〔フクシマ・愛媛新聞・社説〕 新たな伊方原発訴訟 国策追従の過ち 司法も清算を(9日付)
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1978年に始まった伊方原発1号機訴訟は、日本で初めて原発の安全性が問われた裁判である。東京電力福島第1原発事故後に各地で提訴の動きが広がる中、愛媛という地で新たな法廷論争の幕があがるのはとりわけ意義深い。
きのう、県内外の住民らが四国電力を相手に、伊方原発の3基すべての運転差し止めを求める民事訴訟を松山地裁に起こした。300人に上る原告の巨大さは、ただ原発問題への関心の高さを示すだけにとどまらない。
伊方訴訟をはじめ、過去の住民訴訟はすべて原告敗訴で終わっている。だが、状況は一変した。福島原発事故を境に、司法の、裁判官の考え方は変わるか。誰もがかたずをのんで見守っている。
伊方訴訟は、その後の原発裁判の流れをつくってしまった。司法は、行政訴訟ならば原発の基本設計しか判断しない。行政に高度な裁量を認める。科学論争へ不用意に足を踏み入れない消極姿勢は延々と受け継がれていった。
多くの裁判官は国や専門家の主張に傾き、手続きに重大な落ち度がなければ「問題なし」という。結果として、司法は「安全神話」にお墨付きを与えてきたのが実態だ。
伊方訴訟は司法不信を決定的にもした。1号機の審理をほぼ終えた当時の松山地裁で担当裁判官の全員が不自然に交代した。この人事には最高裁の介入が指摘されている。言うまでもないが、司法の独立を自ら無に帰すような愚を繰り返すべきではない。
全電源喪失による炉心溶融の危険性。地震や事故への想定の甘さ。推進ありきの安全規制の矛盾。放射性物質の放出と健康被害の懸念。福島原発で起きたことのすべてが、伊方訴訟の争点だった。司法は行政監視の役割を積極的に果たしてきたか。法の専門家として、原発裁判の審理のあり方から省み、国策追従の過ちを清算するときだ。
新たな伊方訴訟が問うのは「原発は大地震に耐えられるのか」。原告は訴状で、伊方原発は日本最大級の中央構造線・活断層の近くにあるにもかかわらず、耐震性が不十分で、重大事故が発生する可能性が極めて高いと主張する。立地の宿命から逃れられない伊方原発の最大の論点だ。
信頼性が大きく揺らいだ国の安全審査や耐震指針だけをもって安全性を説くことにはもはや無理がある。被告の四国電力は公平な審理ができるよう、前向きな立証と証拠開示に努め、長年続く科学論争と向き合わねばならない。
多数がものをいう政治と異なり、法廷の正義は一人から始まる。訴訟には福島から愛媛に避難している住民が原告に加わっている。人権救済の最後のとりでであるべき司法の真価がここで問われる。
◎ 読んで、また涙がこみあげた。
Posted by 大沼安史 at 01:51 午後 | Permalink

















