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2016-04-22

〔新刊案内 訳者あとがき ―― ぜひお読みください 大沼拝〕

1605n
 ◎ 緑風出版 ⇒ 

http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-1605-7n.html
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 ◇ 訳者あとがき (次ページに続く)

 ◇ 訳者あとがき (初稿です)

 訳者であるわたしたち(呉春美、大沼安史)が本書の共著者のひとり、米国マサチューセッツ州フラミンガムにあるデモクラティック・スクール、サドベリー・バレー(Sudbury Valley)校の創始者、ダニエル・グリーンバーグさんを東京駅の新幹線ホームに出迎えたのは、一九九九年四月のことでした。

 その三年前、本書の訳者の大沼がグリーンバーグさんの主著のひとつ、Free at Last (邦訳新版は『世界一 素敵な学校 ~サドベリー・バレー物語』〔緑風出版〕。ドイツ語、中国語などにも訳されている。絶版となった邦訳旧版のタイトルは『超学校』〔一光社〕)を邦訳したことで、サドベリー・バレー校に対する関心が日本国内でも一気に高まり、兵庫県高砂市で「グローバル・ヒューマン・ブリッジ・センター(GHBセンター)」を主宰する児島一裕さんらの尽力で、日本での講演ツアーが実現しました。

 東京講演はツアーを締めくくるもので、上智大学で行われました。本書の訳者の呉はその際、講演の通訳を担当するなど、グリーンバーグさんに同行したハンナ夫人とも親交を深め、大沼ともども夫妻とファーストネームで呼び合う間柄がいまなお続いています。

 さて、その日本講演ツアーの翌年のことです。ちょうど一年後の二〇〇〇年四月に、グリーンバーグさんは米国内で開かれた国際会議「二一世紀の学び」で講演し、その席で本書の共著者となるラッセル・レイコフさんと出会うことになります。

 ラッセル・レイコフさんは世界トップクラスのビジネススクール(経営学大学院)、ウォートン校(ペンシルベニア大学 The Wharton School of the University of Pennsylvania)の看板教授(当時は名誉教授)で、システム理論にもとづく問題解決の権威、「問題解決のアインシュタイン(Einstein of Problem Solving)」(ハフィントン・ポスト紙)と呼ばれた人です。

 世界各地に「サドベリー・モデル」の新タイプの学校、「デモクラティック・スクール」を広げる学校改革の世界的なリーダーでもあるグリーンバーグさんと、〔日本的な(?)言い方をすれば)「ウォートン・ビジネススクールのカリスマ教授」であるレイコフさんは、初対面で意気投合し、さっそくメールで意見を交換し合うようになりました。

 時にグリーンバーグさん、六六歳。エイコフさん、八一歳。

 それぞれ独自の道を歩み、独自の高みに達した二人の経験と蓄積、知見と情熱がそのとき交差し、共鳴が生まれたのです。メールのやりとりは教育の現状批判から「理想の教育環境」のデザイン(設計)へと進み、本書のかたちで結実するに至りました。サドベリー・バレー・スクールの魂とウォートン・スクールの魂がひとつになって本書が産みだされたのです。

 二人の出会いから生まれた本書、Turning Learning Right Side Up: Putting Education Back On Track が米国の出版社からハードカバーで出版されたのは、二〇〇八年六月のこと(その後、ペーパーバック、電子版が出版されています)。エイコフさんは翌二〇〇九年に九〇歳でお亡くなりになり、本書はエイコフさん、生前、最後の出版になりました。

 エイコフさんの「カリスマ講義」はユーチューブなどにアップされていますが、本書の日本語訳文からも、整然と「理想のシステム」を設計し問題を解決して行く、エイコフさんのひたむきさが、肉声の響きとして伝わって来るような気がします。

 本書の内容は、これまでの「教育の常識」からすれば実にラジカルなものです。それは本書のタイトルを見るだけでも分かります。

 Turning Learning Right Side Up――正確を期して少々くどい訳し方をすれば、「裏に隠されていた学びの正しい側(サイド)を、ひっくり返して表に出す」ということになります。

 正しい側が裏返しになっており、間違った側が表に出ているのが、今の教育だというわけです。本末転倒した今の学習の姿を逆転し、一八〇度転換して、「教育を正しい軌道に戻さなければならない(Putting Education Back On Track)」というのです。

 本末転倒の実例は、「学び」が「教え込まれる」ことによって成立する(あるいは、「教えないと(こどもたちは)学ばない」という)現行の「学校神話」の中に端的に見られますが、本書の鋭くも徹底したラジカルな視点は、(日本のわたしたちの盲点にもなっている)「学校の倒錯」にも強烈な批判を投げかけます。

 こういう指摘です。

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    教室の外の世界、つまり現実世界では、人の能力(コンペタンス)を試験     (エギサミネーション)で決めることはほとんどありません。雇われた人は   ふつう、どのような仕事ぶりかで評価(エヴァリュエート)されます。リア   ルな状況に対処して知識を使いこなす力こそ、人びとが評価されるふつう   の方法です。教え込まれたことをどれだけ吐き出すかで評価されるわけで   はありません。
   
    学校というものはあらゆるレベルで、生徒・学生がどれだけ学んだかを   試験でもって(「測定」という言い方が嫌なら)決定します。だから生徒   ・学生には、答えるべき設問(クエスチョン)が、完全にこなさなければな   らない練習問題(エクササイズ)が、解決すべき問題(プロブレム)が与えら   れるわけです。

    与えられたものを自分の頭で、ほかの学習資源(リソース)にアクセスし   ないで答えろ、と迫られるわけです。人の答えを見るなど(カンニングだ   とされて)は一切、許されません。生徒・学生は事実上、独房の監禁状態   の中で試験されるわけです。

    このように教育世界で繰り返し演じられているシナリオは、現実世界で   期待されていることの真逆をいくものです。

    大人が問題を与えられたとき、人の助けや外部資源を使わずに問題を解   決することはほとんどありません。大人に期待されているのは、問題を解   決するのに必要なものは何であれ、それを見つけ出して使いこなすことで   す。

    学校での「ズルする」は、学校の外に出た途端、「外部資源の有効活用   力」として非常に価値あるものと見なされます。自分ひとりでは問題をあ   まり解決できなくても、ほかの人の助けさえあれば問題を数多く解決でき   るなら、そういう人のほうがその逆の人よりも価値がある、とされます。

    学校のこどもたちは、外部資源を利用してリアルな問題を解決する機会   を与えられていません。こっそり学ぶしかないのです。

    これだけみても、次のことが言えます。学校は「現実」に対処する外部   資源の活用法を学ぶことを奨励し促進すべきです。 (本書 ●ページ)

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 長い引用になりましたが、グリーンバーグさんとエイコフさんが「真逆な(ダイアメトリカリー・オポーズド)かたち」で現れているとする教育における倒錯現象は、「学び」だけでなく「教える」面にも見られることです。

 米国に限らず、わたしたち日本の「教育神話」でも、「教える」人は教え込む教師でなければならなりませんが、学生(生徒)は教えることで実は学ぶ人になるのです。言い方を換えれば、教えることは本来、当人が学ぶことであり、学生や生徒たちは教えることで最も学ぶのです。

 ややこしい言い方をしてしまいましたが、本書が紹介するウォートン・ビジネススクールでのエイコフさんの経験を知れば、その意味が分かります。

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    ある日、ペルーとブラジルの院生が二人そろって、わたしの部屋にやって来て、中進国向けの発展計画策定プログラムを開講してほしいと言いました。学科には中進国で計画策定に携わった経験のある教員が五   人もいる。一方、中進国出身の院生は一三人いて、この二人を含む全員が開講を切望している、というのです。そこでわたしは院生代表の二人に、こう言ったのです。

    「開講しましょう。ただし、教えるのは君たちだ。君たち一三人で教えてもらいます」

    代表の院生二人はビックリして固まってしまいした。そしてわたしにこう聞き返したのです。「じゃぁ、誰に教えることになるのですか?」

    わたしは答えました。「その五人の教員たちに教えるんだよ」

    院生代表、「でも五人の先生はもう十分、分かっていますけど」

    わたし、「なら、その五人は君たちの講義を聴くことで、自分たちが実はどれだけ自分のコースのことを分かっていたかチェックできることになるね」

    院生代表はまだ不安げに、わたしにこう言いました。五人の先生たちはちゃんと宿題をやるだろうか、毎回、出席するだろうか、学生としての務めをちゃんと果たしてくれるだろうか。

    わたしは確約しました。君たちの講義が受講に価するものなら、五人の教員たちはみな、君たちの「よき学生になるであろう」と。

    院生たちは開講準備に一学期をかけたいと求めて来ました。許可しました。

    講義が始まりました。一三人の院生がそれぞれ祖国の開発計画についてプレゼンしたのです。わたしも受講しました。それはわたしが参加した講義の中で最高のものの一つでした。

    コースを組織したペルーの院生は世界銀行の首席戦略プランナーになり、その後、ペルーに帰って同じような役職に就きました。そのペルーの院生の「代理」を務めたブラジルの院生も帰国して、ブラジルの主要州政府の首席プランナーに就任したのです。その他の学生もみな、大学院を出たあと帰国し、開発計画の仕事で活躍するようになりました、彼らは教えることで十分に学んだのです。教えられて学んだのではなく、自分が教えることで学んだのです。(本書●ページ)

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 ここでも真逆にされていたことがひっくり返され、結果を出しています。

 エイコフさんのウォートン校では大学院生たちが自分で自分の教育を編成するコースもあって、自分の学びを学んだ人が最高の人材として社会に巣立ったそうですが、この自分の関心に基づく活動、遊びを含む自学自習――自己動機による学びは、サドベリー・バレー校のこどもたちが日常的に続けていることです。

 こうした学校や教育をめぐる倒錯の数々は本書本文の記述に譲るとして、グリーンバーグさんとエイコフさんの二人は、こうした本末転倒をひっくり返す「理想の教育環境」の姿を設計、デザインしています。それも遠い先の夢物語ではなく、現実的に可能なものとして描き出しています。

 既存のものが昨夜、いっぺんに消滅したけれど、既存のものを出現させた状況は今朝も手つかずのまま残っている、そうした状況の中で、どんな「理想の教育環境」を産み出せるきか、具体的な提案を行っています。

 エイコフさんはこれまで、(病気の治療ではなく)健康維持・増進に対して報酬が支払われる保健医療制度や、国連を「デモクラティック国家連合(The Union of Democratic Nations)」につくり変える提案を発表するなど、さまざまな社会システムの改革案を提言していますが、教育全般の改革の提言はこれが初めてのようです。「システム理論」の権威としての実績と経験が、グリーンバーグさんの実績と経験と融合し、研究者人生の最終ステージにおいて、「理想の教育」を語り遺してくれました。

 二人が「一つの声」となって提唱する「理想の教育環境」のデザインの中身については本文でお読みになっていただくとして、本書の注目点としてひとつ挙げておきたいことがあります。

 それは社会システムとして「理想の教育環境」を現実化する財政的な裏付けとして、「バウチャー」の導入を提唱していることです。こどもたち(家庭・保護者)、若者に学費を金券(バウチャー)として交付するこの制度は、教育の主体者を教育官僚制から学習者当人にひっくり返し、財政的に公費で支えるものです。

 この制度は、市場原理主義者のミルトン・フリードマンが推進の側に立ったことで一時、警戒心を呼び覚ましたものですが、グリーンバーグさんとエイコフさんは、「リベラル・デモクラシー」の枠組の中で、あくまでも「リベラル・デモクラシー」を守り育てていくために、その担い手になる市民を育てていくために、その導入策を具体的に提案しています。

 体制の頂点から財政でコントロールし、教育現場を縛っていく従来の手法は、米国ばかりか日本でも改められるべきです。その点で一考にあたいする提案ではないでしょうか。

 訳者であるわたしたち二人が、グリーンバーグさんから本書を寄贈されて、七年の歳月が流れました。この間、大沼は二〇一一年三月十一日の「東日本大震災」を宮城県仙台市で経験するなど不測の事態も重なり、共同の訳出作業は遅れに遅れました。しかし、本書日本語版の出版の意義は、ある意味でとても不幸なことでありますが、この間、ますます高まったと言えます。

 たとえば学校での「いじめ自殺」が止まりません。文科省などもうどうしてよいか分からず、手を上げてしまったようです。教師たちも表面は取り繕っていますが、苦しんでいます。だから、仙台の中学校で実際あったように、自殺した生徒を「転校した」と言ってしまうようなことが起きているのです。

 学校でこどもたちを死なせてしまって、どうするつもりなのでしょう。学校はこどもたちが生きて育つ場所であるはずです。その「生の学校」が、いつの間にか本末転倒し「死の学校」になってしまっている……。残念ながらこれが、今のわたしたちの教育の現状ではないでしょうか。

 だからこそ、わたしたちもまた、学校を正しいかたちにひっくり返さなければなりません。

 グリーンバーグさんとエイコフさんは「理想の教育環境」のデザインの土台に、こどもたち(そして大人たち)の基本的人権と自由を据えています。そしてそれが学校の「リベラル・デモクラシー」をかたちづくるものだとしています。こどもたち一人ひとりの人権と自由が擁護される教育環境がそこにあれば、陰湿ないじめがはびこることもないはずです。

 グリーンバーグさんのサドベリー・バレー校には「司法委員会(JC=ジャスティス・コミティー)」という校内組織があります。こどもたちが運営しています。ルール違反、人権侵害などの問題が提起されたときに解決に動く組織です。

 「ジャスティス」とは本来「正義」を意味します。サドベリー・バレー校では、このJCシステムでもって校内の社会正義が維持されています〔『世界一 素敵な学校』の「自由と正義」を参照〕。日本の学校にも同じようなシステムがあれば、「いじめ自殺」のような悲劇もなくなっていくのではないでしょうか。

 それに加え、わたしたちには「少子化」という、この国の将来にかかわる大問題があります。希少化するこどもたちの創造性、多様性を画一的な管理教育でつぶしてはいけません。こどもたちをつぶしたら、輝かしき未来はこの日本に生まれないです。

 訳者のわたしたちはともに教壇に立った経験のある(あるいは今も教壇に立つ)教育者の端くれですが、共訳作業を通し、つくづく思ったものです。反省しながら思ったものです。

 今の日本の学校教育を、これ以上、放置してはならない。わたしたちはわたしたちなりに「理想の教育環境」を設計して、現状を打破しなければならない、と。

 二〇〇九年の暮れにお亡くなりになった評論家の加藤周一さんは、その最後の新聞コラムで「さかさじいさん」というキャラクターを登場させました。物事を逆(さか)さまに眺めて世の真実を引き出す、「話し好きな、さかさじいさん」なる隣人です。

 その「さかさじいさん」が今の日本の教育の惨状をとくと眺めれば、おそらくはグリーンバーグさん、エイコフさんと同じ結論に達し、「ひっくり返しなさい」と一喝するような気がしてなりません。

 日本の教育は、巨大な逆三角のピラミッドが、あらゆる重圧を教育現場の一点に集中させています。教室のこどもたちが、教師たちが、その重圧にさらされ、もがき苦しんでいます。その構図をひっくり返し、「正しい学び」が生起するかたちに教育環境をつくり変えるべきです。

 こどもたちがそこに生き、そこで育つ教育環境を、その子の独自性を認める権利と自由を保障するものにつくり変えれば、そこから巣立った世代が次々に生み出す社会は、「死ぬまで働け」とか「雇止め」といった、いまのような殺伐としたものではなくなっていくことでしょう。

 本書の中でエイコフさんは、「失敗」が「学び」を成立されせるものだと(「成功」が「学び」を産むという一般に信じられた「教育神話」とは真逆に)説き、失敗にひるむなと社員を励ました米国の某大企業の最高経営責任者の言葉を紹介するなど、企業、あるいは働く現場の今度あるべき姿にも触れていますが、倒錯を正しくひっくり返した「理想の教育環境」は、そうした新しい職場環境をつくる人びとを社会に送り出すものになるでしょう。

 グリーンバーグさんとエイコフさんのメールでの対話が始まったばかりの頃、グリーンバーグさんのサドベリー・バレー校に、珍しくもブラジルから、一通のメールが届きました。発信人の名前は、「リカルド・セムラー(Ricardo Semler)」。

 それを見て、グリーンバーグさんはすぐにピンと来たそうです。それでさっそく、こんなメールを返したそうです。「あなたは、あのマーヴェリック(異端者、一匹狼の意)だね、白状しなさい」と。

 リカルド・セムラーさんは親から引き継いだ倒産寸前の会社を、サドベリー・バレー校のような、自由と権利が尊重された、平等で上意下達のない水平の企業形態に切り替え、闊達な企業文化をつくることで見事再生した、立志伝中の人物です。

 そのセムラーさんが当時、米国で出したばかりの本のタイトルが、実は『マーヴェリック』でした。

 グリーンバーグさんはその本をたまたま読んでいて、セムラーさんのことを知っていたのです。そ

 れで、「あなたはマーヴェリック(異端者)であるに違いない。自分がマーヴェリックであること(異端者であること)を、まずは認めなさい」と茶目っ気をこめ、メールで返したわけです。

 (米国でベストセラーになったこの『マーヴェリック』本は、邦訳が出ています。『セムラーイズム 全員参加の経営革命』〔ソフトバンク文庫〕岡本豊訳)

 これに対するセムラーさんの返事がふるっていたそうです。「いや、わたしは最早、マーヴェリックではありません」

 セムラーさんはつまり、社員の人格を否定するような企業文化を維持するほうが時代遅れで、社員が主体性を発揮できる自分の経営法は今や、異端でもなんでもなくなっている、と言いたかったわけです。
 
 日本でも、たとえば岐阜県には故・山田孝男さん(一九三一~二〇一四年)が劇団仲間と立ち上げた「未来工業」という会社があり、「全員正社員(非正規雇用なし)・残業なし・脱ノルマ主義」を徹底して業績を上げ、注目されています。「人間尊重」がモットーだそうです。

 そして日本にも、実はすでに、こどもたちの自由と権利を尊重する、サドベリー型のデモクラティック・スクールが各地に出来ています。沖縄、兵庫、愛知、岐阜、山梨、神奈川などにフリースクールの形態で続々と誕生しています。

 今や異端でもなんでもない、ラジカルでもなんでもない、当たり前のこと、普通のこととして、日本の風土に根付き出しているのです。

 異常なのは、現状です。ナチュラルで自然な、当然の学びが裏返しにされ、封印されています。それをひっくり返し、変えていかねばなりません。

 本書は「理想の教育環境」を現実化していく、基本設計の書です。改革を志す教育関係者の方々に、教職を目指す若い人たちに、倒錯した学校のなかで苦しんでいる生徒のみなさんに、ぜひ読んでいただきたい本です。

                                呉春美 大沼安史

                                                                            

Posted by 大沼安史 at 03:34 午後 |

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