〔コラム 机の上の空〕 「戦争の家」の申し子、マッカーサー将軍が最後に語った「平和の言葉」
米国防総省(ペンタゴン)の全史、『戦争の家』(拙訳、緑風出版)を書いた、米国の小説家でもありジャーナリストでもあるジェームズ・キャロル氏が、ボストン・グローブ紙(1月25日付)に、「人間は戦争を生きのびることはできるか」とのコラムを書いていた。⇒ http://www.boston.com/bostonglobe/editorial_opinion/oped/articles/2010/01/25/can_the_human_race_outgrow_war/
自らの少年時代の戦争ごっこから書き出したコラムは、ダグラス・マッカーサー将軍について語りながら、まるで「戦争」が国家プロジェクトとなったようなアメリカの現状を批判するものだった。
朝鮮戦争の時代に育ったキャロル少年にとって、「戦争の英雄」だったマッカーサーを語ることが、どうして現在のアメリカ軍事帝国の批判につながるのか?
私たち日本人が知るマッカーサーは、あの「出て来いニミッツ、マッカーサー」のマッカーサーであり、パイプをくわえて厚木に降り立ったマッカーサーであり、人間天皇と並んで記念写真を撮ったマッカーサーだ。
マッカーサーは陸軍元帥として、日本占領を指揮したあと、朝鮮戦争を戦った最高司令官。
そんなマッカーサーだから、彼が「戦争の廃棄は何世紀にもわたって人間の夢であり続けて来たが、その目標に向けたあらゆる命題は不可能なもの、幻想として、これまで即座に放棄されて来た」(キャロル氏のコラムでの引用)と語っても、それは不思議なことではない。
実際のところ、マッカーサーは朝鮮戦争で、原爆の使用も提起した人だった。
にもかかわらず、キャロル氏によれば、そのマッカーサーが亡くなる3年前、1961年7月5日(アメリカ時間)、思い出の地、フィリピンのマニラで、軍人としての経歴、あるいは軍人としての発言を自ら否定するような、次のような演説を行っていたという。
「戦争の廃棄は……最早、学識のある哲学者たちや聖職者たちだけが熟考する倫理問題はなくなっている。その生存こそが重要な一般大衆の決断にとって重要な中核的な問題になっているのだ。……生存こそが重要な一般大衆――それは私たちのことである」
The abolition of war. . .is no longer an ethical question to be pondered solely by learned philosophers and ecclesiastics, but a hard-core one for the decision of the masses whose survival is the issue.……The masses whose survival is the issue - that would be us.
これが再び、マニラにリターン(凱旋)した老マッカーサー、81歳の言葉だった。まるで、日本国憲法の9条に学んだような「非戦論」ではないか!
しかし、それにしてもなぜ、キャロル氏は今頃になって、マッカーサーのことを書く気になったのか?――その直接の動機は、マッカーサーの誕生日〔1880年の「1月26日」(つまり、今日はマッカーサーの生誕130周年の記念日)〕と結びつくものだろうが、新しい年=2010年を、「戦争の家」の惨憺たる破壊の衝動に、歯止めをかける転機の年としたいからでもあるだろう。
マッカーサーは、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」と言った。しかし、将軍は平和の言葉を遺してこの世を去ったのである。
「戦争の廃棄」――マッカーサーの言った言葉は、沖縄の声でもあり、9条の精神でもあり、アフガン戦争をはじめ全戦争に反対する、全世界の人々の訴えでもある。
☆ ジェームズ・キャロル著、大沼訳、『戦争の家ペンタゴン』(緑風出版、上下2巻) ⇒ 本欄 右サイド 参照
Posted by 大沼安史 at 08:58 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink