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2011-05-29

〔フクシマ・ノート〕 不可能な選択

 小出裕章さんが5月28日、山口県の周防大島で行った講演を視聴して、「原発」というものの意味を――あるいは「フクシマ」というもののほんとうの悲惨を、僕なりに理解できた気がした。
 (4分割のビデオの4本目) ⇒ http://hiroakikoide.wordpress.com/

 小出さんに何を教えてもらったか?
 それは「フクシマ」(あるいは原子力)というものが、私たちに「不可能な選択」を強いるものである、ということである。 

 選びようのない選択を強い、人間の存在を切り裂くもの……それが「フクシマ」だと。

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 講演の終わり近くで小出さんは、スクリーンに「チェルノブイリ」事故の際、撮影された一枚の写真を映写した。

 避難のバスに向かう女性の写真である。泣きながら、猫を抱えて歩く女性の写真。

 もう自分の家に戻ることはできないと、心のどこかで思っているから、一番大切な猫を抱いて、避難のバスに乗り込もうとしている……。

 写真を映写しながら、小出さんはこう語った。

 「被曝はさせたくない。かと言って、追い出したらその人たちの生活が崩壊する。どっちも選択できない」

 逃げれば生活は破壊され、逃げなければ生命の危機に曝される。
 選択不能な選択を突きつけたられた「チェルノブイリ」の人たち。

 小出さんはこう思ったそうだ。

 「どっちも選択できない。どうやったらそういう選択をしないで済むか、と考えたときに私は原子力を止めるしかないんだ、と思いました」

 そして、こう続けた。
 「なんとか原子力を廃絶したい、事故が起きる前に廃絶したいと思って来たのですけれども、残念ながら福島で事故は起きてしまった。そして今、私たちがその選択を迫られている……」

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 小出さんの言うように、「フクシマ」の人々もまた、たしかにいま「チェルノブイリの不可能な選択」を突きつけられているのだ。

 避難すれば、それまでの生活が、人生が無に帰す。自分が育ち、自分が育てて来たものが、消える。

 だからあの飯舘村に戻る人が出ているのだ。被曝の恐怖を知らないわけではない。知っていながら、飯舘を自分の居場所だと、もうひとつの不可能な選択をした人たち。

 命がけの選択――身を斬られる思いとは、「フクシマ」の避難民の方々が日々、感じていることだろう。

 どっちとも選択できないもののどちらかを選択せよ、と迫られているわけだから。

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 米プリンストン大学のロバート・スコロウ氏が核問題の専門誌「核科学者報(ブルティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ)」に、「フクシマを思う」というエッセイを書いていた。 ⇒ http://www.thebulletin.org/web-edition/op-eds/reflections-fukushima-time-to-mourn-to-learn-and-to-teach
 
 そこにこうあった。

 私たちはいま文明化した社会が大規模な「ソフィーの選択」に直面している姿を目の当たりにしている。
 We are watching a civilized society facing Sophie's Choice writ large,

 「ソフィーの選択」とは、映画にもなったアメリカの作家、ウィリアム・スタイロンの小説の主人公、ユダヤ人の女性「ソフィー」が「アウシュビッツ」で迫られた、あの究極的な「不可能な選択」を指す。

 息子ヤンと娘のエバとともにアウシュビッツに送られた「ソフィー」は、ナチスにこう迫られるのだ。

 子どものうちのどちらかを差し出せば、もうひとりは助けてやる。
 どちらか決められないなら、2人とも殺す……。

 このスコロウ氏のエッセイを初めて読んだ時、僕はその意味をよくつかめなかったが、小出さんの講演を視聴した今となっては、痛切に理解できるのだ。

 いま「フクシマ」で迫られている「不可能な選択」とは、「ソフィーの選択」にも等しい、むごい選択である、と。

   #

 人々に「ソフィーの選択」を強いる「フクシマ」。

 人々の存在を切り裂き、「不可能な選択」を強いる「フクシマ」。

 ナチスが悪であれば、原発もまた悪である。
 アウシュビッツが絶対悪であれば、フクシマもまた絶対悪である。

Posted by 大沼安史 at 08:44 午後 |

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