〔夕陽村舎日記〕◆ ぼくらは科学になる
岡山山中、吉備高原の山里から山形市に移って、一ヵ月が過ぎた。
南東の風をどうしても気にしてしまう。蔵王連峰の向こうから吹いてくる風だ。
スイス気象台の拡散予報をチェックし、空を見上げ、雲の流れを確認する。
紅葉は、こんなにも色鮮やか。福島の山々も燃え出していることだろう。
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今日は午前中、翻訳の仕事が捗って、午後、『チェルノブイリの祈り』の、付箋をつけていた箇所を、身を入れて読んだ。
ノーベル平和賞を受賞した、ベラルーシのスベトラーナ・アレクシエービッチさんの聞き書き(松本妙子訳、岩波書店)のなかの、「空」――につけていた付箋の部分を。
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被曝したチェルノブイリの子が、こうスベトラーナさんに聞いた。
おばさんは作家なんでしょ? おしえてください、(ママが病院から逃げ出し、おばあちゃんの家に隠れて、ぼくを産まなかったら)ぼくがいなかったかもしれないって、どういうことですか? そしたら、ぼくはどこにいるんですか? 空の高いところ? ほかの惑星?
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別の(たぶん、もっと年上の)「ぼく」が言った。
ユーチャ、カーチャ、ワヂム、オクサーナ、オレク。こんどは(自殺した)アンドレイ。アンドレイはいった。「ぼくらは死んだら、科学になるんだ」
そして「ぼく」は最後に、こう語る。
いまでは、空はぼくにとって生きたものです。空を見あげると、そこにみんながいるから。
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それにしても、「科学になる」とは……?
英訳本でたしかめたら、たしかに「科学」だった。「科学者」ではなく!
どういう意味なのだろうと考え込んでしまった。
科学のデータになる、科学的な事実(事件)として処理される、という意味なのだろうか?
いや、違うような気がする……。
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わたしが「空」にこだわったのは、スベトラーナさんの本の題辞に、「われらは大気なり、大地にあらず……」という「M・ママルダシビリ」という人の言葉があったからだ。
ママルダシビリさん(英語表記では、Mesab Mamardashivili)は、グルジアの哲学者。
題辞の英訳は、こうだ。
We are air, we are not earth……
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スベトラーナさんが、なぜ、この言葉を巻頭に置いたのか、最初は分からなかったが、本文中に、上記のような、こどもたちの「空」(大気と同義)への言及があるのを知って、わたしなりに納得できた気がした。(だから付箋をつけていた)
「空」――とは、チェルノブイリのこどもたちにとって「空」とは、もしも生まれていなかったら、いるかもしれないところであり、死んだ友だちが、そこにみんないるところなのだ。
こどもたちがいて、大人たちがいる、チェルノブイリの空!
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(そしてまた……)わたしはアンドレイ君が言った「ぼくらは死んだら、科学になるんだ」(の少なくとももうひとつの)意味もわかったような気がした。
今日になって、ようやく。
「科学になる」とは、チェルノブイリのような悲劇をなくす「科学」に、空の上の自分たちがなるんだ、地上では科学者にならなかった自分たちが、魂<意識)の集合として、被曝の苦しみを救済する「科学」になるのだ――ということではないか。
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小出裕章さんが新著、『原発と戦争を推し進める愚かな国、日本』(毎日新聞出版)のなかで、「少しでも未来の人たちの負担を軽くするために、半減期の長い放射性物質を、半減期の短い放射性物質に変換する研究に将来携わろうと思い、大学では物理学を学ぶことにしました」と語った高校生のことを紹介していた。
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チェルノブイリの空は、その高校生がその下で生きる日本の空にも……フクシマにも、ここ山形にも、ひとつの大気として、続いている。
これはたしかなことだ。
アンドレイ君が残した言葉は、日本語(と英語)に訳された活字になって、いまわたしの机の上にあるが、彼の決心の健気さは――純粋さは、わたしたちのなかにも すでに、生まれている!
これもたしかなことだ。
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空に昇った思いこそ、地上の者がともに目指すべき、核の悲劇を超える科学である。
Posted by 大沼安史 at 09:30 午後 | Permalink