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2011-11-17

〔ルポ 「現地の今」 本紙特派員 山本伸夫記者〕

 福島、宮城、岩手の被災地を10月13日から18日にかけて、車で駆けずり回った。「現地の今」を見たい一心で、取材として人に特に聞くといったことはしていない。それでも現地で話した中には、被災者の今の飾らない気持ちが感じられた。印象的なことをまとめてみた。
 
 ●心やさしい人々

 苫小牧発のフェリー「きたかみ」が仙台に入港する直前。若い男性がデッキから街並みを見入っていた。「仙台はそんなに壊れていないね」という私の素朴な質問に、青年はあきれたように、倉庫の壁の下部が大きくめくれ上がった鋼板、港を区画する倒れたフェンスを指差した。

 札幌でごみ焼却などを扱う技術者という。3月の地震直後に会社から派遣され、仙台に3週間ほど滞在した時は、ボーリング場などの建物が遺体置き場になっていたそうだ。「町の人が気の毒で、3月では声もかけられなかった。被災の様子も聞けなかった」という。 

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 福島・楢葉町に入る道路の封鎖地点(写真)から広野町へUターンした。道路際のコンクリート2階建てが除染中だった。

 数人が作業服にマスク姿で、高圧の放水銃のようなもので屋根を洗い流しているようだ。

 その建物の下で交通整理していた初老の男性は、建物は保育園で、除染は当面小中学校が対象と教えてくれた。「水しぶきを受けたら、汚染する。早く行った方がいいよ」という。応対が面倒なという以上の真実味があった。そして「この作業をどれだけやるのか」と嘆いた。

 ●不安な人々。「私はバイキンマンか」

 福島市渡利地区は都市部の中で放射能汚染の高い地域として注目されている。その渡利地区は県庁のある市中心部と阿武隈川を挟んだ古い住宅地で、幼稚園、小中学校に高校、また専門学校も建つ。地区のほぼ中央にある新聞販売店の前で、60代半ばの女性と話した。
 
 「放射能汚染が伝えられた3月、4月には、乳児や子供のいるお母さんたちが次々と渡利を出て行った。男の人は生活もあるし、出ていけないですけどね」と住民の動向を話した。

 さらに放射能対策で「地域ぐるみで除染を先日行った。どぶさらいなどです。住民が要望している2回目の除染は、汚染物の始末の見通しがつかないので実施できない状態。捨て場所が決まらないし、市はとりあえずそれぞれの家の敷地にというばかり。1回目?さあどこに持っていったのかしら」

 放射能の影響についても「私たちの年齢になると、影響が出ても10年、20年先といわれる。しかし、どう影響がでるかは本当には分からないんでしょ、やっぱり心配よ」
 
 福島市と飯館村をつなぐ中継点にある川俣町。飯館村との町村境で、かつて役場に勤めていたという74歳の男性と話した。放射能汚染が言われた3月末から2カ月は東京の娘宅に避難したという。

 家の前の地面を指差しながら、「ここの放射能は高い時、毎時2.8マイクロシーベルトはあった。今では半分ぐらいと言われているけどね」。

 そして、目の前に広がる義兄の世話する大根畑を見やって「大根をくれると言うが、おれは食べないね」ときっぱり。

 汚染が心配なのだ。さらに「学校や通学路をこれから除染すると言うが、森や畑ばかりのこの地域で本当にできると思うかい?」と問いかけた。

 この地域はマツタケが名産。「おれの山で毎年採れたが、今年はだめ、来年以降もどうなることやら。マツタケ狩りを商売にしている人には痛手だろう」

 飯館村。計画的避難区域で福島市に原則移転している役場は、土曜日にもかかわらず、当直者がかなりいるようだった。そして隣接の老人ホームの駐車場は車でいっぱい。役場前の線量計の赤い表示ランプを横目に、用事で来たという若い男性職員と話した。

 「県外ナンバーの車は警察や、住民の見回り隊からチェックを受けますよ。その時は、なぜ来ているか事情を説明したほうがいいよ」。線量計を見ながら「大変ですね」と話の水を向けたが、「あの線量計は正式のものではない」とそっけなかった。何も話したくないという雰囲気のまま庁舎に消えた。

 飯館村から降り一方の道を走って、南相馬市の火力発電所の見える地区へ入った。破壊された家の写真を撮っていると、トレーナー姿でウォーキング中の60代後半の女性が近寄ってきた。

 辺りはかつて農家や一般住宅が点在する水田地域だったようだが、今は家の残骸と沼原のように荒れた風景が異様だった。女性は津波に流された知人の様子、64人が死んだ老人ホームのこと、自分が助かった経緯などをひとしきり話した。

 放射能の恐れについて聞くと、「夏前まではみんなマスクをしていたの。でも夏の暑さで、いったん外したら、そのままになった。でも本当は怖い」という。

 そして「私はバイキンマンなのよ」と真顔でいう。娘と孫のいる東京に近く移ることになっている。その条件で「娘たちが言うには、汗いっぱいかいて体から放射能を出してからおいで、だって。なんだかバイキンマンのような扱いでしょ。でも孫に移したら本当に大変」。

 とりあえず、夫の出稼ぎ先の、「放射能汚染のない」青森に2週間ぐらい滞在してから東京に向かうつもりだ。

 そして「この近辺でも若い人、特にこどもの小さい人は多くが出て行ったままよ。もう別の仕事を見つけて、そこで暮らす覚悟を決めた人も多いそうよ」と続けた。

 ●誰も信じられない

 宮城県石巻市では港の南側に迷い込んだ。

 墓石の崩れた墓地、1階部分を津波に洗われた家が残る新興団地。その先でがれきが丘のようになった集積場近くの防波堤で、中学生らしい少年4人が投げ釣りをしていた。

 釣りの雑談後、突然、少年の1人が「札幌から?わざわざ何しに来たの?」と問うて来た。「被災地の現状を、自分の目で見とこうと思ったんだ」と真面目に答えたところ、4人ともうつむいてしまった。しばらくして「震災の話を家でするか」と聞くと、1人が「するよ」と答えてくれたが、3人は沈黙したまま重苦しい雰囲気は解けないままだった。

 岩手県南三陸町には、国道を山側から入った。

 見渡す限り、“平地”だ。山際にあるコンクリート3階建ての2階の窓に流木が刺さりこんでいた。当初、なんだろうと思った。しばらくして、ここまで津波に襲われたのだ、と理解した。あらためて見渡して、遠くに患者や住民が屋根に逃れた志津川病院を認めた。その先の志津川港。ワカメの養殖棚作りをしていた漁師2人と話す機会に恵まれた。

 その1人、細面の男性は「ボランテイアできた人も、最初、町の全景を見て、びっくりする。津波でなんもかも流されて、何もないのに驚く。テレビは壊れた建物を写すが、それしか写さないから、見る方はそれ以外は大丈夫と勝手に想像しているようだ」と私の驚きを推測してくれた。

 そして、意外な指摘をした。「津波で多く死んだのは山際の町民。俺たち、海側のものと違って、海から遠いぶん油断していたんだな」という。

 一緒に仕事をしていた丸顔で鉢巻をした男性。「専門家ほど当てにならない。津波だって、最初の警報は7、8メートルの津波と言ったのに、(港の後ろに残る2階建てアパートを振り向いて)実際はあの屋根の上を超して10メートル以上の波がきた。山まであっという間だったろう。津波は渦を巻き、鳴門の渦潮みたいに力強かった」と振り返った。

 港近くでプレハブ造りの雑貨屋が営業していた。主人は警報を聞くためかラジオを手放せないようだ。町の再建について、主人は「先日も町役場の説明会で高台移転先を3箇所が示された。でも、土地購入はこれからだという。これでは移転計画も絵に描いたもち、とあきれて、半分の人は帰った」という。先の漁師も「神戸でまちつくりをした人も、地震だけの神戸と、地震と津波のこことでは勝手が違うようだ」と話していた。再建はまだまだ見通しが立たないようだ。

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 釜石では、駅のある街並みから坂を1つ降りた市街と港周辺の被害が凄まじい。

 泊まったビジネスホテルも依然、1階は修復中で、冷暖房・朝食なしの仮営業。周辺の商店街も1階は軒並み被害を受けたまま、営業していない。信号も大半が回復していない。

 ホテル近くで飲み屋に入った。顔なじみのあいさつは、津波をどうしのいだか、家はどうなったか、そして今後の方針がお決まりのようだ。客の1人は父親が津波に飲まれて死んだと打ち明けた。また助け上げた2人のうち1人は掴んだロープに指を挟んで折れた、という悲惨な報告していた。

 防波堤を海側に入った桟橋は沈み込んだらしく、波が縁を超えて洗わんばかりだった。桟橋の男性2人はともに70歳前後と見え、1人はサバねらいの釣りという。もう1人は見学者で現在、仮設住宅住まい。

 見学者は「家は津波の来ないような高台にあったが、全滅。体育館に4ヶ月暮らした。最初は油がない、何もかもないで、寒さもあってとにかく大変だった。これからの寒さが心配」と案じた。

 当初、黙り込んでいた釣り人は、津波の話になると、倒壊した巨大なはずの防潮堤を逆光の中に捜してくれた。手をかざしながら「考えられないような、津波が来たのが事実。そんな津波を防ぐのに、どんな防潮堤を造れるのか。人の力を超えたものに、どう対応するのか」。穏やかな口ぶりが、なぜか印象に残った。

Posted by 大沼安史 at 03:10 午後 |

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