〔コラム 机の上の空〕 ◆ 「緑」と「死の灰」 ―― 日印の岐路、または「緑の父(グリーン・ファーザー)」の夢
インド人から「緑の父(グリーン・ファーザー)」と呼ばれた日本人がいる。
杉山龍丸(たつまる 1919~1987年)さんだ。(ウィキは ⇒ こちら )
昭和30年代、インドに赴き、パンジャブ州で「国際道路(国道1号線)」沿いにユーカリを緑林して緑化の成功、道路沿いを農地に変え、ヒマラヤ山脈の南麓に続く乾燥した広大な「シュワリック・レンジ」の緑化にも取り組んだ人物――
「インド緑化」に私財と情熱を投じ、生涯を終えた九州(福岡)男児である。
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まずは、こちらのユーチューブを見ていただきたい。
( ⇒ 2013/06/13 に公開 「インドの砂漠を緑に変えた グリーンファーザー 杉山龍丸」 )
実話がテレビ番組化され、それがユーチューブにアップされた。
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わたしはこのビデオを観る前、杉山龍丸さんのご子息、満丸さん(高校教師)が書いた、『グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡』(ひくまの出版)と、龍丸さん自身が書きのこした戦時中の手記(満丸さんが編集)『グリーンファーザーの青春譜 ファントムと呼ばれた士(サムライ)たち』(書肆心水)の2冊の本を読んでいた。
テレビ番組化にあたって(時間的な制約もあり)端折らざるを得なかった部分を、ここで補足しておこう。
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杉山龍丸さんとインドをつないだのは、陸軍士官学校で同級生だった佐藤幸雄さん。
終戦後の東京・秋葉原の路上で、佐藤さんが龍丸さんを呼び止めたのが、そもそもの始まりだった。
声をかけた佐藤さんは僧衣をまとっていた。
戦後間もなく、日本山妙法寺の藤井日達上人の弟子となり、インド人民を飢えと病気から救おうとする、あのガンジー翁を支援する運動に携わっていた。
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東京から生まれ故郷の福岡に戻った龍丸さんのもとに、インドから若者たちが訪ねて来るようになった。
インドに渡った佐藤さんが送り出した若者たちだった。
そんなインドの青年たちに龍丸さんは農業を教えた。陶芸の窯元でも勉強させた。
龍丸さんの活動を知ったインドのネール首相が、特使を派遣し、謝意を表明したのは、そのころのことである。
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「これに大感激した」龍丸さんはさっそく知人た学者たちの協力を得て、「国際福祉協会」を設立し、来日したガンジーの弟子たちと話し合いながら、インドの自立支援に本腰を入れ始める。
インドに初めて出かけたのも、このころ――昭和36年(1961年)のこと。
藤井日達上人とともにガンジー翁の住まいの跡を訪ねたとき、龍丸さんは、「自然と菩提樹の下で合掌してしまった」そうだ。
ガンジーの弟子たちと、跪いて祈りをささげたという。
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その年の暮れ、龍丸さんはインド・パンジャブ州のピラト総督から招かれ、意見を交わした。
「インドの生活を豊かにするために、どうしたらいいか」と問う総督に、龍丸さんは提案した。
事前に調べ上げ、用意していた計画だった。
「ニューデリーから、アンバラを通り、アムリッツアル市へ走っている国際道路沿いに」(砂漠でも育つ)ユーカリの木の苗を植える。
全長470キロ。国際道路の「沿線両側20メートルに2本ずつ、4メートルの感覚で飢えていく」。
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提案は実行に移され、国際道路沿いのユーカリの苗木はすくすく育って、大木へと成長。
まわりの土地は「稲、馬鈴薯、麦の三毛作(1年に3回収穫できる)」が可能になった。
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龍丸さんが次に取り組んだ「シュワリック・レンジ」の緑化プロジェクトも、パンジャブ州当局の依頼によるものだった。
同レンジ(丘陵地帯)は標高300~700メートル、総延長3000キロ。
乾燥化が進み、土砂崩れが続く「砂漠の丘」だった。
この砂漠の丘で龍丸さんは「サダバール」というサツマイモの仲間の植物を植え、これが根を張って土砂崩れを抑えたところにユーカリの木を植えた。
やがて「砂漠の丘」は「緑の丘」に変わった。
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冒頭で、龍丸さんをインドにつないだのは、日本山妙法寺の僧となった陸士の同級生との出会いだったと書いたが、ユーチューブのテレビ番組にもあるように、龍丸さんを生んだ杉山家の血脈に、インド支援に赴かせるものがあったことも、見逃してはならない事実である。
龍丸さんの祖父、杉山茂丸(1864~1935年)は、玄洋社の頭山満とともに、インドから日本に亡命してきた独立運動の闘士、ラス・ビハリ・ボースを守り抜いた人。(茂丸は伊藤博文の暗殺を企てたこともある国士。茂丸の長男は作家、夢野久作であり、その久作から龍丸さんは生まれた)
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茂丸は戦前、「これからがアジアの時代だ。そして、国の基盤は農業だ」といって福岡に広大な「杉山農園」を拓いた。
孫にあたる龍丸さんは、この土地を売却して得た資金でインド緑化を進めることができた。
そこに祖父・孫をつなぐ運命的なものを見ないわけにはいかない。
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さて、龍丸さんの話に戻ると、インド植林に尽力した「グリーン・ファーザー」としての活動は、1986年、脳溢血に倒れたことで絶たれた。
活動はそこで途切れたが、龍丸さんに、こんな夢を遺して龍丸さんは逝った。
それは、インドの「デリーから北西へ約2000キロ行ったところに広がるラール砂漠の緑化」。
その広大な砂漠を緑の平原に変えることが、龍丸さんの次の仕事だった。
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それにしても、なんともすばらしい人物が――九州男児がいたものだが、最後にひとつ、ここでなんとしても記しておきたいことがある。
それは、杉山龍丸さんが戦時中、陸軍軍人(航空隊の整備隊長)としてフィリピンで戦ったときのことである。
龍丸さんは「油がなければ精神力でやれ。東条首相は『空気で飛行機を飛ばせ! 油なしで飛行機を動かせ』と言ったではないか!」という参謀に対して、「馬鹿も休み休みというが、そんな馬鹿な話をまともに受けているのですか」と、真正面から反論したそうだ。
そういう骨のある軍人でもあったわけだ。
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龍丸さんはまた、陸軍航空隊時代の手記に、
「……大本営その他の陸大を出ただけで緒戦の戦勝しか経験のない人々、参謀、軍司令官では判断が難しく理解できないようなものであった」(『グリーンファーザーの青春譜』118頁)
「日本の陸軍というより日本の陸海軍は、植民地軍や満州その他の匪賊、馬賊、軍閥の私兵に勝つことはできても、本格的な戦争、戦闘に勝つ要素も態勢も全くできていない。これが現状であった」(同101頁)
――とも書いている。
(付け加えれば、龍丸さんは「日本の敗戦という問題を陸軍航空技術学校時代に真剣に考え、東条暗殺計画や戦争中止運動までし」た人でもある。『グリーンファーザーの青春譜』115頁)
日本はなんとバカな戦争をしてアジアに迷惑をかけてしまったことかという懺悔と反省が、戦後、龍丸さんをインド緑化に駆り立てた思いの底にあったような気もする。
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以上、「緑の父」こと、杉山龍丸さんの生涯を、いま――2015年・年の瀬の日印関係のなかで振り返れば、安倍政権が進めようとしているインドへの原発売り込みは、ますますあってはならないことのように思われる。
インドの大地を死の灰で穢すより、緑化支援の方が大事だ。
龍丸さんがし残した「ラール砂漠の緑化」を進める方が、よほどインド人民に喜ばれることではないか。
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あの無謀な太平洋戦争に突入した東条内閣の閣僚の孫がいま、インドへ原発を売り込み、その無謀さを軍の内部で批判していた(その東条を排除しようとした)ひとりの航空技術将校が、戦後、非暴力・平和主義者、ガンジーの弟子たちの求めで、インドの緑化に尽くしていたという、歴史の因縁と、時代の巡りあわせ。
緑化か、死の灰か――日本の進むべき道は、杉山龍丸さんの人生の軌跡におきて、おのずと明らかである。
Posted by 大沼安史 at 06:55 午後 | Permalink