〔コラム 机の上の空〕 「平和の汽笛」を鳴らし続けた人 ハワード・ジン氏 死す
米国の歴史家のハワード・ジン氏が27日、お亡くなりになった。
87歳。活動疲れを癒しに出かけたカリフォルニア・サンタモニカでの死因は心臓発作だった。
戦争に反対し、平和と正義の実現を求めて、ひたすら歩んで来た人生だった。公民権運動を闘い、ベトナム反戦運動を続け、この10年は「イラク・アフガン戦争」反対運動の先頭に立ち続けて来たジン氏は、最後まで活動をやめず、活動の最中に、遂に倒れた。
「米国の良心」として、立ち姿で大往生を遂げたジン氏だが、立ち止まらず、後退せず、逃げ出しもしなかった人だ。
ニューヨーク・ブルックリンのユダヤ移民の貧困家庭に生まれた。お湯も出ない、水道の蛇口も一箇所しかないような、ボロアパートに育った。寒風吹きさらしの造船所で働き、第2次大戦中は、ヨーロッパ戦線で、B24爆撃機の爆撃手として戦った。戦後、GIビルで大学に進学、歴史学者となった。
その人生の歩みは、自伝、“You Can’t Be Neutral on a Moving Train(「驀進する列車の上で、中立ではいられない」” (1994)に詳しいが、南部アトランタの黒人女子大、スペルマン・カレッジに歴史学の教師として赴任して以来のジン氏の軌跡は、自伝のタイトル通り、「中立」と言う安逸に逃げ込まず、「暴走するアメリカ」にブレーキをかけ、「現代アメリカ」という名の列車を、平和と社会正義の方角へと向けようとする、闘いの歴史だった。
この自伝を読んで忘れられない箇所が二つある。
ひとつは、若きジン氏がスペルマン・カレッッジの教員をしながら、公民権運動組織、SNCC(学生非暴力調整委員会)のアドバイザーをしていた時のエピソードだ。
教え子の黒人の女子大生たちが、市立図書館に出かけ、棚からアメリカの憲法や人権関係の本を取り出しては、黒人禁制の白人専用貸出カウンターに行って、断られるのを覚悟で、粘り強く、何度も何度も、貸出手続きの申し込みを繰り返したというのだ。
アメリカ南部の人権状況をあぶりだす、非暴力による直接行動!
当時の教え子の中には、黒人女流作家として名をなす、作家のアリス・ウオーカーもいた。学生時代からすばらしい文章を書いていたそうだ。
もう、ひとつは、ジン氏が、「べ平連」の招きで、1966年に日本を講演旅行したときのことだ。
そのなかでジン氏は、「公園のようなところで学生たちと車座になって話し合いをした」仙台での良き思い出を書いていた。
1966年、仙台――僕は当時、仙台の高校の3年生。
ジン氏の自伝のこのくだりを読んで、僕はうれしくなる一方、ああ、僕があと1年早く、生まれて大学生になっていれば、会えたかも知れない――と、少し残念に思ったものだ。
話が脱線したところで、本筋に戻すとすると、戦時中、爆撃機に乗っていたジン氏が戦後、戦争に反対するようになった起点には、爆撃手としての戦争体験がある。
これは、ベトナム戦争当時、ジン氏とボストン大学で一緒に反戦運動に参加していたジェームズ・キャロル氏(ジン氏はボストン大学の歴史学の教授。キャロル氏はボストン大学づきのカトリック神父)の著書、『戦争の家』(拙訳、緑風出版)を読んで分かったことだが、ジン氏にはフランスのロワイヨンという町に対して、焼夷弾による無差別爆撃をした過去があるのだ。ドイツ軍がいるとはいえ――命令されてのこととはいえ、無関係なフランス人住民まで殺戮してしまった過去があるのだ。
焼夷弾の威力を確かめる無差別空爆――ジン氏は戦後、ロワイヨンを訪ね、住民にインタビューするなどして「戦争」というものの恐ろしさを罪の意識の中で学び、「非戦」を決意をさらに固めたのである。
歴史の主人公は、爆撃機を飛ばす権力者のものではなく、地上に生きる民衆だ。権力者の歴史ではなく、民衆の歴史を書かねばならない……これが反戦運動を続ける一方、『アメリカ人民の歴史』などアメリカ民衆史を書き、権力による歴史の偽造を告発し続けて来たジン氏の一貫した態度だった。
僕が最後に(ネットの映像で)見たジン氏は、昨年11月11日、ボストン大学での講演するジン氏だった。
「聖戦」と題する講演でジン氏は、「聖戦」とされているあのアメリカの独立戦争の際、ニュージャージーの戦線では、戦うことを拒否した数百人の兵士を処刑する、無残な出来事があったことを指摘し、「正史」というものの正体を暴露していた。
アフガン戦争など「テロとの戦い」もまた、この「聖戦」に連なるものだ。
アメリカという国は国内では「インディアン戦争」という全面戦争を展開し、その勢いで「聖戦」を繰り返して来た国なのだ。
「戦争」という名の暴走列車、アメリカ!
その「戦争列車」から目をそらさず、「平和」の汽笛を鳴らし続け、必死になってブレーキをかけ続けたハワード・ジン氏!
友人であり、同志でもある、作家・ジャーナリストのジェームズ・キャロル氏は、ボストン・グローブ紙の訃報の中で、ジン氏についてこう語っていた。
「ハワードには、公共のモラルをかたちづくり、平和という、偉大なもうひとつの展望があることを明確に示すことができる、天才があった。しかし、彼が何よりも天才だったのは、愛というものの実践的な意味においてである。若者たちを引き付け、彼の周りに、常に驚き、敬意を払う友人の輪が広がったのは、そのためである」
平和への実践的な愛を貫いて、一生を終えたハワード・ジン氏。
死してなお、暴走列車の機関室の窓に、ひとり懸命にブレーキをかけ続ける、痩身・銀髪のジン氏の姿が見えるような気がする。
訃報 ⇒ http://www.boston.com/yourtown/newton/articles/2010/01/28/historian_activist_zinn_dies/
http://www.nytimes.com/2010/01/28/us/28zinn.html?hpw
最後の講演 ⇒ http://www.democracynow.org/blog/2010/1/8/howard_zinn_three_holy_wars
Posted by 大沼安史 at 08:32 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink