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2010-04-22

〔いんさいど世界〕 「御用書き」を超えて ジャーナリズムよ、よみがえれ!

 〔増補版〕

 英紙ガーディアンの電子版のリーダーだったエミリー・ベルさんが、米・コロンビア大学のジャーナリズム大学院に移籍することになった。「デジタル・ジャーナリズム研究センター」を統括するそうだ。
 ⇒ http://www.guardian.co.uk/media/2010/apr/21/emily-bell-to-leave-guardian

 ガーディアンの電子化での実績が評価されたのだろうが、その辞任を――退社を、まるで誇るかのように報じたガーディアンも、さすがガーディアンである(ただし、コンサンタントとしてはとどまる)。

 社を中途退社し、新天地を求めるような人間に悪罵を投げかけることしか知らない、どこかの「組織ジャーナリズム」とは大違いだ。

 

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 僕はガーディアン(昔は「マンチェスター・ガーディアン」と言った)を以前、「紙」で購読したことがある。英語が、今よりもっと出来ない頃だったから、手ごわい英語だな、と思ったことを今も憶えている。
 英語の最高級紙!
 それが、いま電子版で、仙台にいても読めるのだ。インターネットが可能にしたことだが、これはありがたいことである。
 しかも、過去のニュースを収蔵した「アーカイブ」を含めて!
 過去記事、アーカイブの無料化は、たとえばルモンドでは掲載から一定の期間を過ぎると有料になる。ニューヨーク・タイムズも(いまのところ)基本的に無料だが、古い記事は有料化されている。
 しかし、ガーディアンは違うのだ。僕のようなものにも、タダで読ませてくれる。

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 エミリー・ベルさんの下、インターネットにおける「グローバル・ペーパー」に成長したガーディアン。電子版の読者はどれほどに達しているか?

 答えはなんと「3700万人」近く! 新聞の部数で表現すれば、3700万部近くに達しているのだ。

 これは日本のマス・ペーパー、「読売」の3・5倍。これだけの読者を、ガーディアンは全世界に確保しているのである。

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 それでは、ガーディアンの電子版が、それだけの「読者」を何故、確保することができたか?

 それは、ガーディアンが「ジャーナリズムをしている」からである。
 世界の「読者」の期待に応えているからだ。

 僕がガーディアンの電子版で凄いなと思ったのは、たとえば昨年末の「コペンハーゲン環境サミット」での、ブログを利用した「刻一刻報道」である。

 コペンハーゲンの会議で、今何が起きているか、ガーディアンの電子版は、同時並行で速報し続けたのだ。

 そして先進国の対応に反発するサミット関係筋は、ガーディアンに会議資料をリークして、必死に流れを変えようとした……。

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 そうした「同時速報性」もさることながら、ガーディアンの電子版がグローバル読者を抱え込むことができたのは、ガーディアンという新聞そのもののあり方である。

 ガーディアンという新聞は、徹底して「反権力」に立場に立ち、「平和」を、「環境保護」を訴える新聞だからだ。

 ガーディアンの権力悪に対する、社会の木鐸としての追求は徹底していて、たとえば「死の商人(兵器産業)」にメスを入れるのに、大学の研究者たちを巻き込む取材態勢をつくり、時間をかけて、あぶり出している。

 あるいはブレア元首相の収入資料を電子版サイトで公開し、どうしてこれほど膨大な収入があるのか、一緒に突き止めないか、と世界の読者に呼びかける、不敵さ!

  イラクの米軍ヘリ掃射虐殺ビデオをすっぱ抜いた「ウィキリークス」とも連携し、電子版に専門のコーナーを開いている。⇒ http://www.guardian.co.uk/media/wikileaks

 ガーディアンとはそういうことをする――してくれる新聞だ、ほんもののジャーナリズムだ……それが電子版に世界の読者を引きつける誘因になっているのである。

 (ガーディアンの電子版では「同じような考えの相手をゲットしてはみませんか?」という「お見合いサイト」もあるが、この電子版で出会った彼女であれば、付き合ってもいいかな、とついつい思ってしまう)

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 ガーディアンの電子版の取り組みは、日本の新聞ジャーナリズムの教訓になるべきものだ。

 僕は古巣が北海道新聞(道新)なものだから、どうしても新聞(道新)をベースに考えてしまうが、日本の既存マスコミがもしも「紙」&「デジタル」の両面で巻き返しを図りたいなら、徹底した「同時速報性」――たとえば、国会や道議会の動きの同時速報――と、「社会の木鐸性」を追求する必要がある。

 読者(読み手)の立場に立った、権力におもねらないジャーナリズムが、いまこそ求められているのだ。

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 道新には「道警裏金問題」をスッパ抜いた高田昌幸記者のような、世界のどこに出しても恥ずかしくない、正義感のある優秀な記者がいる。

 高田記者のような人間に「紙」&「デジタル」で、たとえばコラムのようなものを徹底的に書いてもらえば、「紙」の読者(道警の心ある警察官を含む)はますます道新を信頼し、「ディジタル」の読者もまた、旧内務省の特高体質を今に残す警察庁全国・地元警察支配の実態に対する疑問を深めながら、道新を支持し、ネットを通じて応援することになろう。

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 要は「紙」であれ「デジタル」であれ、「ジャーナリズム」を、どれだけやるかに尽きる。

 ガーディアンのエミリー・ベルさんの電子版リーダーとしての成功は、ガーディアンのジャーナリズムの苦闘の成果以外の何物でもない。

 デジタル・ジャーナリーズムの成功とは、ジャーナリズムの苦闘の結果以外の何物でもないのだ。

 「御用ジャーナリズム」から決別の時。

 あの「スト権スト」の時、政府指揮の「迷惑」大合唱に加わり(加藤周一氏は「迷惑」論を厳しく批判していたなあ……)、「国際貢献」だといってイラク侵略に加担し、イラク人々と連帯しに出かけた「若者たちに」に「自己責任」論を突きつけた、権力ヨイショ、社会の木鐸とはまるで違う「会社のボクたち(?)」――的「御用書き」は、もういらない!

Posted by 大沼安史 at 06:33 午後 |

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