〔梶村太一郎さんのベルリン通信〕 「高木さんが今いてくれたら」
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……この写真は高木さんの普段着のものとしてめづらしいかもしれません。
いまからちょうど17年前の12月です。
クリスマス前のドイツは夜明けが遅く、まだ窓外が暗い小さな台所で、登校前の小学生の息子と一緒に朝食をとられている写真です。
この頃の大変お元気な高木さんは、ベルリンでの学会などのあで、気のおけない市民運動の仲間である我が家に、二三日ほど転がり込んで骨休みをされたことが何度かあったのです。
こんなときの高木さんは、いつもの難しい表の顔とは打って変わって、個人的な話もよくされたものです。
あるとき、この小学生を相手に「わたし の息子はね、文科系なのに何を考えたのか航空会社のパイロットになりたいと言い出してね」と、そのころ飛行機の模型に凝っていた息子の興味を引いて、「そんな被曝の多い仕事はよせと言ったらね、『オヤジはもっと危険なことやっただろう』と反論されてすっかり参ったよ」とみんなを爆笑させたことがありました。パイロットの被曝が危険なことや、若い頃には実験用原子炉の一時冷却水をバケツで汲み出したりした「バカなこと」について判り易く話されました。
考えてみるとわたしの息子はまだ出来ていなかった「高木学校」の最初で最年少の生徒であったのかもしれません。高木さんが亡くなってから訊ねてみると「あのおじさん良く覚えているよ。その話は昼飯にお袋の作った蕎麦を食いながら聴いた」と記憶はわたしよりはるかに確かでした。
まだいくつかべルリンでの高木さんのことでは、もっと重要なこともあるので順次書き残しておこうと思います。いずれこれらを含めブログで改めて書たいと考えています。
さて、2000年6月のシュレーダー政権の「脱原発合意」の後の8月に、わたしは東京のご自宅で闘病中の高木さんをお見舞に訪ねました。
この訪日の少し前に「赤緑政権のこの脱原発はゴアレーベンの最終処理場試掘中止についても中途半端であり、裏切りだ」と大いに怒ったゴアレーベンの住民たちが、トラクターを連ねて大挙してべルリンへの政府中枢へデモをかけました。
その時はまだまだ大変にお元気てあった長老のマリアンネ・フリッチェンさが大演説をやったものです。
見ればトラクターに兵糧として持って来たジャガイモ袋が積んであります。反原発運動のロゴのあるその麻袋をひとつマリアンネさんからもらいました。
この袋を高木さんへのお土産にしたのです。それをお渡しながら高木さんに当時のドイツの政治情勢と元気な反原発市民運動の様子を報告して、大いに笑談したものです。高木さんの癌も末期にさしかかり、まもなくホスピスに移られる少し前のことでした。
そのときいきなり「病気の原因が若い頃の被曝であると考えていますか」と問いますと、ゆっくりとした「それだけはね、科学者としては言えないのだよ」と緊張した声が返ってきました。
笑顔が消え、わたしを見つめる悲しみをたたえた彼の表情と眼差しを決して忘れないでしょう。
自分にこそ厳しい市民科学者の重い言葉であったのです。……
Posted by 大沼安史 at 08:03 午前 | Permalink


















