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2011-03-05

〔コラム 机の上の空〕 セルフ・コンパッション (self-compassion) 

  ニューヨーク・タイムズ電子版フロント頁の「人気記事ランキング・トップ10」に、「セルフ・コンパッション(self-compassion)」なるものを紹介する記事が載っていた。⇒ http://well.blogs.nytimes.com/2011/02/28/go-easy-on-yourself-a-new-wave-of-research-urges/?src=me&ref=general

 人気記事リストの上位にランクされている――ということは読まれている、ということである。関心を持たれている証拠である。

 タイムズの電子版読者はやはりアメリカ人が大半だろうから、この記事はアメリカ人が関心を持ち、読もうとした(読んだ)記事――ということだ。

 「セルフ・コンパッション」――新語である。新しいコンセプト。

 そのどこにアメリカ人は心引かれているのだろう?

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  セルフ(self)の付かないコンパッション(compassion)はラテン語(後期ラテン語、14世紀~)の compassio(同情)から来た言葉だと辞書に出ていた。
 com(共に)+ passion(苦しむこと)

 同情――ともに苦しむこと。
 苦しみを分かつこと、といっていいかも知れない。

 苦しんでいる相手を思いやること――思いやり、でも間違いではないだろう。

 それでは、セルフ・コンパッションとは何か?

 セルフ(自分自身)を、思いやることである。苦しんでいる自分を、自分で思いやることである。

 日本語にすれば、「自分への思いやり」――か。

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 タイムズの記事によれば、この新しいコンセプト(心理学の新分野)を提唱し、その重要性に注意するよう求めているのは、テキサス大学オースティン校のクリスティン・ネフさんという女性の研究者(准教授)だ。
 (このコンセプトの定義など詳しくは、ネフさんのサイトを参照。⇒  http://www.self-compassion.org/ )

 さて、タイムズの記事はごくシンプルに、この「セルフ・コンパッション」は、自分に対する簡単な質問から――それを土台にして立ち上がる概念(分野)だと指摘する。

 その自分に対する質問とは、

  Do you treat yourself as well as you treat your friends and family?

  直訳すれば、(自分に向かって)あなたは、あなたの友だちや家族に対するように、自分自身を遇して(取り扱って)いますか?

 ―― これを(僕なりに勝手に)意訳すれば、お前は友だちや家族の苦しみを思いやるように、苦しんでいる自分を思いやっているか?(自分の苦しみを、自分自身で分かとうとしているか?)……となる。

 ネフ準教授によれば、こういうことができる人は、あまり落ち込まず、不安に慄かず、より幸せに、より楽天的になれるのだそうだ。

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 こういうコンセプトに――自分の苦しみに対する対処法に、アメリカ人は今、強い関心を示し、おそらくは共感している……

 これを「ハッピーになる、手軽なハウツー」として笑い飛ばしてはいけない、と僕は思う。

 いまのアメリカの社会状況に重ね合わせて考えれば、アメリカの人々が「セルフ・コンパッション」に目を向け、関心を抱き始めたことの意味は、深くて重いような気がするのだ。

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 僕の記憶にある限り、(セルフ抜きの)「コンパッション」を、政治プロパガンダのうたい文句に使ったのは、息子ブッシュだった。

 新自由主義を掲げた、アメリカ社会の破壊者が抜けぬけと「コンパッション」を語るのには恐れ入ったが、ブッシュの語る「コンパッション」には上から下への目線があるだけで、そこには com(共に)に込められた、「人々の(水平的な)連帯」の響きはなかった。

 醜悪で下劣な、施しとか憐憫といったものが、腐臭のように漂う、欺瞞的なスローガンだった。

 しかし、今や――アメリカの共和党に代表される新自由主義者からは、コンパッションのコの字も聞こえてこない。

 コンパッションは今、富裕な特権層、プルトクラシーの支配者側にはない。

 ダウンサイジングの果て、落ちるとことまで落ちた民衆の側に、コンパッションは息づいている。

 これはこのブログで先に紹介したことだが、共和党のネオリベ州知事が公務員の低賃金(民間の平均より低い)を削り、団体交渉権まで制限しようとしているウィスコンシン州の州都マディソンの議事堂で、「レ・ミゼラブル」の歌、「われわれの声が聴こえるか」の合唱が湧き上がったのも、そこに、虐げられた者同士の「コンパッション」に広がりがあったからだろう。

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 「セルフ・コンパッション」に対する関心の高まりの底に、こうしたミゼラブルな一般大衆の「コンパッション」が、強固な基盤としてあるのは間違いないが、注目すべきは、それが主体的な意志、あるいは構えとして「個人化」し、「セルフ」付きのものになっていることだ。

 「セルフ・コンパッション」……苦しむ自分を思いやる自分。

 そこには、セルフ・ピティー(self-pity)=自己憐憫のような、自己放棄、またはある種の撤退のような響きはない。

 そこでは、自分を思いやる自分が「主体」として存在し、しかも、人と人をつなぐ com(共に)よって、社会的に支えられているのだ。

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 友だち、家族の苦しみを思いやるように、苦しんでいる自分を自分で思いやる……。

 その自分への思いやりには、自己嫌悪を伴った自己否定はない。
 苦しみをごまかす自己欺瞞もなければ、勝者への道をがむしゃらに突き進もうとする、卑しく苦しい息遣いもない。

 お前は友だちや家族の苦しみを思いやることができるだろう?
 それなら、自分を責めずに、自分の苦しみを受け入れ、苦しむ自分を思いやったらどうだ?

 そこがわれわれの出発点じゃないかな?

 その思いやりの中で、お前は、友だちや家族、あるいは同じ「自分を思いやる人々」とつながることができるんじゃないか?!

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 アメリカはこれまで、新自由主義という階級戦争の暴風が吹き荒れ、隣人を愛するどころか、周りの者を蹴落とす、Beggar thy neighbour (汝の隣人を乞食にせよ)ばかりが、まかり通って来た。

 マディソンの議事堂へ押しかけた抗議の民衆の間で、次のような、ジョークが広がったそうだが、これは冗談ではない。あくまでも現実のたとえ話である。

               12枚のクッキーの話

 12枚のクッキーが乗ったテーブルを、富豪とお茶会のメンバーとふつうのアメリカ人の3人が取り囲みました。

 早速手を伸ばしてクッキーを11枚、掠め取ったのは富豪でした。

 テーブルの上には、たった1枚のクッキーが残っているだけ。

 富豪はお茶会のメンバーをそそのかしてこう言いました。

 「その1枚、お前にやる。とられないうちにとってしまいな」

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 マディソンの人たちは――あるいは、日本を含む世界のレ・ミゼラブルたちは、最後の1枚のクッキーさえない、ネオリベの荒野の中で、苦しみを分かち合っているのだ。

 現代史において初めて、グローバルな規模で「同じ苦しみ」に向き合い、それを自分の苦しみとして、他者と同じ苦しみを分かち合いながら見つめ、聖書にも言う「マルチチュード(動き出した群衆)」として、共に分かち合おうとしているのだ。 

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 SELF で COM なパッション。個人的で社会的な痛み、苦しみの分かち合い。
  そこから始まる、全世界規模の世直し。

 2011年から開始された、21世紀、世界 Self-compassion 革命!

  出発点はあくまでも、「私(セルフ)」だ!

Posted by 大沼安史 at 11:08 午後 3.コラム机の上の空 |

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