〔コラム だから あじさいの国へ〕 「津波てんでんこ」を阻んだ(?)「学校」の呪縛
津波がうねりながら押し寄せつつあるとき、子どもたちは教師たちと、校庭に、いた。
45分間、校庭でじっと待機されられ……そしてようやく移動を始めた、運命の午後3時37分、そこへ大波が襲いかかった。
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全校児童106人のうち68人が死亡、6人が行方不明となった。
犠牲者は教職員10人を含め、84人。
大川小学校(宮城県石巻市)の「3・11」の悲劇である。
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亡くなったこどもたちの遺族でつくる「小さな命の意味を考える会」によると、津波が到達(地震発生51分後の午後3時37分ごろ)する直前、3時35分過ぎに学校の前を車で通った人がいて、「その時まだ校庭に子どもがいた」と言っている、という。
津波到達時点で、校庭にはまだ子どもたちがいたが、一部は「大津波がいよいよ迫って、川や側溝からすでに水があふれていた時」、あろうことか、新北上大橋のたもとの、川のそばの堤防道路の方へ向かって、移動を始めていた、という。
「考える会」はこう指摘する。
「わざわざ民家裏の細道を通り(行き止まり)、津波が来るのに川に向かっています。児童が追い込まれたのは、最も狭く、山の斜面の急な場所。校庭から、移動した距離は先頭の子で約180m。1mも上には行っていません。状況から見て『避難』とは言えません」
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それにしても、どうして、近くのほかの小学校(2校)がしたように裏山に逃げず、校庭で子どもたちを待機させ、あげくにわざわざ川に向かって歩き出したのだろう?
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亡くなった児童23人の遺族が10日、「教職員が児童の安全を守る義務を怠ったことによる人災」とする裁判を仙台地裁に起こした。
損害賠償請求訴訟だが、真相究明のための訴訟でもある。
遺族らは、石巻市教委の事故検証委員会がまとめた「報告書」では「事実解明が不十分」として、裁判に訴えた。
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こんご解き明かされるべき、真相とは何か?
わたしが思うに、事実関係として、少なくともひとつ言えるのは、この悲劇はあくまでも「学校の管理下」で起きたことである。
悲劇は「学校管理下の時間と空間」の中で起きた。
子どもたちは自主判断で裏山に逃げなかったのではない。勝手に校庭に居残っていて、波にのまれたわけでもない。
あくまでも、教師たちの指示に従って校庭で待機し、川に向かって移動していたのである。
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それは大川小の教師たちも同じことだ。(校長はこの日、年休をとっていた)
教師たちもまた、最後の最後まで、「学校の管理下の時間と空間」にあり続けた。
管理下にある子どもたちに、間違いなく最後の瞬間まで付き添い、たぶん、子どもたちを助けようと必死になりながら、同じ大波にのみ込まれた。
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悲劇はすなわち同校の「学校管理下」において…………こどもたちが同校の「児童」であり、そのそばにいた唯一の大人たちである教師たちが「教諭」――あるいは「教職員」であった、同校の「学校管理下」において起きていたのである。
「学校管理下」の状況の中で、「管理」する側の「教職員」によって決断、あるいは不決断が行なわれた。
すぐさま裏山に逃げずに、校庭にとどまり続け、ついにはなぜか川に向かって歩き出すという「判断」が下され、実行に移されたわけである。
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以上、この点ひとつとっただけでも、管理側(市教委などを含む)の責任はまぬがれないが、わたしはこの「学校管理下の悲劇」を、<「学校」を外した視点>で、いちから見直すべきだと思う。
つまり、地震後、津波が来るまでの51分間において、こどもたちや教師たちがもしも「学校の管理下」から離脱していたら、どういう結果があり得たか――という、別の、違った角度からの検討が必要ではないか、という問題提起をしたいのだ。
すなわち、こどもたちが「児童」としてでなく「こどもたち」として、教師たちが「教職員」としてではなく「大の大人」として、(「学校管理下の時間と空間」が消えた、単なる)その場に居合わせたとき、何が起きていたか――という問題提起である。
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わたしは地震後、校庭に集合したあと――かりにその場で、「教職員」が子どもを守る「大人」に変わり、「児童」が「子ども」に変わっていたら、迷うことなく、みんなそろって裏山に逃げたに違いない、と思っている。
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地域の防災放送が津波の襲来を告げる中、校庭に整列した「子どもたちは」は、不安な気持ちでいっぱいだったに違いない。
不安は恐怖に変わっていたに違いない。
「子どもたち」が「児童」である自分をかなぐり捨てていたとしたら、当然の選択として裏山に向かったはずだ。
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それは教師たちも同じことである。
教師たちが「(石巻市教委管理下)大川小の教諭」であることより、子どもたちを守るべき「大人である」との自覚に目覚めていたなら、「裏山」が「避難先」に指定されていなくとも、そんなことなどお構いなしに、子どもたちを誘導して、そこへ一緒に逃げていたはずである。
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それが、悲しいことに――「津波てんでんこ」……「さあ、みんなで裏山さ、逃げっぺ」とは、ならなかった。
そうなっていたら、たぶん、全員が命拾いしていたはずなのに。
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裏山に逃げなかった理由は、残酷なまでにかんたんなことだ。
大川小には最後まで「学校管理」の影が重くのしかかり、その呪縛によって、まともな判断力が殺がれてしまっていたのだ。
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津波が襲いかかる最後の瞬間まで、「学校の管理空間と時間」が、大川小を支配し続けていた。
大川小の教師たちは、あるいは学校の「裏山」を「教育的な(学習)空間」と見ていなかったのかも知れない。
「裏山」にいる時間を、「教育的な(学習)時間」とは見ていなかったのかも知れない。
その延長線に悲劇は起きた…………?!
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そして、あるいは…………もしかしたら、同校の「教諭」は、ラジオのニュースなどで伝えられた津波の高さをもとに、これは大丈夫と判断し、川の堤防まで出て、津波が押し寄せる「めったに見られない自然現象」を、「児童」たちに観察させようとしたのかも知れない。
「災害教育」の名の下に???
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わたしは、新聞記者時代、「教育」を担当した経験から――あるいは、米国のサドベリー・バレー校など世界のフリースクールを取材した経験から、「文科省・教委・学校」という縦の指揮命令系統が貫く「管理教育」の逆三角形が、この国の教育の場の自主性・主体性を奪っていることを、かねがね憂慮していた。
そして、そうした国家教育における逆ピラミッドの重圧下にあって、個々のこどもたちの素直で多様な「感情」と「価値観」が封殺されていることも、これ以上、続いてはならないことと考えてきた。
「感情」――たとえば「わくわくとした気持ち」や「喜び」は、その子の動機と関心を開花させるものであり、何をもって善しとするかの「価値」意識は、その子独自の学習を導き、理性的な判断力をも養うものであるから、「学校」から排除してはならないもの、と思ってきた。
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いまこうして大川小の悲劇の経過をたどるとき、津波が刻々と迫る大川小の校庭には、この種の「感情」(つまり不安・恐怖にもとづく避難行動の決断)も、指示やマニュアルよりも子どもたちの命を優先させる「価値意識」も、なかったのではないかと、残念ながら思わざるを得ない。
そこには最後まで――児童がこどもに、教諭が大人に戻ることを阻害する「管理」が……「学校」」が、ただただ在りづづけていたのではないか?
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わたしの(推定的)結論はこうだ。
大川小の子どもたちと教師たちは、津波に襲われる前に、すでに自主的な判断の自由と権利を奪われていたという意味で、この国の「管理教育」の犠牲になっていたのである。
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同じ「3・11」の「フクイチ」が、国策の果ての「想定外」の核惨事であるとすれば、大川小の悲劇は、現場の主体的判断を窒息させ続けてきたこの国の、すでに想定されていた、「管理教育」による悲劇である。
そう、言わざるを得ない。
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(付記) わたしが大川小のことを書こうと思った(そして実際、いま書き上げた)のには、ふたつ、理由――というか、偶然がある。
ひとつは本。
机の上で、半分ほど水浸しにしてしまった本(乾いてごわごわになった本)を数日前、偶然、手にとって、読みだしたのである。
その本は、フクイチの国会事故調に参加された、あの田中三彦さんが訳された『デカルトの誤り』(アントニオ・ダマシオ著 ちくま学芸文庫)の原書(英文)ペーパーバック。
その本の冒頭に、「感情」は「理性」を阻害するものではない、という意味のことが書かれてあり、これは、あの〔わたしが個人的に尊敬する、米国サドベリー・バレー校のダニエル・グリーンバーグさんが『自由な学びとは』(緑風出版)で言っている〕「価値」と「学習」の連関とも響き合うものであり、そして何より、あの大川小の悲劇を解き明かすものかもしれない、とふと思ったことがひとつ。
もうひとつは、原稿を書いている最中、大川小でお亡くなりになった教師の一人を知る人から、その方の思い出話を聞いたこと。
そのふたつがあって、つらいことではあったが、とにかく言いたいことを書き上げた。
わたしが若ければ、そしてまわりに賛同する人がいたら、大川小のあとに、「大川サドベリー校」をつくりたいと思って、ガムシャラに動していたかも知れないな、などと、それでもいま、まだ夢を見る。
大川小の悲劇を無にしてはならない。
Posted by 大沼安史 at 09:42 午前 2.教育改革情報3.コラム机の上の空6.命・水・祈り | Permalink