〔フクイチ・スーパー核惨事 6年目の秋〕◎【民の声新聞】★ 「小春日和の仮設住宅に、飯舘村民の笑い声が響いた。東北本線・松川駅からほど近い松川第一仮設住宅(福島市)」―― 自慢の味噌「さすのみそ」のキノコ汁などがふるまわれた。避難先での「収穫祭」。「原発事故は、何でも根こそぎ壊しちゃうんだ。あれがなければ、どんな形にせよ村で仲間と一緒に味噌づくりを続けられたのに…」と、81歳の「おばば」はため息をついた。
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〔★は大沼〕 ◎【民の声新聞】:飯舘村・さすのみそ】受け継がれた味噌のDNA。「原発事故は食文化をも破壊する」。笑顔の裏にある、おばあの怒りと哀しみ~仮設住宅で収穫祭
(7日付け) ⇒ http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/blog-entry-74.html
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★ わたしは、拙著 『世界が見た福島原発災害 第5巻 フクシマ・フォーエバー』(緑風出版) に、こう書いた。
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俳人、松尾芭蕉はその『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行きはふ年も又旅人也」と書いた。
わたしたちの生きる月日も――わたしたちの一生もまた百代の過客である。
時間もまた、わたしたちとして、旅しているという人生観、時間感覚。
「フクイチ」を現在進行形で生きるわたしたちが、それぞれの一生をバトンでつなぎで辿り着くべき「一〇万年後のフクシマ」の姿を想像することは、ある意味、実にかんたんだ。
「3・11」という悲劇が起きる前の時代を想えばいいだけのことである。
たとえば芭蕉が曾良と「同行二人」、元禄二年(一六八九年)の春、鬼女伝説の黒塚のある安達が原に向かう途中、福島・須賀川あたりで目にし耳にした
「風流の初(はじめ)やおくの田植うた」
の風景を、歌声を想えばいい。…………
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「風流の初(はじめ)やおくの田植うた」―― 飯館村の味噌づくりも、そういう人びとの世代をつなぐ営為のなかで、受け継がれて来たことだろう。
それをいっきに台無しにしてしまった、日本政府と東電――。
「収穫祭」を取材した「民の声新聞」の鈴木博喜さんは、「おばば」はこう言ったと書いている。
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「原発事故は、何でも根こそぎ壊しちゃうんだ。あれがなければ、どんな形にせよ村で仲間と一緒に味噌づくりを続けられたのに…」と菅野さんはため息をつく。
「やわらかい孫の手を引いても〝孫見せ興行〟も出来なくなった。1人で暗闇に放り出されたようなもんだよ」。
来春、予定通りに避難指示が解除されたら佐須の自宅に戻るつもりだ。
「自分で食べる分くらいの味噌は作り続けたい」。
この日もトレードマークとなった愛らしい笑顔を振りまいたが「笑ってねっか生きられねえ。好きでギャーギャー言って笑っているわけではねえんだ。死ぬわけにはいかないから」とも。
村と味噌を愛したおばあ。
「原子力なんて人の手に負えるものではねえよ。でも、経済優先の人は命なんてどうでも良いんだろうなあ」と怒る。
ここにも、原発事故に翻弄され続ける人がいる。
Posted by 大沼安史 at 09:35 午前 | Permalink