〔「美しい国」秘史〕◇ 安倍首相の祖父、岸信介氏は戦時中の1942年、日米交換船で帰国するグルー駐日大使を、軟禁先から一時解放し、敵性競技のゴルフで送別したが、ゴルフの誘いは岸氏の側が行ない、グルー大使側はいったんは拒絶していたことが、グルーの在任日記『滞日十年』で明らかになった! ★ しかし、2人の「ゴルフ会談」は結局は実現する。そこで何が話し合われたか? 孫の安倍首相の「今」にもつながる「戦後の日本の歴史は、ゴルフ場でつくられた」?
★ 写真はいずれもウィキより。
………………………………………………………………………………………
★ グルーの『滞日日記』(昭和23年、毎日新聞社刊、石川欣一訳)の「下巻」301頁以降に、「1942年3月29日」付の「ティリッツェ夫人」あての手紙が収録され、そこにこう書かれている。
*
「……岸氏が私たちにゴルフをさせる手配をし、その尽力が最後に成功したらしいことを告げました」
*
「しかし不幸にして私が、ゴルフへの招待を受けることの出来ぬ理由がいくつかあり、岸氏の尽力に対して彼はそれらの理由を知るべきだと思います。〔中立国の〕スイス公使もよほど前に同様な努力をしてくれましたが、私はその当初に、私ととしてはかかる招待には絶対に応じられぬといい、中止することを頼みました……」
*
★ グルー大使は岸信介氏の「尽力」による「ゴルフ招待」を(その時点で)断ったわけも、この手紙に記している。
「これは(ゴルフ接待は)われわれの抑留の記録に都合のいい色彩をそえる意図でのことと推測するのも理の当然で……」
グルー大使は、ゴルフ接待にこたえることが、日本側のプロパガンダに使われていることを恐れたわけだ。
*
★ しかしグルー大使は、ニューヨーク・タイムズ紙のピュリッツアー賞受賞記者、ティム・ワイナー氏が、その調査報道レポート、『灰の遺産 CIAの歴史』で明らかにしたように、日米交換船で帰国する前、岸信介氏と、お別れゴルフをする。
大使が岸氏のゴルフ接待に応じたのは、日本側が敵性競技のゴルフで、鬼畜であるはずの敵国、米国の駐日大使と「お別れプレー」をしたなどと、戦意高揚が任務の、日本の大本営御用メディアが報じるわけがないと納得したことが大きいと思われるが、なによりも岸氏の側から「熱心な誘い」があったからこそ、プレーをともにしたのだろう。
*
★ それでは、なぜ岸氏は、そんなにも執拗に、グルー氏とゴルフをともにしようとしたのか?
外交上の礼儀としては外務大臣が送別すべきなのに、どうして商工大臣の岸氏が一緒にプレーをしたのか?
岸氏はグルー氏と、グリーンの上で、何を話し合ったのか?
わたしはそこに日本の戦後史の起点となるべき、ひとつの秘密があるとみているのだが、想像をたくましくすれば、岸氏はその時点ですでに、日本の敗北を見通しており、グルー氏との間で(おそらくはスイス・ルートで)「和平交渉」のルートを確保、維持しようとしたのではないだろうか?!
*
★ こう考えてくると、A級戦犯だった岸信介氏が、巣鴨からなぜか釈放されたのも、このグルー大使との「ゴルフ会談」なしにはありえなかったと思えて来る。
*
★ 安倍首相は財界人や友人らとゴルフするのがご趣味のようだが、トランプ新大統領にドライバーを送り、フロリダまで出かけて行ってゴルフをともにした発想のルーツには、祖父、岸信介氏から聞かされた、グルー大使との送別ゴルフの、懐かしい「思い出話」があるのかもしれない。
あるいは「60年安保」を前に訪米した祖父の、アンゼンハワー大統領との「ゴルフ外交」のことも、心のどこかにあったのかもしれない。
*
★ この祖父にして、この孫あり。
「60年安保」を強行した祖父といい、安保法制を強行成立させた孫といい、この国の「歴史は、ゴルフ場でつくられる」――か?
◇
◎ 参考 本ブログ既報 2007-08-09〔重要NEWS〕 巣鴨釈放:「いまや、われわれは民主主義者だ」、「復活」のお披露目はCIA高官との歌舞伎座そろい踏み、エージェントの情報で国会での「反乱」を阻止 CIAに「恒久支援」を求める CIAに金で買われた岸信介首相 賀屋興宣氏も手先に ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者(ピュリッツアー賞受賞記者)の近著、『灰の遺産 CIAの歴史』で暴露
⇒ http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/08/post_4ac3.html
*
◎ ブログ「これで良いのか日本」 ⇒ http://yoiko00.blog9.fc2.com/blog-entry-66.html
Posted by 大沼安史 at 11:31 午前 | Permalink