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2012-04-24

〔河北新報〕 「神話の果てに 東北から問う原子力」第2部・迷走(4)孤立/避難指示拡大し混乱(22日)

 → http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1098/20120423_01.htm

<国から連絡なし>

 昨年3月12日夕、東京電力福島第1原発事故による避難指示が10キロ圏内から20キロ圏内に広がった。早朝に続き、この日、2度目の拡大だった。

 福島県浪江町は役場機能を原発の北西約30キロの津島支所に移していたが、まだ町内の10~20キロ圏には多数の住民がとどまっていた。

 浪江町災害対策課の岩野寿長課長は支所のテレビで、20キロ圏内への拡大を知った。国・県からの連絡はない。

 「情報がなく、とにかく逃げろと…。パニックだった」と岩野課長。町は大急ぎでバスを準備し、10~20キロ圏の学校や公民館などに身を寄せる町民を迎えに行った。

 政府の避難指示は事故後、次々に拡大され、住民を翻弄(ほんろう)した。11日夜、政府の原子力災害対策本部は原発3キロ圏内の住民に避難を指示。それから1日足らずで3キロが10キロ、10キロが20キロへと相次いで拡大された。

 安全とされた地域がすぐ危険になり、移動し直す羽目になった。運転中の原子炉3基の冷却不能という事故の重大さを見誤ったためだ。「朝令暮改」の避難指示に追われ、命懸けの避難を強いられた人も多い。

<35人が所在不明>

 原発の北西約4キロにあった双葉厚生病院(福島県双葉町)は12日朝、第1陣として自衛隊トラックで避難させた入院患者35人の行方が分からなくなる事態に陥った。

 所在が分かったのは3日後の15日。避難指示は既に20キロ圏内まで広がっていたのに、原発から約11キロの浪江町の特別養護老人ホームに入所者とともに取り残されていた。

 重富秀一院長は「(第1陣が)病院を出た時点で、避難指示は3キロ圏内から10キロ圏内へ変わったばかりだった」と言う。

 福島県川俣町方面に向かったはずが、患者たちは10キロ圏を脱出したということで、トラックから降ろされたらしい。

 第1陣の患者35人が出発したのは12日午前8時半すぎ。すぐ自衛隊トラックを追い掛けるつもりだった職員らは、それまで避難を呼び掛けていた警察官に突然、引き留められた。

 「病院の中にいるように」。

 このころ、1号機では圧力が高まっていた格納容器内から蒸気を抜くベント作業に向け、準備が始まっていた。

 警察官の指示は、放射性物質の放出に備えるためだったとみられるが、通信は途絶していて、第1陣の行き先を知るすべはなかった。

 避難区域が拡大される中で、地元自治体の多くは、自力で避難できない人の数や居場所を把握できなかった。町職員も避難し、行政機能がほぼ失われていた。

<800人超救助待つ>

 県災害対策本部の担当者は「救出すべき人数や症状を把握できなかった。電話が通じなかったのが痛かった」と言う。

 福島県大熊町のオフサイトセンターに置かれた現地対策本部は13日以降、避難指示区域内の病院や福祉施設を回り、寝たきりの高齢者らの数を調べた。本部長だった池田元久経済産業副大臣(当時)は「14日未明の時点で849人が救助を待っていた」と語る。

 自衛隊と警察による救出活動は15日午後まで続いたが、原発から約4.5キロの双葉病院(大熊町)ではその間、命を落とす患者が相次いだ。

 地域の防災計画で想定されていた避難の範囲はせいぜい原発の3キロ圏内。これほど広範囲に高齢者や重症患者らを避難させることを誰も想像していなかったため、災害弱者の孤立を招いた。

【避難指示の経過】
昨年3月11日
 午後9時23分 3キロ圏避難指示、3~10キロ圏屋内退避
同3月12日
 午前5時44分 10キロ圏避難指示
 午前10時17分 1号機でベント作業開始
 午後6時25分 20キロ圏避難指示

Posted by 大沼安史 at 07:46 午後 |

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