本日付けのジャパン・タイムズに、昨年7月に急逝した、わが畏友、小笠原信之の、ジャーナリストとしての人生を総括する、長文の追悼記事が載った。
KEIJI HIRANO 記者の共同電(英文)。記事は →
こちら
わたし(大沼)も、ヒラノ記者のインタビューを受けた一人。
記事の中で引用されている、わたしの発言部分を、以下に採録する。
#
北海道で記者(ジャーナリスト)活動を積み重ねたことで、彼(小笠原)は、「組織内レポーター」としての限界を感じたに違いない。忘れされていたり、知られていない問題に対し、余計な視線を気にせず、光を当てたいと思ったはずだ。
“Growing up as a journalist in Hokkaido, he must have experienced limitations in working as an ‘in-house reporter’ and wanted to shed light on forgotten or undiscovered issues without worrying if they would draw the public eye,” said Onuma, who worked with Ogasawara at the daily.
#
(小笠原はアイヌ民族の側に立ち、書き続けた。中曽根首相の日本単一民族発言に対して、憤った。企業内の差別に苦しむ人びと、塵肺患者らをペンで励ました)
「不正義を見過ごさない。これが彼の生涯を貫く立場だった」
“It was his lifelong stance not to ignore injustice,” Onuma said.
#
大沼は小笠原と茅ヶ崎の浜辺を歩いたときのことを思い出す。死の3ヵ月ほど前のことだった。
「彼は、金になる仕事に飛びつかなかった。生活は大変だったにもかかわらず。しかし、彼はわたしにこう言った。フリーランスで生きて来たことを後悔していないと。そう言えたのは、彼が健全なジャーナリズムを体現し、生きることができたからだと思う」
Onuma remembers the day when he took a walk with Ogasawara on the beach near Ogasawara’s home in Chigasaki, Kanagawa Prefecture, around three months before his death.
“He did not jump at a job offer even if it was lucrative, although he experienced hardships,” Onuma said. “But he told me at that time he did not regret his life as a freelancer. I believe it was because he could embody the soundness of journalism.
”
#
(フリーのジャーナリストとして生きることは困難なことだ)
しかし、大沼はネット・ジャーナリスムに希望を見ている。
「米国では、ネットに出た良質なレポートを主流メディアが報道するようなことが起きている。この傾向が日本でも生まれれば、日本のフリー記者も自己の信念に生きることだできるようになるだろう」
「ジャーナリストは自分の名前で仕事をしなければならない。新聞社の名前で働くのではなく。それが小笠原がしたことだった」
However, Onuma finds hope in Internet-based journalism.
“Quality reports on the Internet are sometimes picked up by mainstream media in the United States, and freelancers in Japan will be able to live up to their beliefs if such a trend expands in this country,” Onuma said. “A journalist should work under his or her own name, rather than under the name of a news agency he or she works for, as Ogasawara did.”
#
わたしが遺稿を編集する光栄にあずかった、小笠原の最後の本は →
こちら