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2006-10-19

〔コラム 夢のひと枝〕 「教育再生(産?)会議」 スタート

 「教育再生会議」が10月18日、官邸での初会合でスタートした。

 翌19日の朝刊各紙は「『脱文科省』困難」(読売)、「『百家争鳴』集約難航も」(毎日)など、成果を危ぶむ指摘が目立った。嵐のなかの船出といったところである。

 開会の挨拶のなかで安部首相は「『美しい国』を造る上での基礎は教育だ」と述べ、具体策を列挙してみせた。

 その冒頭に据えられたのは、首相公選の際、「公約」に掲げた「教育バウチャー」ではなく、「教員免許更新制度と学校評価制度の導入による質の高い教育の実現と学力向上」。
 そんな、手垢のついた小手先の「具体策」を前面に掲げたところに、「会議」の実質的頓挫を見越した、首相の「保身」と「逃げ道」づくりが透けて見える。

 
 「教育を再生」する会議ではなく、このまま、これまでの「教育」を「再生産」するだけの会議に終わるのではないか。

 「教育再生」というのなら、管理と統制で締め上げられ、生気を失った教師たちに、新しい免許状を手渡しても、それほど意味はない。

 日本の公教育の教師には、そもそも「マイカー」(自分自身の教え)がないからだ。文科省の「車」(学校)を「マニュアル」(学習指導要領、教科書、手引き)通りに「運転」するだけ。まるでお猿の電車である。お猿さんドライバーの免許を更新してどうなるというのだ。
  
 学力世界1のフィンランドでは、教師が教科書もカリキュラムも決める。現場での裁量と決定権を認める……本来の「教員免許」とは、そういうものである、
 権限のないものを更新してどうしようというのだ。

 「学校評価」にしても同じことがいえる。文科省に手足を縛られ、学習指導要領にぐるぐる巻きにされた「学校」のどこに、独自性を出す余地があるというのだ。学校に自由と裁量を与えて、しばらく様子を見た後でなら、外部評価もよかろうが、いまのような状況ではさほど意味がない。
 車のたとえで言えば、旧社会主義国家のダサイ「国民車」の低性能を、一台ずつ比べてみて、一喜一憂するようなものだ。

 そもそも、全国一律の「お役所学校」を運営しているのは、文科省なのだから、「評価」さるべきは、彼らの「お役所仕事」である。

 苦言を言い続けても仕方ないので、「教育再生会議」のために、いくつか「提言」をしてみたい。

 日本の教育の「再生」をいうなら、「検死」からはじめるべきだ。日本の公教育の死因を特定するのが先決である。
 何が日本の公教育を「死」に至らしめたか?
 日本の公立学校における「死に至る病」とは何か?

 これをはっきりと特定すべきである。

 簡便な方法がある。
 日本の「公教育の死因」を探る場合、その大元というか中枢は文科省なのだから、「検死」にあたるのは、自分たちが牛耳る「日本の公教育の裏も表も知る文科省の人間が最適任だ。

 で、日本の公立学校に批判的な目を向けることができる(あるいは向けている)文科省の官僚とは、どのような種類の官僚たちか?

 そう、こたえはひとつ、わが子を「公立」に通わせず、「私立」に通学させている官僚たちだ。

 「教育再生会議」はまず、「公立」を忌避した文科省の役人たちに、その理由を問うべきである。
 そうすることによて初めて、文科省の当事者の口から、日本の公教育の真の「死因」を学ぶことができるだろう。
 そうすることによって、もはや「蘇生」は無理としても、社会保険庁と同じように文科省の「解体的出直し」を図ることができるだろう。

 提言のふたつめは、せっかくの首相公約なのだから、「教育バウチャー」の問題に真正面からぶちあたることだ。
 会議の初会合では、委員のなかから「親孝行のできる子を」などという意見も出たというが、問題はそうした子どもを育てることが可能なシステムの構築である。いまの「文科省学校」の全国一律金太郎飴では、親孝行の桃太郎(?)が出ないというなら、出るシステムを考え出すしかない。安部首相やブレーンの下村官房副長官が本来「会議」に期待したかったのは、そうしたシステムの基本的な再検討、再構築であったろう。

 その意味でも「会議」のメンバー諸氏には、「教育バウチャー」の議論を、絶対に避けて通ってほしくない。
 安部首相にも、逃げずに踏みとどまれ、と言いたい。

 私見によれば、「教育バウチャー」の議論は、たとえ結果的にその「大規模な導入」に至らなくとも、死にかけた子どもたちをぎりぎりのところで救い出す、妙案を生み出す可能性を持っている。

 報道では、「会議」は免許更新・学校評価を優先させ、「バウチャー」は後回しとなる見通しだというが、それならそれで、「会議」のなかの推進派の委員らがたたき台(素案)をまとめ、「会議」の場に提示してみてはどうか。

 日教組も教育学者たちも、「バウチャー」に反対なら反対で、「会議」に意見書を提出してはどうか。

 「会議」がダッチロールに陥り、混乱のまま閉会に向かうだけなら、それはそれで、ご苦労様、と言って済ませることもできるが、再生しなければならない、崩壊した公教育によって、子どもたちが公立学校で「死」にゆく状態がこのまま再生産され、永続化されることだけは、あってはならない。

 「教育再生会議」を、政権のお飾り、延命装置にしてはならない。
 「会議」の失敗は、わが国の「1940年統制教育体制」の戦後版でしかない、「文科省公教育ゾンビ」の「再生」をもたらすだけだ。

Posted by 大沼安史 at 03:56 午後 コラム・夢の一枝 |

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