〔あじさいコラム〕 「核惨事」を招いた「絶対安全神話」―― いのちは、脱原発の、うれしく、たのしい、平和な世界を望む。
『核科学者報(BAS Bulletin of the Atomic Scientists )の編集長、ケネット・ベネディク女史が、「フクイチの3周年」コラムで、事故の背景の核心には、「絶対安全神話(the myth of absolute safety )」があった、指摘した。
◎ Bulletin of the Atomic Scientists : The myth of absolute safety
(26日付け) ⇒ http://thebulletin.org/myth-absolute-safety7007
単なる「安全神話」ではなく、「絶対安全神話」が、フクイチ核惨事を招いた真の問題であった、と。
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その通りだと、わたしも思う。
「神話」が招いた「惨事」だった。
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そもそも、日本という「原子力帝国」には、「国づくり」のための「神話」が必要・不可欠だったのだ。
「原子力国家」を生みだすには、「神話」が必要だった。
ベネディクト女史も言うように、「神話」を「神話」とするために「メディア」が使われ、「神話」は「神話」として、国民の意識に中に定着した。
Business leaders and government officials who favored nuclear power used media campaigns to educate citizens about its benefits and assure them that power plant operations were safe.
その意味で、かつての朝日新聞科学部は――朝日新聞の岸田純之助氏は、「日本原子力国家」創世神話の述者の役を全うしたのである。
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「日本原子力国家」の「神話」が、「安全」を歌い上げなければならなかったのは――言うまでもなく、「原子力=原発」が「安全」でなかったからだ。
「絶対」なる枕詞をつけねばならなかったのは、「原子力=原発」が「絶対」・「安全」でなかったからだ。
「絶対危険」なもの――それが「原発」だったからだ。
だから「絶対安全神話」は必要とされた。
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ベネディクト女史は、「フクイチ核惨事」を引き起こした最大の要因が「原子力絶対安全神話」だったとして、そこに教訓を見なければならないとしているが、問題はその教訓が、この日本で、いま現在、生かされていない、という、不条理きわまりない、悲劇的な現実があることである。
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汚染地下水は太平洋に放流しても「基準」内だから「絶対安全」!
被曝地に戻っても、放射能は下がっているから「絶対安全」!
フクイチは完全にアンダーコントロール!
過去・現在・将来にわたって健康被害はない!
「(基準内)絶対安全」の大行進が、いまなお続いているのだ。
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「死の灰の、どこまで続く、ぬかるみぞ」……
「フクイチ核惨事」で、フクイチの原子炉は自爆を遂げ、核物質(燃料)は溶融・飛散したけれど、「原子力帝国」の精神的支柱である「核の絶対安全神話」は、まだバケの皮をつけたままで、生き残っているのである。
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それでは、ゾンビのような「絶対安全神話」に、わたしたちはどう立ち向かい、どうトドメをさすべきか?
わたしはマスコミを通じて「常識」として根付いてしまった「神話」に対抗し、その「解消」を図るには、こちらの側(民衆サイドの)「事実認識」の共有と蓄積による「意識転換」がなければならないと思っている。
そう、わたしたちがツイッターやブログなどで、この3年間、積み重ねて来たように、それを、これからも続けてゆく。
そして、何事も「意識」――わたしたちの考えが、思いが、時を得て、共時的に変われば、「絶対安全神話」は雲散霧消し、脱原発の構造改革は動き出す…………
「原発」が、この国を、この国のいのちを亡ぼす「絶対的な危険物」だと、わたしたちが「事実認識」したとき、「絶対安全神話」は「絶対悪」の正体を現わし、陽の光を浴びた悪霊のように一気に消える…………
―――― はず。
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「原発・絶対安全神話」は、「原子力帝国・日本」を支える支柱として、わたしたちをマンドコントロールしてきたものだ。
わたしたちは、「原子力帝国・日本」を存在せしめた、悪の本丸ともいうべき、この「呪縛」を断たなければならない。
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それは――難しいようで…………実は案外、かんたんなことである。
いのちの敵である、まるでヤマタノオロチのような悪夢を「平和と繁栄の正夢」として見たのも、わたしたちのいのち(意識)であれば、それを邪悪なものとして消し去ることができるのも、わたしたちのいのち(意識)〔の力〕である。
どちらかといえば、いのちは、いのちを破壊するものを拒否するものであるはず。
いのちは放射能をうれしくないと思い、脱原発の、うれしく、たのしい、平和な世界を望むものであるはずだ。
Posted by 大沼安史 at 10:48 午前 3.コラム机の上の空 | Permalink