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2010-08-10

〔コラム 机の上の空〕 ルース大使を包んだ ヒロシマの光

 米国の精神分析家、ロバート・ジェイ・リフトン氏が、「デモクラシーNOW」のインタビューに応え、ヒロシマの慰霊式典に、米政府を代表し、ルース駐日大使が初めて参加したことについて、「最初の一歩に過ぎないが、とてつもなく重要なこと(enormously important)」と高く評価していた。
 ⇒ http://www.democracynow.org/2010/8/6/us_attending_hiroshima_memorial_enormously_important

 リフトン氏はヒロシマの生存者にインタビューして、 Death in Life: Survivors of Hiroshima を書いた人。知日家で、戦後、核兵器に反対する立場をとり続けて来た人でもある。

 そのリフトン氏が、「ルース大使出席」を「とてつもなく重要」と評価していたので、最初は戸惑いを覚えたが、その理由を聞いて、僕なりに納得した。

 because it signifies our joining in honoring the dead – that’s what that occasion is about, honoring the dead—and finding meaning in their deaths.

 「なぜなら、それは私たちアメリカ人がヒロシマの死者の追悼に参加することを意味することだからだ。死者を追悼し、ヒロシマの被爆者の死の中に、われわれとして意味を見出す。それが今回の大使参列の全てだ」

 ***

 ルース大使から「明確な謝罪」がなかったことはたしかである。しかし、米政府の代表が、そこに着席し、苛烈なヒロシマの光を浴びながら、そこに流れる慰霊の時間を、被爆者らともにした意味は小さなものではない。

 たかが大使の分際で、と言うなかれ。ルース大使は日本における「米政府の代表」である。その米政府代表が、喪服を着て、犠牲者の追悼に参加した意味を、政治的な打算に還元して過小評価すべきではないだろう。

 むしろ、原爆攻撃をした加害国である「アメリカの代表」が喪服を着て、――一おそらくは、一個の人間=アメリカ人としても――ヒロシマの犠牲者を追悼した、という行為には、核攻撃という、二度と繰り返してはならない決定的な過ちを乗り越えてゆく、可能性を見るべきではないか。

 ――これがリフトン氏が短いインタビューの中で言いたかったことではないか……そう思うことができて、納得したのだ。

 ***

 たとえば中国の南京事件の慰霊祭に、日本の大使が出席し、犠牲者の追悼に加わった時のことを想像すれば、リフトン氏の言わんとする意味は、もっとハッキリするかも知れないが……。

 ***

 もちろん僕の中にもシニカルな部分があって、リフトン氏の指摘を耳にするまでは、ルース大使は心の中でせせら笑って、ヒロシマの夏の暑さを呪いながら、ひたすら時間が過ぎるのを待っていたのだろうか?――などと思ったりもしていたものだが、いまは違う。
 
 リフトン氏同様、そうであってはならない、いや、そうであるはずがない、と僕もまた思うのだ。

 そうであるはずがない理由はハッキリしている。

 ヒロシマの8月6日の朝の光には、偽りを決して許さないものがあるから。

 別席の記者会見では「核抑止は必要」と言った菅首相も、だから式典では明確に「核廃絶に先頭に立つ」と言い切っていたのだ。

 ヒロシマとはそういう場所なのだ。

 ***

 そんなヒロシマの慰霊の式典に、ルース大使も列席していた!

 これを enormously important な出来事と言わずして、ほかにどんな言い方があるだろう。

 とてつもなく重要なことが、ことしのヒロシマの日で(ようやく)、起きた!

 ロバート・ジェイ・リフトン氏の指摘に全面的に同意、賛成する。
 

Posted by 大沼安史 at 06:45 午後 3.コラム机の上の空 |

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