〔丸山健二さん〕 5月 ツイッター抄
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(◇ 大沼は若いころ、丸山健二さんの「夏の流れ」を読んで、衝撃を受けた覚えがあります。)
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# 救われない気持ちを引きずりながら放射能にまみれた島国の恐ろしい環境に馴染んでゆく人々。あの出来事はもうきれいに解決してしまったかのような、胸に突き刺さっていた致命的な刺が自然に抜けたかのような、妙に明るい雰囲気。そしてやり切れない諦念から生じた、その場凌ぎの安っぽい開き直り。(22時間前)
# 電力事業に対する評価を、功績と過罪が相半ばするというのは大きな間違いだ。これまで関係者のやってきたことは過罪のみで、功績などは皆無だ。所詮、かれらは悪人の集団でしかなかった。ごろつきどもにエネルギーという最大の鍵を渡していた国家も悪党の仲間だ。そしてかれらの支持者たる国民も。(5月23日)
# あの人災以降、苦悩の国家を演じてきたはずなのに、思索的な人々が一気に増大したはずなのに、原発を招かざる客として受け止める良識が高まったはずなのに、どこまでも生命であらねばならぬ動植物の立場を蔑ろにしても自分たち人間だけは別個に生き延びられるのではないかという幻想が舞い戻った。(5月13日)
# いつの間にやら原発の再稼働という非常識な常識が罷り通り、マスコミまでがそれを基盤にして言葉を発し、その姿勢こそが建設的で、前向きで、未来へ通じる唯一無二の道だと言わんばかりの論調。電力不足ぐらいで国が破滅することはないが、しかし、今度また原発が暴発したときは絶滅がやって来る。(5月12日)
# 絆や触れ合いや助け合いという言葉が幽する甘ったるい響きに酔い痴れ、その陶酔感をバネにして生き延びるための活力を得たとしても、それはあくまで一時的な錯覚にすぎず、本当の強さにはつながらない。最後にものを言うのは、各人がそれぞれに悲しみと挫折感のどん底でつかみ上げた居直りである。(5月9日)
# どんなに国土が狭く、どんなに人口が多くても、居住区のすぐかたわらに豊かな自然が息づいてさえいれば、心の荒廃がこれほどまでにエスカレートすることはなかったかもしれない。草木が秘めている神秘的な摂理を軽視してはならない。植樹祭程度のまやかしによって自己満足に陥ってはならないのだ。(5月6日)
# 日本の都市部には緑が極端に少ない。そんな環境でどんなに凝った料理を食べたところで美味いとは思わない。都会人たちの顔に張りついた、慢性的な憂鬱な表情。その根本因が草木で構成された空間の欠落にあるように思えてならない。どこもかしこもコンクリートだらけという世界に幸福の兆しはない。(5月4日)
# 日本人は自由と尊厳に心底から帰属しているのか。最も肝心な場面において国家からおのれを切り離して思考し、判断し、行動に移せるような自律的な人格を持っているのか。他者への過剰な優しさを道徳的な寛大さと勘違いしてはいないか。実は現実が想定外だらけであることをとくと承知しているのか (5月1日)
Posted by 大沼安史 at 10:24 午前 | Permalink