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2006-10-28

〔コラム 夢のひと枝〕 「世界史」が「漏れ」た!――「学習指導要領」における「世界」の軽さについて

 「法的拘束力」を持つという「学習指導要領」の「現実」との乖(かい)離が明らかになった。高校の必修科目、「世界史」の履修「漏れ」をめぐって、「学習指導要領」が独占支配する「教育収容所列島」が揺れている。
 教育委員会の黙認のもと、各校で行われていた「裏カリキュラム」が突如、表面化して、「学習指導要領体制」が一気に液状化した。
 文科省による「統制教育」の虚妄の瘡(かさ)蓋がとれ、膿のたまった、爛れきった傷口が開いた。

 新聞によれば、受験を控えた3年生がこれから「世界史B」の4単位を取得しようとすると、1日6コマ(ひとコマ50分)連続授業で、「23日」もかかる。「世界史」だけに、かかりきりで。

 「23日間世界史一周」……そう考えれば、そんな、たいしたことではないようにも思える。人類の長い、長い歴史は、わが国の文科省の学習指導要領によって、たった「23日」に「縮減」され、薄っぺらな「文科省検定(検閲)版・世界史」の「教科書」のなかに押し込められている……。それに付き合うだけのことだから。
 
 そうはいっても、現役の3年生たちにとってはたまらない。最後の追い込みをかけるときなのに、受験対策の「試験勉強」の時間が盗られてしまうからだ。
 「いい大学」に入る、「有名大学」に合格する。それがあるから、小中高12年間のクソのような生活に耐えて来たのだ。「観点別評価」対策でやたら手を挙げ、「ハッキリした声」で答え、ストレスは仲間をいじめて発散し、偏差値を上げるためにアホな暗記を続けて来た。
 だからこそ必死で、「学校」では「塾」のことを隠し、「塾」では「学校」を嘲笑う、ダブルスクールを続けて来たのではないか。
 
 最後の3学期、ゴールは目前。
 大学に合格してしまえば、そんな「学校教育の悪夢」を払拭できるというのに、こんな瀬戸際になって、「世界史」という足枷が……。
 「世界史」なしで卒業していった先輩浪人たちバッカ得して、うちら現役生のこと、お前らナメてんのか、テメェラ、ヨォ、なんて毒づきたくもなるだろう。

 当然のことだ。受験が終わって一段落したら、文科省と教委を相手取って、集団で損害賠償訴訟を起こしたらいい。
 そう、相手は「文科省」と「教育委員会」だ。高校の先生たちではない。
 
 君たちもあの、東京の「君が代」強制卒業式のことを知っているだろう?
 「学習指導要領」通りやらない、といって、式場の現場に教委の役人が張り込み、「証拠」のビデオを撮って先生たちを「処分」した、あの事件だ。
 学校における何事も「決定」しているのは「彼ら」だ。現場の先生たちは、「手先」として使われているだけだ。
 
 「君が代」の「徹底」には狂奔し、「世界史」には目を塞いできた「彼ら」の責任が問われている。文科省と教育委員会の「怠慢」「指導力不足」による「必修外し」が原因なのだから、処分されるべきは「彼ら」である。

 その「彼ら」がどう逃げようとするか、しっかり見届ける必要がある。
 私見によれば、それこそ、生きた「世界史」の勉強になる。
 これから少なくとも数ヵ月、生きた「教材」が目の前で展開される。まさに「教科書的事態」が繰り広げられるはずだ。

 君たちが住むこの日本という国は、「世界史」のなかで――とくに20世紀の中盤以降、特異なカタチを採り続けて来た。
 ナチス・ドイツの「国民学校」に模してつくられた文部省による「1940年統制教育体制」は、単なる「試案」、目安に過ぎなかった「学習指導要領」を「法的拘束力」を持つものへと変質させ、「教育委員の公選制」を破壊することで、戦後民主主義下においてゾンビのように延命し、いまも列島の「学校」を「教育ラーゲル(収容所)」化して権力をふるい続けている。

 〔余談になるが、1951年に「教育委員の公選制」を「任命制」にして、教育委員会の独立性を破壊した国会法案審議において、参議院本会議場(!)への警官隊導入を参議院議長に申し入れたのは、安部首相の祖父の、「昭和の妖怪」こと岸信介・自民党幹事長(のちの首相)である〕

 つまり、日本はこの70年間というもの、「世界史=現代史」のなかで、非常に特殊な「時間=空間」を刻んで来た。ドイツはナチが一掃されたのに、日本では戦前・戦中の支配層が生き延び、それがいまなおこの国を「統制」している。
 その「教育面」における現れが文科省の「戦後統制教育」であって、それが何から何まで……「世界史」の果てまで、「学習指導要領」「教科書」「教員人事」を核とした「検定教育」で縛り上げている。
 
 言うまでもなく「歴史」は、「次世代」が生み出す「新しい時間」で創られていくべきものだが、若い諸君の「みずみずしい時間」を、「教育」の名において「漂白」「消毒」し、新陳代謝による世直しの可能性を消し去っているのが、日本の「現代史」の実相なのだ。
 別の言い方をすれば、日本人の「歴史」創造力を、若い芽のうちから殺いでしまうもの、それが「日本の教育」であり、日本の「現代」のゆがみの実相なのだ。

 だから、日本の「統制教育」からは、ほんとうの意味での「歴史教育」はすっぽり抜け落ちている。歴史教育は歴史の真実に迫るものでなければならないが、それは「検定」によって禁じられたものになっている。
 「現代史」では、とくに……。
 「現代史は試験に出ない」のは、それ相応の、日本的な歴史的理由があるからに他ならない。

 そうした世界にも稀な、日本特有のさまざまな「メタボリック教育症候群」が一気に顕在化した部位のひとつ(いじめも別の部位におけるシンドロームである)として「世界史」における「漏れ」問題が、この「美しい国」においてただいま発生し、この国の次世代を担うべき17、8歳の諸君が、日本の「現代史」の最先端・最前線――すなわち、この西暦2006年の10月下旬という歴史的なこの瞬間において、世界の人々が唖然として見守るなか、これはもう確実にギネスものの、異常な「世界史的事件」に直面させられているのである。

 これは現役生だけでなく、日本社会としても不幸なことではあるが、ある意味では幸運なことである。「言い換え」なし、「削除」なしの、「ナマな歴史的な現実」に学ぶことができるからだ。「学習指導要領」を軸とした「統制教育」の「リアルな事実」に「実況」でふれることができるからだ。
 これこそ、ほんとうの「社会勉強」であり、「現代史の授業」である。
 「統制教育」を見直し、日本の教育を「再生」させる、ひとつの好機として問題を直視し、制度改革につなげていく……。
 この問題は、受験生だけがひどい目にあえば、それで済むような問題ではない。

 
 それでは、今回の「必修科目の履修漏れ」が提起している、日本の教育における「メタボリック症候群」とは何か?
 こんご、政府(文科省)、教育委員会が演じる、「幕引き」のための「不条理劇」の「ナマ実況」を眺める「観劇ガイド」を兼ね、「見所」のポイントを提示することにしよう。

 ひとつは、この「世界史・履修漏れ」問題が、実は二重の意味で「構造的」な問題であることだ。
 そのことをまずもって明確化する。
 文科省・教委はこれをごまかそうとするはすだから、日本のジャーナリズムには徹底追究と責任の究明にあたってもらいたい。

 問題が「構造的」であるという意味は、これが個別の高校の問題ではないということだ。とくに公立の場合は、各校は教育委員会のコントロール化にある。指導主事がいて統率している。個別の高校が突出して出来るようなシステムにはなっていないのだ。暗黙の了解があって、組織的に「必修外し」が行われて来た。
 一部に「余計な勉強がしたくないという生徒の要望を聞き入れて」などと、責任を「生徒」にかぶせる言動もあると聞くが、「教員配置」を含め、あくまでも組織的・構造的な問題であって、責任は教委にある。
 日本のジャーナリズムはそのことを徹底して追究し、報じてほしい。
 日本の新聞各社は若者の「新聞離れ」を嘆いているが、深層取材と報道を続ければ、若い読者は必ず帰って来る。
 
 地域の「公立進学高」は「中心校」とも言われ、地方の「教育界」の「看板」であり、教委とのパイプも太い。下々(三流校、底辺校など)とは違うのだ、違っていいというエリート主義がはびこり、「やり放題」に流れやすい。そして有名大学への合格者数を上げるために、教委の後押しで「やり放題」を続ける。その結果が、このザマであるのだ。

 地方の教委がとるべき責任はしかし、「単独責任」ではない。文科省の責任でもあるのだ。
 文科省は若いキャリア官僚を地方教委に「教育長」などとして出向させている。地方の現場の実態を知らないはずがない。その点でも指導責任は重大であり、最低でも教委との「共同責任」は逃れられない。

 この点に関してとくに日本の新聞ジャーナリストらに望みたいのは、文科省出向者がいる地方教委での実態追究である。
 (ついでに言えば、あるいは、文科省のキャリアのなかに――あるいは、たとえば外務省のキャリア組のなかに――、「必修漏れ隠し」で難関大学の入試を突破し、ついで国家公務員上級試験をパスしたような輩がいないかどうかも調査してほしい。なぜ、こういうセコイことを言うか、については後述する)

 もうひとつの重要なポイントは、「学習指導要領」の「縛り」が「現実」と乖離してしまっていると言う事実だ。
 「要領」と「現実」の距離は、全国の進学高が「みんで渡れば怖くない」ほどに拡大している。「要領」は「現実」にそぐわない、と、「教育の当事者たち」が考えているのだ。そうして「必修外し」とその「隠蔽」(公文書偽造)を繰り返して来た。それも文科省・教委の公認もしくは黙認の下で。

 ことは「世界史」に限らないはず。「要領無視」は、もしかしたら、中学(とくに私立)レベルでも広く行われていることかも知れない。

 「必修外し」が「現実」とそぐわないのは、直接的には「大学入試」(という「現実」)とかみ合わないためだが、それだけではない。
 「必修科目」とされる重要な「科目」など建前みたいなもので、より広い、生きた現実、生きた世界と深く関わらない、薄っぺらで軽いものなのだ。

 先述の文部官僚や外務省エリートなら、「高校の『世界史』だって? そんなの履修しなくったって平気さ。おれたち、超難関大学を突破して、こうしてキャリアになってるジャン」と証言してくれることだろう。

 だから、そういうことがあるものだから、マスコミさえ、こぞって「世界史」について「漏れ」といい、そういう軽めの言葉を使って恥とも思わない。
 
 「漏れ」だって? 履修「漏れ」だって?
 「世界」の「歴史」を学ばないことは、その程度のものなのか?
 「世界」の「歴史」を学ばせないことは(高校で「世界の歴史」を「学ぶ」機会を奪うことは)、「お漏らし」程度に過ぎないことなのか?

 「現代の世界」を創りだした「世界の歴史」など、(「国史」=日本史や「数学」、「英語」などとちがって)実はどうでもいいものだという、軽い認識が教育当事者にあることが、そもそもの問題である。

 「ウマイヤ朝」についてはふれられていても「イラク戦争」の実態には迫らない「検定教科書」。
 「年号」の羅列、「断片的知識」の集積と化した、「検定世界史」の授業内容。 

 「世界史」の「漏れ」の背景には、朝鮮半島や中国を含む「世界の現実」と断絶した、「ナショナリスティックな歴史教育」の歪んだ意図さえ感じられる。
 
 そういう社会的風潮があったからこそ、「漏らし」て「捨てられた」のだ。

 かくして「世界史」は消えた!

 
 そして来春の卒業式では「君が代」「日の丸」が「要領」通り、一斉に強制される。文科省・教委はこれだけは漏らさないのだ。「履修漏れ」問題は何らかの「救済策」で乗り切り、おそらくは誰も責任を取らないまま、「卒業式」を迎えることだろう。
 
 そこに至るすべてを、現役の受験生諸君には当事者として直視していただきたい。そうして日本という国の生きた現状に学ぶのだ。「世界」なかで「世界史」のなかで、自分はどう「教育」され、どんな「社会人」になろうとしているか、学んでほしい。

 そうして数年後、「主権者」として最初の「1票」を投じるのだ。
 リベンジは、たぶん、その時、できる。
  
  

Posted by 大沼安史 at 02:09 午後 コラム・夢の一枝 |

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