2007年6月23日のブログ(「慰安婦」決議で米紙に反論広告 社保庁並みの「恥の上塗り」 RAAの米兵「慰安所」は、ほんとうに占領軍のごり押しだったか?)を再掲します。
⇒ http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/06/post_1d37.html
今朝の新聞に、こんなPR文つきの本の広告(『マッカーサーは慰安婦がお好き』新潮社刊)が出ていたので、再掲載を思い立ったしだいです。
「今や『性の奴隷』と騒ぎ立てる、かのアメリカ総司令部の初仕事は、日本に慰安婦を供出させることだった……」と。
上記再掲コラムの要約は以下の通り。
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日本の「国会議員有志」や「言論人」らが、〔2007年〕今月(6月)14日の米紙ワシントン・ポストに、「慰安婦」問題に関する全面広告を出した。
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「占領軍当局が……慰安所設置を日本政府に要望した」というくだりも気になった。
かりにそうした事実があったとして――占領軍が慰安所設置を日本政府に要望し、その「要望」に唯々諾々従って、日本政府が慰安所を設けたとしたなら(RAA=特殊慰安協会による米兵相手の「慰安所」は各地につくられたから、日本政府は占領軍の要望を拒否しなかったのは明白な事実であろう)、昨日の「鬼畜」に「大和撫子」を差し出した、日本政府の弱腰もまた、大いに批判されるべきところだろう。
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昭和8年、東京・大森に生まれ、戦後、下町の町工場で職人生活を長年続けた、作家の小関智弘さんは、わたしの大好きな作家のひとりだが、少年時代の回想を『東京大森海岸 ぼくの戦争』にまとめている。
そこに、いまの「平和島入口」あたりに設置された、RAAによる「慰安所」の成り立ちが詳しく書かれている。
『東京闇市興亡史』という史料(これまた「文書」のひとつであろう)に依拠したもので、それによると、敗戦3日後の、昭和20年8月18日、内務省警保局長から各警察署長あて、外国駐屯軍に対する性の営業に関し、「積極的に指導を行い、設備の急速充実をはかるものとする。性的慰安施設、飲食施設、娯楽施設。営業に必要な婦女子は、芸妓・公私娼妓・女給・常習密売淫売犯等を優先的にこれを充当するものとする」との、秘密無電による準備指令が発せられたという。
そしてその日のうちに警視庁保安課の課長が東京料理飲食業組合の代表3人を呼び出し、「婦女子の安全をはかるには、防波堤となるものが必要だ」と「懇願」(中略)、「警視庁のお墨付き、大蔵省の肝煎りでRAAは生まれ」、早くもその9日後の同月27日、大森海岸の小町園に第1号施設が「開店」するという慌しさ。
内務省が「準備指令」を発したのは、昭和天皇の「玉音放送」の記憶も生々しい、敗戦のわずか3日後の18日。
占領軍第一陣の日本上陸は同27日だから、日本政府(内務省)はその9日も前に、早々と「準備」を始めていたことになる。
占領軍当局の「要望」というより、日本政府のイニシアチブでことが進められたような印象を拭いきれない。
事実は逆で、政府(内務省)が積極的に慰安所開設に動いたのではなかったのか?
さて、そのRAAの話に戻るが、「募集」には「明日の食糧も、着るものもない若い女性が群が」り、その10人中9人までが裸足で現れたそうだ。
食うに事欠き、裸足で慰安婦に身を落とした、戦争難民の若い女性たち……。
ポスト紙に広告を出した「有志」たちなら、彼女たちは自発的なボランティアであって、強制性はなかったと、またも澄まし顔で言い切ることだろう。
ちなみに、このRAAの慰安所は、米メディアの報道で米国内に伝わり、米兵の妻や家族の猛反発で、約7ヵ月で閉鎖された。
本土の家族や一般国民の知らないところで、敗戦ぎりぎりまで開設されていた日本軍の「慰安所」との違いがここにある。
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