢の一枝〕  「春」が来ない国   「文科省」の諸君に贈る歌

 大好きな歌がある。音痴だけど、いつかカラオケで歌ってみたい歌がある。「奥入瀬」という歌だ。山本譲二の歌である。

 「奥入瀬(おいらせ)」は言うまでもなく十和田湖に発する清流だ。湖に向かう道は、流れに沿って続く。助手席の亡妻とともに、出張ついでに一度、ドライブしたことがある。新聞社を辞めて一緒に仙台に帰郷した翌年のことだ。いまから十年ほど前の初夏。

 横浜の部屋でときどきCDを流し、亡妻を乗せ、あの道をたどる。

 歌手も曲(桜庭伸幸・作曲)も素晴らしいが、歌詞もいい(北川文化・作詞)。

 出だしは、こうだ。

  ♪ 奥入瀬 雪解け 阿修羅の流れ 君をさがして啼く鳥 水面に浮かぶさだめ
    時はめぐり また春がきて……

                  ◇

 奥入瀬の雪解けを見たことはないが、歌詞通りの「阿修羅の流れ」だろう。詞を書いた北川文化という詩人(いや、歌人というべきか)は、たぶん、この「阿修羅」の一言に思いのすべてを注ぎ込んだのだ。

 なぜか、そうとしか思えない。

 詩人のいうように、めぐる春は阿修羅の流れで始まるのだ。冬の湖に別れを告げ、自責と憤怒を背に、さだめのごとく駆けおりるのだ。

 阿修羅のほとばしりは、冬に耐えた雪解けの水だからこそ、奥入瀬の清い流れとなりうる。
 
 CDを何度も流すのは、ことしもまた春が来ようとしているからだ、阿修羅の流れの潔さに見習いたいためでもある。

 敗戦4年後、1949年(昭和24年)の2月生まれ。わたしに59の春が始まる。

                  ◇

 この国に春は来ても、子どもたちには春は来ないのだな……土曜日(2月16日)の新聞を見て、つくづく思った。

 「学習指導要領 改訂案」の「発表」。
 
 「憲法」では「改正」と言うくせに、「要領」は「改正」ではなく「改訂」である。

 そう、いまの「要領」は、それ以前の「要領」と同様、正しく、間違っていない。だから「改正」とは言えないのだ。だから「改訂」とかわす。

 ここに「国家教育の絶対主義」がのぞく。本来、「試案」であり、ガイドラインに過ぎなかったものを、官報に載せることで一躍「法律」の座に祭り上げた、戦時以来、連綿と続く、「統制教育」の本質が素顔を見せるのだ。

 「コマ」を増やす(あるいは減らす)、「科目」を増やす(あるいは減らす)、「ゆとり」をつくる(あるいは、ゆとりを与えない)……それ自体は実は枝葉のことである。さじ加減である。

 文科省にとって死活的に重要なことは何か?――それは、自分たちが決めたことを全国の子どもたち全員に画一的に学ばせる、その権力の維持である。

 これを子どもの側から見ればどういうことになるか?
 知らない誰かが決めたものを決められた通りに、決められた内容・時間通りに強制的に学ばされる、ということである。

 これはそのまま、教師にもあてはまる。
 誰かが決めたものを決められた通りに、決まられた内容・時間通りに、強制的に教えさせられる(子どもたちに強制して教える)……

 何事かを学ばされる、ということは、その時間、別のことを学べないということである。
 何事かを教えさせられる、ということは、その時間、別のことを教えられないことである。

 学ばされることと学びたいこと、教えさせられることと教えたいことが一致することは、唯一対無数の関係にあるから、ほとんどあり得ない。

 つまり、文科省による「教育統制」の権力行使は、学びと教えの機会とそこから生まれる可能性を封殺しているのだ。

 「教育」の名の下に、「教育」を圧殺する「大罪」を、「要領」の看板を塗り替えながら犯し続ける、教育(官僚)権力=文科省。

 自分たちの犯している犯罪の重さ、罪深さを(戦時中は、「大義」のために命をささげる「小国民」を大量生産し、戦後、にわか民主主義者となってゾンビのように居座り続けた文部官僚らを、わたしたちは忘れない)を当事者として知り抜いているものだから、「学習指導要領」の変更を、「改善」あるいは「改正」とは(始原へと遡り、原罪を暴き出すことでもあるから)、口が裂けても言えないのである。

                  ◇

 戦時から続くこの国の教育統制のダムは、子どもたちの自然の流れを封じ込め、無気力なたまり水を、定期的に濁流として放水するだけだ。

 春の水を「学習指導要領」というコンクリート護岸の画一水路に流し込み、ほとばしりを抑えこんでは同じペットボトルに詰め込み、河口に行き着く前に分類して出荷してしまう。

 日本の子どもは自然の流れを知らず、海を知らずに育つのだ。その点では、養殖の鮭以下の存在である。

 学びと教えの機会(流れ)とそこから生まれる可能性(海)を封殺する、この国の統制教育――その腐った土台である「学習指導要領」を(「改訂」ではなく)「撤廃」もしくは「ガイドライン化」しなければ、この国自体が滅びかねないことは、あの「PISA(ピザ)調査」でも確認済みのことではないか。

 文科省の役人たちがそんなに「学習指導要領」にこだわるなら、「PISA」で「学力世界1」を維持するフィンランドに乗り込んで行って、強制して見給え。

 検定教科書を強制し、画一時間割を強制し、相対評価を強制し、テストを強制して見給え。

 かの「森と湖の国」の子どもたちも、日の本の少国民同様、学力低下に苦しむことを請け合いである。

                  ◇

 今回の「学習指導要領」の「改訂」案は、安部前政権下において枠組がつくられたものだが、その安部政権が教育改革の「お手本」としていた英国で、先日(2月8日)、ケンブリッジ大学が主導し、イングランドの初等教育を2年ががりで見直した「ケンブリッジ・プライマリー・レヴュー」という調査結果が発表された。

 それによると、イングランドの初等教育は、世界で最悪の「テスト漬け」教育となっていて、子どもたちに悪影響(damaging effect)を及ぼしている、というのだ。

 そんなものを、われらが安部政権は模範と仰ぎ、新指導要領づくりを続けていたのである。
 あきれてものが言えない。

 この調査は、ノルウェーのオスロ大学やアイルランド大学といった外国の教育学者らの協力で行われた。つまり、外側からの評価を――セカンド、サード、あるいはもっと多くのオピニオンをもとに、多彩な視点に立って行われたものである。

 翻って、文科省の「学習指導要領」の「改訂」作業はどう進められたか?

 内向・密室・単線・国粋的な作業だったことは間違いない。

 日本同様、「人間しか資源のない」デンマークという国は、PISAで学力が低下しているとわかると、制度の見直しのため、国外の教育学者たちに問題点を探ってもらっている。

 「他者」の目を通して、自分の問題点のありかをさぐり、病巣を除去する……そのぐらいの勇気を、どうして日本の文科省は持てないのだろう?

 「自虐」「自虐」と騒ぎ立て、「自慰」に耽っているだけではないか。

 君たちの「閉じこもり」こそ、若者(子どもたち)の命のほとばしりを妨げ、無気力な「閉じこもり」に追い込んでいる元凶ではないのか。

                  ◇
 
 最近、気になるのは、「学力」と「国力」の相関である。この国の「学力低下」は、「国(民)力低下」に重なる。(フィンランドはこの真逆、(PISAで見た)「学力」が高くて(国民ひとりあたりのGNPで見た)「国(民)力」も高い。

 この単純な等式の上で、日本が「統制教育」をこのまま続けてゆくとどうなるか?
 結果は「自虐的な自滅」である。自分の国の未来である子どもたちをイジメにイジメ抜くことは、この国の未来を危うくすることである。

 こうした結果が目に見えている以上、今回の「改訂」案発表で朝日新聞が載せた社説、「教師力の育成が先決だ」には賛成できない。

 それよりもまず、「統制教育」の解体が先決ではないのか。「学習指導要領の縛り」の撤廃が必要でではないのか。

 たしかに朝日の社説は「指導要領は学校現場に示した目安ぐらいに考える……そうした姿勢こそが文科省に求められている」と書いているが、求められるのは「姿勢」ではなく、指導要領の明確な「目安」化である。

 どうしてそうハッキリ、物申すことができないのか?

                  ◇

 日本の教育にも「春」は来なければならない。「国旗」「国歌」の強制で「君が代」「日の丸」が泣く、「沈黙の春」に代わる、「ほとばしりの春」が来なければならない。「雪解けの春」が来なければならない。

 文科省にも言い分もあるだろうし、さまざまな事情、制約があったことも理解できる。しかし、このままでいくとマズイ(ヤバイ)とは、君たちもわかっているはずだ。

 「ナショナリスト」を自称するわたしとしては、このまま行くと日本民族の自滅、日本の亡国に行き着いてしまうと本気で思っている。

 「教育亡国」(これは亡き、林竹ニ先生の言葉である。林先生とは、奥入瀬に近い蔦温泉で一度、お会いしたことがある)……これを防ぐには、「教師力を」といった個人的レベルへのすり替えではなく、制度的な改革に取り組む必要がある。

 その場合、まず大事なことは、ネオリベ的に「教育制度」を「解体」するのではなく、「教育制度」への多様かつ主体的な「参加」を促す、フレキシブルな受け皿としての「制度」を設計することである。

 そして、そうした新たな「制度」の中心に、子どもたち個人の、自分に対する教育の権利(学習権・学問自由)を保障する「エンパワーメント」の制度的な保障を据える。

 そうして、「自己」と「他者」が「みんな同じ」に囲い込まれない、自由な活動、時間と空間を、学校(教室の内外)に立ち上げる。

 そうしたところにこそ、文科省で働く、君たち「公務」員の使命があり、仕事のしがい・生きがいがあるのではないか。

                  ◇

 米国の権力の中心が実は「ホワイトハウス」ではなく「ペンタゴン」(国防総省)にあるように、日本の権力の中心は「官邸」にあるのでなく、同じペンタゴン(五角形の建物)の「文科省」にある……わたしもまた実は、こういう見方をする一人である。

 それほどまでに文科省の影響力は、人間しか資源のないこの国にとって、深くて大きいのだ。

 文科省の諸君よ、制度を知る君たちこそ、「春」がないこの国の雪を解かし、自責と憤怒を背に制度改革の「阿修羅」にならなければならない。

 制度を変える、「改訂」ではなく「改革」する……それが君らの「さだめ」ではないか。

 事務次官の銭谷氏よ、そのことは、大学の同期である君も、よく知ってのことだろう。

 時間はあまり残されていないが、志ある政治家はまだいる。

 文科省の官僚を引き連れ、一緒に阿修羅の群れとなって、ほとばしれ!

 子どもたちをして、海へ向かわしめよ! 

 傾き出したこの国の春の希望は、たぶん、そこにある(いや、そこにしかない……)。 
 

Posted by 大沼安史 at 01:44 午後 コラム・夢の一枝 |

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