〔コラム 机の上の空〕 小林多喜二、「復活」の組曲
井上ひさしさんの戯曲、『組曲虐殺』を、「すばる」1月号に載った台本で、紙上観劇した。
小林多喜二をめぐる、井上ひさしさんの評伝劇だ。
台本から、立ち上がる北海道弁。「そんなハンカクセェごどありますか」「ではないかい」――。そしてたとえば、「小樽電気館」(映画館)といった固有名詞。
1971年、新米の新聞記者として、初任地の北海道・根室で「女工節」を聴き、その後、小樽に転勤して、4年間、「多喜二の街」で暮らした私には、懐かしさのこみあげる「舞台」だった。
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この戯曲を読んで、私はトルストイの小説、『復活』のことを思い浮かべた。
そこには、似ていて違う――しかし共通するものがあった。
どこがどう似ていているかは、言うまでもない(たとえば、「カチューシャに対するニェフリュードフ」と、「瀧子に対する多喜二」の関係。彼女ら2人がともに「酌婦」だったこと)。
違っているのは、たとえばニェフリュードフが物語の終わりにおいて、人生の新たな旅路を始めようとするのに対し、特高の拷問で殺された多喜二は、その短い人生を終えていることだ。
しかし、違いはもちろんそれだけではない。トルストイの「身代わり」ともいえるニェフリュードフは、体制に憤り、革命運動に理解を示し、貧しい人々、困難を背負った罪人らに同情を寄せ、できる限りの救援をするが、貴族ではない多喜二は、地下に潜って書く、抵抗運動を続けるしかなかった。
ここにトルストイの平和主義と、多喜二の時代のプロレタリア文学の決定的な――大きな差がある。
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周知のようにトルストイは日本の「白樺」派に大きな影響を与えた人だ。その白樺派の代表的作家のひとり、志賀直哉が、多喜二あてに出した有名な手紙が、千葉県我孫子市の「白樺文学館」(⇒ http://www.shirakaba.ne.jp/ )に残っている。
その手紙には、たとえば、こうある。「主人持ちの芸術はどうしても希薄になると思ひます。文学の理論は一切見ていないといっていい位なので、プロレタリア文学論も知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするやうに私は考へます」
あるいは、「トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさえて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばっていたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます」。
20歳年下の多喜二に対する、志賀直哉なりの親身(志賀直哉は多喜二と一度、会ったことがある。好感を持ったそうだ!)のアドバイスだが、ここにも「トルストイアン」と、プロレタリア文学者たる「多喜二」の違いが現れている……。
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こうした「違い」はもちろん、常識的な解釈で、ほとんど誰もがうなずくことに違いないが、私が実は『組曲虐殺』を紙上観劇して感じたのは、むしろ「復活」との共通性である。
井上ひさしさんはもちろん、トルストイと多喜二の「比較文学論」を書いたのでなく、小林多喜二という人間を書いたのだ。多喜二のプロレタリア文学を批評したのではなく、それを書いた「多喜二」を書いたのだ。それを書いて死んだ「多喜二」を、舞台の上でよみがえらせたのだ。
そのよみがえった「多喜二」が、「トルストイ」に実によく似ている。外見ではなく、その人となりが似ているのだ。
たとえば「ベートーベンのバイオリン協奏曲、作品番号六十一番」を好きだった多喜二!(トルストイも〔ブルジョア?〕音楽が好きだった。「復活」にはたしか、ベートーベンの交響曲第五番のことが出て来る!)
(2人の特高刑事がおしくら饅頭をし、母、妻、そして瀧子もおしくら饅頭を始める姿をみて)「これはもうぼくの、一番新しい、かけがえのない光景だな」と語る、多喜二の平和主義! (階級的な憎悪を否定し、汝の敵――この場合は「特高刑事」――を愛せ、と教えたトルストイ!)
そして「多喜二」は舞台の上で、こうも語るのだ。「わたしは……伏せ字なしでものを言うにいい世の中になればと、そう思っているだけです」と。
この素朴な一念のどこに、志賀直哉の言う「運動意識」「主人持ちの芸術」「のさばる思想家」があろうか?
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『組曲虐殺』の最後の場面(「唄にはさまれたエピローグ」)は、多喜二の告別式の「数日後の午後8時過ぎ」。
幕が下りる前に歌われる最後の組曲は「胸の映写機」。
カタカタまわる 胸の映写機
かれらの姿を 写し出す
たとえば
本を読み 歩くすがたを
人さし指の 固いペンダコを
駆け去るかれの うちろすがたを
とむらうひとの 涙のつぶを
本棚に彼が いるかぎり
カタカタまわる 胸の映写機
――カタカタカタ カタカタカタ
カタカタカタ カタカタカタ
カタカタカタ カタカタカタ……
台本の活字からは舞台で歌われた、この最後の合唱がどんな音楽なのかうかがいしれないが、そのメロディーが私たちの今に続く「空間(光景)」を表し、そのリズムが私たちのこの場所に続く「時間(時代)」を刻むものであることは確かなことだ。
それは私たちの未来に続くものであるだろうし、トルストイの時代のロシアにも遡るものであるだろう。
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井上ひさしさんの舞台で、「小林多喜二」は「復活」を遂げたのである。
Posted by 大沼安史 at 05:32 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink

















