〔重要NEWS〕 Hiroshima and the Art of Outrage 大江健三郎氏がニューヨーク・タイムズに寄稿
作家の大江健三郎氏がニューヨーク・タイムズ(電子版)に寄稿した。題して Hiroshima and the Art of Outrage(ヒロシマと怒りの作法)。
⇒ http://www.nytimes.com/2010/08/06/opinion/06oe.html?_r=1&hp
上記、時事通信の記事も取り上げているが、大江氏の、特に「核の傘」に関する批判は実に痛烈だ。
And what about the bombing victims who will fill the venue? Wouldn’t they feel a sense of outrage if they were told that it’s their moral responsibility, as citizens of the only atom-bombed country, to choose to live under the protection of a nuclear umbrella, and that wanting to discard that umbrella in favor of freedom is, conversely, an abdication of responsibility?
(拙訳)(6日に)そしてヒロシマの慰霊会場を埋めることになるだろう被爆者たちについては、どういうことになるだろう? もしも被爆者たちが、唯一の被爆国の市民として、「核の傘」の保護に生きることを選ぶのが、その道徳的な責任だと言われて、彼らは激しい怒りを覚えない、とでも言うのか? また自由を求めて核の傘を捨て去りたいと願うことは、責任の放棄になってしまうのか?
アメリカの「核」の通過を認めようとする菅直人政権に対する、大江氏のこの痛烈な批判!
大江氏は、ヒロシマに救援の品を持って出かけた母親の体験(母親の友人の被爆体験)にふれたあと、こう書いて文章を結んでいる。
As for me, on the day last week when I learned about the revival of the nuclear-umbrella ideology, I looked at myself sitting alone in my study in the dead of night . . . . . . and what I saw was an aged, powerless human being, motionless under the weight of this great outrage, just feeling the peculiarly concentrated tension, as if doing so (while doing nothing) were an art form in itself. And for that old Japanese man, perhaps sitting there alone in silent protest will be his own “late work.”
(拙訳)私について言えば、「核の傘」イデオロギーの復活を知った先週のある日、私は死んだような夜の書斎に独り座っている自分自身を見ていたのだった……私が見たもの、それは、まるでそうすることが(何もしていないにもかかわらず)、それ自体において、ある作法であるかのように、この大いなる怒りの重みの下で身じろぐことなく、ただただ、不思議に集中した緊張感を感じている、年老いた、力のない、一人の人間の姿だった。この年老いた日本の男にとっては、沈黙の抗議の中で、そこに独り座り続けることはおそらく、彼自身の「最新の作品」になるものである。
大江氏の書斎からの、気迫のこもった、言葉による、怒りのプロテストに敬意を表する。
Posted by 大沼安史 at 06:47 午後 | Permalink