〔フクシマ・ノート〕 被曝地のイエス
イブの昨夜、友人に教えられ、いまの日本が――日本のフクシマ被曝地が、イエスの生まれた、昔の(そして今の)パレスチナに似ていることに気付いた。
いまの米帝(原子力帝国)はローマ帝国である。イエスの時代、世界帝国であるローマに服従しながら、地元の人々を戒律で縛り上げていた植民地の権力者は、今の日本の権力者の姿に重なる。
極東の被曝地、フクシマ。
私たちに、イエスはいるのか?
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フクシマを被曝地と化した現代の原子力帝国の本性をさぐるにあたって、新約聖書の教えは参考になる。
わが尊敬する米国のジャーナリスト、ジェームズ・キャロル氏は、米国の「核の権力」の姿を、聖パウロの「悪」の定義でもって、こう描き出している。(『戦争の家』(下巻、緑風出版)参照)
・だからこそ彼は「悪」の定義において、無知、妥協、欺瞞の連続に――小さな堕落がいつの間にか巨大化することに、はるかに大きな力点を置いていたのだ。聖パウロの喩えは、個人的なものではなく、圧倒的に制度的なものだった。
・(だからこそ聖パウロは)「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」と、パウロは「エフェソの信徒への手紙」の中で書いている。「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と。
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利権や権力を求める小さな堕落が個人を超え、圧倒的に制度的なものと化していた、原子力帝国の属国である日本の原子力ムラ!
だからこそ、事故後、9ヵ月以上が過ぎても、「悪」は動こうとしないのだ。
フクシマの被爆者たちを――妊婦や子どもたちを、死の灰の十字架にかけても……。
原子力を推進して来た「圧倒的に制度的なもの」が、いまなお蹂躙し続ける被曝地・フクシマ。
現実がこうである以上、ヒバクシャである私たちは闘わざるを得ない。
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では、私たちが闘う相手とは何者か?
キャロル氏によれば、聖パウロは「主権」と闘え、と説いている、という。
・パウロの言葉で言えば、私たちが戦うべき相手は、「主権」なのだ。そして、このことを理解する鍵は、それが基本的に人間に敵対するものだという点にある。つまり、聖パウロは今、「政治」及び「人間の組織」の言葉を使っているのである。
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ここまでは、分かる。しかし、闘うべき相手が「政治」及び「人間の組織」=「主権」であるとして、では、どう闘えばいいのか?
私はここに――この問いの中に、現代での焼け跡であるフクシマ被曝地のなかに(あの石川淳の小説のように)、無名のイエスが無数に出現し得る契機が潜んでいるに違いない……と考える一人だ。
そう私が考えるのも、キャロル氏の聖パウロに「主権」論をめぐる以下のような指摘にもとづく。
・ただそれは、学者たちの言う、パウロはローマ帝国の独裁者や、無慈悲なローマ帝国の官僚制を考えて、この言葉を言った、ということではない。そうではなくて、パウロは人間の条件に関わる何かを語っていたのだ。
「主権」との闘いは、その担い手であり行使者でもある原子力属国の「権力者」や「霞が関」の官僚制との闘いであるわけだが、それは《「人間の条件」に関わる何か》をめぐる(めざす)闘いでなければならない。
だから焼け跡や被曝地には、マルクスだけでなく――それ以上にイエスが必要とされる。
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ところで、なぜ私がクリスマスの今日、この文章を書き始めたたかというと、イエスの時代のパレスチナと、現代日本のフクシマの間の類同もさることながら、3・11後の状況のなかで、政治経済的な分析を超えた、「人間の条件」の領域にかかわる、新たな活動の息吹のようなものを、日々、感じて来たからだ。
そういう「人間の条件」にかかわるコトバが(私に対しても)語られ、預(あた)えられ続けて来たからだ。
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たとえば、7月19日、福島市での対政府交渉で、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の中手聖一さんやメンバーの男性が語った、
・「私たちにも無用な被曝をせずに生活する権利があるでしょう? ないんですか?」
・「だめ、だめ、ここで逃げちゃ、だめ。人間としてつきあってくださいよ、われわれと人間として付き合ってください」
――。(→ http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2011/07/post-8f17.html )
あるいは、10月27日、経産省前に座り込んだ「福島の女たち」の代表が、政府への申し入れで語った、
・「だから、どうか生涯をかけて、ほんとに自分の良心とか、そういうものをちゃんと……私たちの今日の気持ちとか忘れないで活かしてほしいと思います。そうでなければ、私たち、犠牲になった意味はないんです」
(→ http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2011/10/post-e8ba.html )
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この9ヵ月半、無名のイエス、マリアの言葉として語られて来た、祈りのような言葉たち。
2011年のクリスマスに私たちが思い出すべきは、こうした被曝地からの願いであるだろう。
それはとくに「主権」の側にある人々がかみしめるべき言葉でもある。
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フクシマのクリスマス。
私はとくに、人として、良心の呵責にさいなまれているように見える、細野豪志・原発相に対して言いたい。
ユダになるな、ローマに引き返したペトロになれ、とお願いする。
「クォ・ヴァディス」……「(あなたは)どこに行くのか?」
「汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん」
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あなたにも、聴こえるでしょう、細野さん!
フクシマの被曝地の無名のイエスの声が!
Posted by 大沼安史 at 03:06 午後 | Permalink