〔記録〕 飯舘村の10カ月
◇ ① http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20120129ddm010040079000c.html
◇苦難の結晶、奪われ
国内各地に分散した飯館村からの避難者(上)と、県内各地の飯館村からの避難者(下) 東日本大震災による東京電力福島第1原発事故で、計画的避難区域に指定された福島県飯舘村では全村避難が続く。村内で代々農業を営んできた菅野初雄さん(73)と村教育長の広瀬要人(かなめ)さん(64)の日記や日誌、手帳には、原発震災で「失われたもの」が記されていた。
◇絆で作られた村、バラバラに
<3月11日>
日記や手帳で記憶をたどる広瀬要人教育長=福島市の飯舘村役場飯野出張所で、小出洋平撮影 ◆曇り。午後2時46分、マグニチュード8・8(2本線で訂正し9・0に) 観測史上最大 歴史に残る事故=広瀬さんの日記
「教育長室で新聞社の取材を受けていた時でした。ただ事じゃない。電話が不通で職員に手分けして学校に走ってもらいました。夜には沿岸部からの車で(国道)114号も399号も大渋滞。八木沢峠が光でつながっていました。あんなの見たことがありません」
<3月13日>
◆夕方電気来る=菅野さんの農業日誌
避難先で昨年の日記を開く菅野初雄さん=福島市で、山本将克撮影 「小学1年まで電気のない生活をしてきたから暗いと思わなかったが、ついた瞬間は孫たちが大喜びした。みんなでテレビみたら浜の方は津波でひどい。そのころは放射能のことも分からなかったから『浜の人たちはみんな飯舘に来ればいい』と思ったよ」
<3月14日>
◆第1原発3号炉が爆発。幼稚園、小中学校をどうするか校長会で話し合う。小学校は3月17日から23日まで登校日と決めた。ぎりぎりの判断=広瀬日記
「『子供は休ませろ』『いや、登校させろ』と激論になりました。共働きで学校に子供を預けたい親は多い。でも余震も続き、沿岸部からの避難者が増える中で子供の安全を守れるのか。最後は『私が責任を取るから』と」。幼稚園と小学校の卒業式の中止もこの日に決まる。
<3月16日>
◆雪8センチ 家から外へ出ない方いいと=菅野日誌
「前の日、南風が吹いていた。この雪で放射能が村に落ちてきたと思う。何も知らなかった孫2人が雪合戦して遊んでたんだ」
◆放射線量の高い蕨平(わらびだいら)の住民を避難させた。村の線量は38・7マイクロシーベルト記録=広瀬さんの手帳
「村には当時、一つだけ線量計があったので、線量は分かっていました。ただ、どれだけ危険かというのが分からなくて……」
<3月17日>
◆由紀恵、大輝、翔太 立(たつ)子山(ごやま)へ避難=菅野日誌
「放射能で子供が危ねえという話になった。息子の嫁由紀恵と孫の大輝、翔太が(由紀恵さんの実家の福島市立子山へ)一応避難して、と。翔太が『東電はなんで福島の奥に原発造ったか。東京に造れば鉄塔建てることも電線引くこともなかった。お金もかかんなかったべ』と言った。孫の言う通りだな、と。若いころ原発に視察に行ったことがある。『地震では壊れない』って言うから安心してきたんだべ。でも、あの頑丈な鉄筋のコンクリートがどっかいっちゃったんだべ。造ったものはいずれ壊れんだ」
<3月30日>
◆幼小中学を川俣に移設することについて保護者説明会を実施。364人出席。全保護者の74%=広瀬日記
この日、IAEA(国際原子力機関)が飯舘村で避難基準を超える放射性物質を検出したと発表する。「村より線量の低い川俣町での学校再開を決めました。通学はスクールバスで。説明会での質疑応答はメモ帳にまとめています。『いつまで』『1学期いっぱい』。しかし、そうはいきませんでした」
<3月31日>
◆日本政府は今のところ避難勧告を出さないと表明=広瀬日記
「子供の疎開の話はあちこちから来ましたが、簡単にはできません。子供を避難させると親も避難する、親が避難すると村民がバラバラになる。飯舘は絆で作られた村。なくしてから元に戻すのはどれほど大変なことか」
◆心の中では怒ってんだ
<4月17日>
◆子供のいない村になった=広瀬日記
村は4月7日に妊産婦、乳幼児の避難を呼びかけ、子供を抱える世帯は自主避難を始めた。政府は4月11日、村を計画的避難区域に指定する方針を発表する。「ほんとうだったら外でみんな遊んで、子供の声もしてくる。それがぱたっと消えてしまった。なんと罪作りなことでしょうか」
<4月18日>
◆午後 水田肥料農協へ返品=菅野日誌
「区長さんから『今年は作付けできない』と聞いた。肥料をトラックに積んで農協へ返しに行ったんだ。作付けしない年は初めてだ。東電も国も人をバカにしてる。『安全だ』って原発造って、ああいうことさなって。農家はおとなしい顔してっけど、心の中では怒ってんだ。田植えの準備してる隣町の田んぼ見た時はうらやましかった。悔しかったよ」
<4月20日>
◆曇り。幼小中学校の入園、入学式を飯舘中で実施。明日から川俣で普通授業を始める=広瀬日記
「式は川俣でやる予定でしたが、先生方が『(村での)最後の入学式になるかもしれないから』と。平時の式とは違うメッセージを伝えなければ。『生きる力』では弱い。『生き抜く力をつけてほしい』」
◆小中学校入学式午前中 桜 つぼみの先少し赤いの見える=菅野日誌
「孫たちが(学校再開のため避難先から)戻ってきてた。元気だわい。にこにこして『おうちはいいな』と。でも、今まで外で遊んでたべ、天気がいい時は。今度はうちの中に閉じこもっていなければなんねくなった。でっとき(出る時)にはマスクしてとか、風に触れたら顔手足洗ってとか」
<4月30日>
◆川俣○○(宅配業者名)よりTELあり 特に線量高いので比曽長泥(ながどろ)には配達中止 計画的避難区域になったので 桜満開になる=菅野日誌
「飯舘には配達できねえと言う。文句を言っても仕方ないからこちらから荷を取りに行った。逆に、東京に福島の車が入れねえとかあったろ? 東電が福島に原発造っといて、なーんでだ?」
◆東京電力副社長来村、村民集会で原発事故を謝罪する。村民1300人参加=広瀬手帳
「今までにない人数でした。こんなに村に人がいるのかと思うくらい。村民は意外と冷静でした。印象的だったのは相馬農業高校飯舘校の1年生の女の子です。『私は子供を産めますか。産めなかったら東電で責任を持つんですか』。何も答えられなかったですよ、東電は」
<5月2日>
◆紀子みそ搗(つき)の準備=菅野日誌
「みそ搗はみその仕込み作業で豆をつぶすこと。大豆はうちの畑で作ってた。古いみそほどうまいと昔は自慢しあってたもんだが、ウソだね。半年くらいでは豆臭いが、2年目に食べるくらいが一番うまい。豆は去年のものを使ったが、今年は原発の影響で豆を作れなかった。自宅のみそがなくなれば、今度は初めて買わなきゃなんねえな」
<5月29日>
◆今日は一日中雨天気 賢一、由紀恵、大輝、翔太 福島のアパートへ避難 車三台で荷物運ぶ=菅野日誌
「家族が離れ離れになった日。息子の賢一が軽トラックに子供の自転車を載せてロープでゆわいながら『今になってごせやけてきた(腹が立ってきた)』と言ったことはよく覚えてる。自宅がありながら引っ越ししなきゃなんねえという思いがこみ上げてきたんではないか。出発する時、孫の大輝が車から『バイバイ』と手を振って、バア(妻)がぽろぽろ泣いていた。そういえばあの日は一日中、雨が降ってたなあ」
<6月10日>
◆スクールバスは今日が最後。草野の路線に同乗=広瀬日記
「スクールバスを続けていると村民の避難が進みません。やむを得ず打ち切りました。最後の路線、草野地区から川俣まで子供たちと一緒に乗りました。子供たちが騒いで、川俣に着いたら1列に並んで登校していく。いつもと変わらない、しかし村を走り続けてきたバスの37年の歴史が途切れた日でした」
◆役場総務課よりTEL 避難につき まだどこも捜していない=菅野日誌
「役場から避難するか意思確認の電話があって、区長さんからも『一人でも残るとみんなで見守らねばなんねえから』と言われて揺れていた。心の中では『避難しなきゃなんねえな』と思ってはいた。でも気がついた時には『俺は出ねえんだ』と言ってた」。菅野さんは13日、村に侵入する不審者と間違われないための飯舘村通行証を役場から受け取り、福島市内へ避難する。
<7月8日>
◆母 前の夕食頃より体調変すように感じ 今日も朝から今までとちがった動作に 脳梗塞(こうそく)で入院=菅野日誌
「母親は『避難したところで死ぬんなら我が家で死にたい』と嫌がった。説得して連れてきたんだが、この日は様子がおかしかった。それからはデイサービスを使うようになり、寝たきりになって施設に入所したよ。環境が変わった影響はあるかもしんねえが、90歳過ぎているし、自然とこうなったと思うようにしてるんだ」
<7月11日>
◆子供を避難させている保護者から飯舘に戻したらいいかどうか相談を受ける。適切なアドバイスができない自分をもどかしく思う=広瀬日記
「山形県に、中学生の女の子と小学生の男の子2人の3人で避難し、両親は仕事のため飯舘村に残った家族がいるんです。両親が週末に会いに行くと、別れの時、女の子が自転車で泣きながら追いかけて来る姿が車のバックミラーで見える、と。母親は相談しながら泣いていました。でも、『戻していいですよ』とは言えなかった」
◇水代、こたえたなあ
<8月14日>
◆今日は最高に暑くなる 福島37 お墓参り 昼集会所行 多く集まる=菅野日誌
「盆でみんなが比曽に集まったので、飲み会やった。『いつまでこんな生活が続くのか』。そんな話が出た。家に帰れば田んぼも畑も草ぼうぼうだ。このままでは田んぼの水持ちが悪くなる。農業は駄目だ。飯舘で野菜作って米育てても買う人なんかねえべ。土をかっぱいで放射能がなくなるとは俺は思ってねえんだ。国会議事堂か東電の前に、放射能の土をどばーっと投げられればいいんだけど」
<8月27日>
◆いわき市久之浜で花火大会見る=広瀬日記
「津波でやられた地元の若い人たちが復旧をめざして催した花火大会に村の親子20人くらいが招待されたんです。私が引率しました。子供たちを引率したのはいつ以来でしたか。親子の笑顔を見て私も一人の教師に戻って、ついはしゃいでいました。花火を見た子供たちがいつか久之浜の人たちのように村の復興を担ってくれれば」
<9月15日>
◆東電より届けられた精神的被害請求書目通し=菅野日誌
「請求方法の説明書、見たことあるか? ずーっと眺めてっと、金をくれないようにするためめんどくさくしていると思えてくる。我々農家は読み書き専門でねえんだから。飯舘を出て驚いたのは水代だ。向こうでは山からどどどど水が出てきて、流しっぱなしで使っていたべした。水代なんて払ったことなかったのに、一番こたえたなあ。それを請求したら、カットされた。飯舘にいる時はこたつは炭で暖めてたし、風呂はまきを燃やしてたんだがなあ」
<9月16日>
◆大輝、翔太の検査についてあまり出なかったとか=菅野日誌
「ウソこいてると思った。放射能が一番高い時に雪合戦して遊んでたんだもの。信用できねえ。孫には健やかに大きく育ってほしいんだよ。あまり影響なかったとなったらそりゃ幸いだ。でも病気の状況はすぐには分かんねえ。5年10年たったらどうなるか。俺は最後まで見てやれねーんだわ。それをどうかみなさんでチェックしてやってください。お願いします」
<9月19日>
◆仮設の広場にていろんな芸のイベント 比曽の獅子踊も披露=菅野日誌
「仮設住宅で比曽の獅子舞をやると聞いて見に行った。うちの獅子舞は素晴らしいんだ。よそのとは違ってな、生きてるように動くんだ。比曽では四つの神社に奉納するんだ。見ると爽快な気持ちになる、うまく表現できねえけど。何百年も続いた伝統の芸能だ。無くならないでほしいなと思ったな」
<11月2日>
◆今日も気温上がりいい天気になる 新米受取り=菅野日誌
「米が作れねえから農家の俺が新米を買った。会津の米。昭和55年の冷害以来だ。で、食べたんだが、去年の飯舘の米はうまかったんだなと思った。標高が高い飯舘では暑い年にうまーい米ができる。今年も天気が良かったから、会津の米にも負けねえ米が取れてたど」
<11月20日>
◆第23回ふくしま駅伝 記録には残らないが記憶に残る大会になる=広瀬日記
「村には10連覇した伝統があるんです。でも今年は選手が集まらなかった。白河から福島まで約100キロ、全16区のうち後半だけ出て伝統の灯は残すことができた。選手の中には栃木県の那須に避難している中学生もいました。監督は那須まで行って一緒に練習もしたんです。私はゴールで待っていました。アンカーを務めた工場勤めの大内龍太郎君が、村のたすきをつないで必死に走ってきたんです」
<12月25日>
約9カ月遅れで実施された飯舘村の合同卒園卒業式を終え、笑顔を見せる卒園生たち=福島県川俣町の中央公民館で2011年12月25日、木葉健二撮影 ◆卒園・卒業式を開催。卒園、卒業生そして保護者は大喜び。卒業式から卒業した感じである=広瀬日記
「ずっと心につっかかっていたことがありました。4月、卒園予定だった斎藤拓斗君のお父さんが突然教育長室に来て『卒園式やってもらえないんですか』と。話をするうち、お父さんが涙をこぼしていました。初めての子供の初めての卒園式。私は机の脇を指さして『間違いなくここに証書は預かってるから。必ず卒園式やっから』と約束しました。式のあいさつで『9カ月も待たせてしまった』と話をしたのは、お父さんにおわびをしたいという思いもあります。親も子も教員もみんなで村民の歌を歌いました」
<12月31日>
◆歴史に残る年、しっかりと記録にとどめておきたい=広瀬日記
「この村は困難を乗り越えてきた歴史があります。貧しい村ですが、心豊かな村なんです。村に初めて赴任した12年前のことを今でも思い出します。生活に追われてこいのぼりをあげる家が少なくなっていて、学校に集めて上げようと声をかけたら地域のみなさんが子供たちのためにと協力してくれました。あれは本当にきれいでした。111匹が泳いだんです、村の空に」
<1月1日>
◆一日中家で過ごす 年賀状着=菅野日誌
「しめ縄もいつもは自分のところのわらをもじっていたが、今年は買って済ませた。いつまでここにいなきゃなんねえのかなあ。飯舘の比曽辺りは一番放射能が高いから自分ではどうしようもねえ。役場から、どこそこへ行けと言われるまで(福島市に)座っていようと思ってっけど、家族一緒がいいし、遠くへ離れたくねえ」
菅野さんは4日、飯舘の神社と氏神さまへ初詣に行く。「毎年同じだ。黙ってお祈りしたよ。いつも顔を合わせている神様だから、何も言わなくても俺がどんな用事で来たか分かってるよ」
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◇福島県飯舘村
1956年、大舘、飯曽両村の合併で発足。阿武隈山地北部の高原にあり、面積の4分の3は山林。農業やブランド牛「飯舘牛」などの畜産業が主産業。震災前の11年3月1日時点の人口は6132人、高齢化率は29.9%。ゆとりのある田舎暮らしを大切にする「までいライフ」(「までい」は方言で「丁寧に」「心を込めて」)を掲げる。
福島第1原発の恩恵は少なく、立地自治体の双葉町(人口6891人)が約19億5000万円(09年度)受け取っている電源3法交付金は1000万円に満たない。原発事故で家族が離れ離れに暮らすようになり、震災前約1700だった世帯数は約2700に増えた。
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■大震災後の飯舘村に関する主な動き
2011年
3月11日 東日本大震災発生
12~15日 東京電力福島第1原発1~4号機で水素爆発など相次ぐ
4月22日 政府が村を計画的避難区域に指定
5月15日 計画的避難区域指定による避難開始
6月22日 村役場機能を福島市の飯野出張所に移転
9月28日 村が総額3224億円の除染計画公表。住環境は約2年、農地は約5年、森林は約20年で除染を終えるとした
12月26日 政府が警戒区域と計画的避難区域を見直し、新たに避難指示解除準備区域=年間被ばく線量20ミリシーベルト以下▽居住制限区域=年間20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下▽帰還困難区域=現時点で年間50ミリシーベルト超--の3区域へ再編する方針を決定(12年3月をめどに)
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■人物略歴
◇広瀬要人(かなめ)さん(64)
福島県南相馬市(旧原町市)出身。東京の私立大卒業後、県内の中学校で国語教諭を務め、飯舘村には00年4月、臼石小校長として初めて赴任。日記は中学時代に恩師の勧めで始め、校長赴任時には「できるだけわかりやすい言葉でと思うがまだまだ勉強が必要」と記している。校長時代から菅野典雄村長と親交を深め、09年4月から村教育長。大震災後は日記と2種類の手帳に役場の対応を記録し続け、役場移転後は南相馬市から通う。
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■人物略歴
◇菅野初雄さん(73)
東京電力福島第1原発から約40キロ離れた福島県飯舘村比曽(ひそ)地区の分家農家の5代目として生まれた。中学卒業後、主に米作りに従事。東日本大震災の発生時は母ルイさん(93)、妻紀子さん(71)、長男賢一さん(42)、その妻由紀恵さん(42)、その長男大輝君(14)、次男翔太君(11)の7人家族。日誌をつけ始めたのは30歳のころ。農閑期の出稼ぎ先で仕事やお金の使い道を記録したのがきっかけだったという。現在は避難先で紀子さんと2人暮らし。
◇ ② http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20120129ddm010040080000c.html
◇豊栄地区(1) 開拓記念碑と集会所
セシウム134、137の合計の沈着量(ベクレル/平方メートル) ◆満ちていた笑い声、途絶え
豊栄地区の開拓記念碑の前に立つ安達正之さん。碑の裏側には「只管(ひたすら)に開拓の道に昼夜の分けなく専念し」など地区の軌跡が掘られている。後ろに見えるのが集会所=福島県飯舘村で、町田徳丈撮影 雪に白く覆われた大地は先人が一くわ一くわ起こした。だが、原発事故で放射性物質が降り、村人は避難した。1月中旬。雪を踏みしめる音しか聞こえない。失われた山村の息遣いを探しに、記者は村民と一緒にひとつの集落を歩いた。
東京電力福島第1原発から46キロ北西の福島県飯舘村豊栄(ほうえい)地区。うっそうとした松の原生林に、満州開拓とシベリア抑留を経験した者ら18人の男たちが入植したのは終戦3年後の1948年のことだ。ササの葉で屋根をふいた小屋にランプをともし、共同生活を始めた。「やませ」が襲う標高500メートルの寒冷地での営農は難を極めた。
大人も子供も食べるために働いた。記者に同行してくれた開拓2世の安達正之さん(69)は小学1年の時、豊栄に来た。切り株を引き抜き、ジャガイモ、大豆を育てた。細々とした生活だが、笑みの絶えない集落だった。
集落の中心に「豊栄開拓の礎」と彫られた約4メートルの石碑が建つ。入植25周年の誇りを込め、裏に「百難を克服し今日に至る」と刻まれている。台座にひびが走るが、傾いてはいない。
碑の横に、木造平屋の小さな集会所がたたずむ。安達さんはくすんだ茶色の木戸を引く手に力を込めたが、びくともしない。震災後、戸にはクギが打ち付けられた。中には無造作に転がったバケツや石油ストーブが見える。
開いた窓から湿った木のにおいが逃げ出してきた。床を張り替える途中で、材木がむき出しになっている。豊栄地区の農地改革10周年など、地区の足跡をたどる5枚の賞状が飾ってあった。「相談事はみんなここでした。1代目はみな酒が好きでここで飲み明かしてよお。でもこのままじゃ朽ちちまう」。安達さんはうつむく。
石碑の脇には4本の桜の木。盆の頃は総出で草刈りした後、地べたに座り、日本酒と大根の漬物や芋の煮っころがしで宴会をした。いまは笑い声が途絶えたままだ。
ふと、軽トラックが通りかかった。24時間態勢で村内を巡回している「見守り隊」の村民だった。
◇豊栄地区(2) 生活支え合った「100円貯金」
◆団結の象徴、全村避難で解約
豊栄地区の「100円貯金」の通帳。解約後、定額貯金分も含め各世帯に3万8000円ずつ配った=福島県飯舘村で、町田徳丈撮影 原発からの避難のため、豊栄集落で消滅してしまったものがある。開拓民の団結の象徴「100円貯金」だ。
開拓民には村内に身寄りがなかった。入植者同士で助け合う「結(ゆい)」の精神で、各世帯が毎月100円ずつ積み立て、急な入り用があれば取り崩してまかなう。生命保険もなく、日当300円の時代。荷を積んだ馬車の下敷きになったけが人の手当てや、かさんだ肥料代に使われ、苦しい生活を支えた。時が過ぎても金額は変えなかった。
震災前は13世帯で35人ほどが暮らしていた集落。各世帯のまとめ役「組長」の鈴木栄さん(67)が豊栄の自宅で、赤い風呂敷に包まれた長方形の紙箱を見せてくれた。中には「昭和参拾五年」と書かれ、角がすり切れた帳簿や集落行事を記したノート。郵便貯金通帳2通も出てきた。
薄緑の通帳には「100円積立 豊栄開拓農業協同組合」の黒いボールペン字。もう1通の通帳には「100円貯金」と手書きしてある。
通帳の最後には、11年4月12日の欄に「解約」の印字。100円貯金の歴史が閉じた記述だ。飯舘村が計画的避難区域に指定されることが決まった翌日だった。
解約を決断したのは開拓団長の長男で満州からの引き揚げも経験している開沼幸一さん(73)。全村避難に直面し、先代から困った時にだけ使う金だと聞かされてきたことを思い出した。「集落を捨てて逃げなくちゃなんねえんだから、これほど困っちまったことはねえんだ。生きた金に使った方が良いのはあたりめえだ」。集落は福島市などに分散した。流転を味わった開拓1世も納得してくれるだろう。
「経済ばかり考えねえで進んでくれば、原発を造らなくてもいい世の中があったんじゃねえかな」。避難先から通って家の周りで伸びる草を刈る度に涙がこぼれる。汗を流して開いた土地が姿を変え、手入れが追いつかない。「土地は生きた証しだが、なんともしょうねえ。豊栄は図面の上にはあっぺけんども」。もう草刈りをする気持ちがうせてしまった。
◇豊栄地区(3) 荒れたビニールハウス
◆憂き目みた、でも古里がいい
安達正之さんがタラの芽を育てていたビニールハウス。「『春を呼ぶもんだ』って、かあちゃんと2人で育てたんだ」=福島県飯舘村豊栄地区で、町田徳丈撮影 あの日と同じように雪が降ってきた。放射性物質が村に降下した3月15日もそうだった。
天井からつり下がる寒暖計は氷点下3度。安達正之さんがタラの芽を育てていたビニールハウスだ。例年なら出荷期を迎え、ストーブで20度前後に暖められたハウス内に黄緑色の若芽が彩りを添えているはずだった。だが、風雨でビニールは破れ、雪が吹き付ける。昨春の収穫予定が書かれた紙が茶色に変色して風に揺れる。震災後は芽吹いた若芽を出荷できず、家の裏に捨てた。近くの斜面に立つタラの木は放射線量が作業を阻み手を付けられない。
時代の憂き目をみてきた。農業を継ぐため農業高校に進学し、卒業後に水田を倍の1ヘクタールに増やした。増産の声が強く、右肩上がりを夢見た。冬は横浜で鋳物の出稼ぎをして家計を補った。手応えをつかみかけた時、減反政策が村にも波及する。
農業では生計を立てられないと、父徳之助さんは乳牛に比重を移し、安達さんは日給がいい送電線の作業員に転じた。福島原発から東京に電力を送る送電線も架設した。「東電は金があんだ。何でもできんな」と目を見張った。
定年後は再び農業へ。村の振興作物になったタラの芽を8年前から夫婦でゆっくりと「までいに(丁寧に)」育てた。遠くは北海道からも注文が来始めていた時、被災した。
集落外れの共同墓地を案内してくれた。墓石が並ぶ中、安達家の区画は更地のまま。先に他界していた父と、10年に亡くなった母きくのさんのために、昨年墓を建て共に葬るはずだった。村の助産師として新しい命を取り上げ続けた母。「ちっちゃなお墓でいいがらおやじと一緒に休んでもらうべかなと」。だが、避難後はためらっている。切り開いた土地に眠らせてあげたい。でも、いつ帰って来られるのか分からない。
自宅の柱は開墾で切り倒した松。山間部で寒さが身にしみるはずだが、安達さんはなぜか避難先の伊達市のアパートより暖かく感じる。「やっぱりずっと住んでいたっからかな」。窓の外の古里に雪が降りしきる。
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この特集は杉本修作、町田徳丈、山本将克が担当しました。(グラフィック 松本隆之、編集・レイアウト 前川雅俊)
Posted by 大沼安史 at 05:01 午後 | Permalink
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