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2009-11-23

〔NEWS〕  『戦争の家』下巻 訳者あとがき

 ジェームズ・キャロル著、『戦争の家』の「下巻」(緑風出版)の校正作業を昨夜、終えた。目標としていた「年内刊行」に辿り着き、ただただ、ほっとしている。

  上巻より、少し厚い、680頁を超すボリューム。達成感、なきにしもあらず――である。

 未定稿だが、「下巻」の「訳者あとがき」を、以下に。刊行の際にはぜひ、ブログ読者諸氏の一読を乞う。

                  ◇

 
 本巻(下巻)は、米国の作家・新聞コラムニスト、ジェームズ・キャロル( James Carroll )氏によって書かれた『戦争の家』(原著、House of War, Houghton Mifflin社刊、二〇〇六年)の後半部分を訳出したものだ。

 「戦争の家=ペンタゴン」を軸とした、この大河ノンフィクションは、ケネディの一九六〇年代から、今世紀(二一世紀)初頭のジョージ・W・ブッシュの時代まで、五十年の流れをカバーする。
 下巻はつまり、時間的に「私たちの時代」の物語である。
 若い読者にとっても、私(大沼)のような還暦を迎えた「戦後世代」の人間にとっても、記憶の時間の長短はともかく、同じ「いま=現時点」から直接、〝地続き〟で振り返ることのできる、「われらの時代」の「同時代史」である。
 
 では次に視点を換え、私たち日本の読者の生きる「ここ=現地点」から見た場合、この『戦争の家』下巻の世界は、空間的に、どんな場所にあるか?
 『戦争の家』の下巻はもちろん、米国人による「米国の軍事権力」を描き出した同時代のクロニクルだが、そうしたアメリカ中心の物語と、日本の私たちは、どんな位置関係にあるのか?

 訳者として、これはもう、どうしても先に言っておきたいことだが、ここでもまた私たちは、『戦争の家』(の特に「下巻」)に綴られた「世界」と、まさに直接、〝地続き〟であるのだ。
 いや、むしろ、日本の私たちは、「戦争の家=ペンタゴン」を核とした「世界空間」の中に包摂され、その部分と化している、と言った方がより正確だろう。
 「沖縄」を、「安保」を考え合わせれば、よりハッキリする。

 「日本」をその一部、部分空間として構造化しながら聳え立つ、「軍事世界帝国=アメリカ」。そしてその中核にある、権力の爆心としての「五角の要塞」、米国防総省――。
 私たちが生きる「世界・空間」の構造を、ジェームズ・キャロル氏のこの本は、私たち日本の読者にも、そこで流れた「時間」を背景に「開示」している。

 私たちの「世界」とは実は、こういうところだった!
 私たちが生きて来た「歴史」とは実は、こうだった!
 訳し終えて今、胸にこみ上げるのは、悔しさも入り混じった納得の思いである。日暮れつつある今、ようやく辿り着き、もっと早く来ることができたらよかったのにと反省しつつ、それでも、この真実の場所に立てた安堵である。
 『戦争の家』の物語は、日本の私たちの物語でもあった。私たち日本人の目の前に、「世界」と「歴史」の驚くべき姿を「開示」して見せる物語でもあった。

 それにしても今、訳出を終えた達成感の中に、ある種の屈辱感が残るのは何故か?
 すでに上巻をお読みになった方なら、お分かりのことと思うが(そしてこれは、上巻の「訳者あとがき」でも告白したことだが)、自分は「何も知らなかった」「何も知らずに生きて来た」事実を、遂に決定的に知ってしまったからだ。
 上巻の部分は、私の記憶に残っていない過去に関する部分だから、まだ少しは許せる(もちろん、ヒロシマ・ナガサキに関する、私の無知は、まだ私の心を疼かせるものだが……)。しかし、下巻部分は、自分もまたそこで生きて来た「同時代」のことではないか!

 一例を挙げれば(本文に出ていることなので内容は省くが)、ロナルド・レーガンを追い詰め、ゴルバチョフからの呼びかけに応えさせて行く、大きな社会的圧力となった「聖域(サンクチュアリ)運動」である(私は全く知らなかった!)。あるいは、「ベリガン兄弟」の「鋤(プロウシェアズ)」の反核運動である(少しは聞いていたが、その「意味」は分からなかった!)。

 知っていたことでも、知識の断片として記憶の隅にあるだけで、私は実は「何も知らなかった」のだ。
 しかし、知らなかったことを今さら悔しがっても、それだけでは意味がない。問題は、「戦後の民主教育」を受け、大学にも進み、社会に出てからは新聞記者として、新聞の特派員として、内外でそれなりの経験を積み、それ相応の知識を身につけて来た、私という、ただ今、満六十歳の標準的な日本人が、なぜ、「知らなかったか」ということである。
 これは、私たちの一人ひとりの「歴史意識」「世界観」にかかわる重大な問題であろう。

 われわれ日本人はなぜ、特にアメリカとの関係において、「同時代」の「歴史」も、「同時代」の「世界」も知らないままでいるのか?
 この重大な問いに対して今、もしも私が、『戦争の家』の物語を世に伝える「語り部」の役目を自らに課し、身のほども弁えずに答えるとするなら、私たちは多分、私たちの「いま」「ここ」から〝地続き〟であるべき、「同時代」の真実から遠ざけられて来たからだ。
 「歴史(無)教育」と「発表報道プロパガンダ」による「洗脳=世論操作」の成果!
 だから、日本の若者は「えっ、アメリカと戦争、したの?」と驚き、われわれのような戦後生まれの人間まで、ヒロシマへの「原爆投下……」などと平気で言うようになってしまったのだ。

 事情はもちろん、米国においても同じである。これは本書下巻部分でキャロル氏に教えてもらったことだが、「ベトナム戦争」の最終局面のニュース報道は「パリ」が舞台になり、激しい戦闘が続く「ベトナム」現地のことは消されてしまった。パリでの「和平」協議ばかりが「ニュース」として流されたからだ。
 ジェームズ・キャロル氏は、こうした「洗脳=世論操作」、「修正主義」という名の「歴史の歪曲」、軍産複合権力のプロパガンダに抗して、『戦争の家』の物語を書き切った。「同時代」の「歴史」と「世界」の「真実」を書き抜いた。教科書的な断片的な知識の羅列ではなく、権力者の、絶えず「戦争」を正当化する「正史」の嘘を暴露する物語を書き通した。

 『戦争の家』の物語が、私たち日本の読者にも「同時代」を「開示」するのは、それが戦後、一貫して米国の「属国」であり続けた、この国の「歴史意識」「世界観」の歪みを正す、「真実」の物語であるからだ。

 物語の前半部分(上巻)においては、あの「一九四三年一月」の「運命の週」に流れ出した、破局に向かう「潮流」が、歴代の大統領ら当事者を巻き込みつつ、激流となって世界を覆う姿が描き出されているが、下巻部分では、その「核戦力」を主体にした「潮流」――「ナイアガラ」へ向かう「流れ」とともに、無名の民衆による「平和運動」の「潮流」が取り出されている。

 「戦争の家=ペンタゴン」に発する破壊的・破滅的な流れと、核のない・戦争のない世界を求める平和の流れと。
 私たちの「同時代」を流れるものは、基本的にこの二つである。この対抗関係、力関係の中で、世界はこの五十年間、動いて来たのだ。
 「ナイアガラ」に向かう「潮流」について言えば、そのおかげで「世界」は(私たちは)何度も、奈落の底に落ちる寸前まで流されて来たのである。
 「ベルリン危機」に続く、下巻最初の山場、「キューバ・ミサイル危機」の「運命の十三日」。
 ソ連に対し、「核攻撃のフェイント」を三度もかけたニクソン。
 「ナイアガラ」の勢いは「冷戦後」、弱まるどころか、逆に強まり、「クリントンへの幻滅」を経て、ジョージ・W・ブッシュの時代に、「テロとの世界戦争」を梃子とした「アメリカ帝国」の「世界占領」に行き着く。

 もうひとつの「平和」の流れは、「ナイアガラ」に向かう流れに立ち向かう「対抗潮流」である。「ナイアガラ」が「核」という最悪の「暴力」に依拠するものであるのに対し、この「平和」の流れは、民衆による「非暴力直接行動」に依拠する。
 この「非暴力」の「平和」運動こそ、実は米ソが「核」でもって睨み合う「冷戦」を終結に導いたものだった。ポーランドの「連帯」に始まる「ソ連帝国」内の民衆の運動は、その徹底した非暴力直接行動でもって、東西を分断する「鉄」をも溶かし、「壁」をも崩壊させた。
 それは、米国内でも「核凍結」運動となって噴出し、「核軍縮」の道を切り拓いたのだ。

 「冷戦」に勝ったのは、アメリカの軍事力ではなかった!
 「鉄のカーテン」の東側、「ソ連帝国」内で起きた、軍事的な抑圧を否定する、民衆の非暴力運動だった。それが「鉄の支配」を足元から突き崩したのだ。ゴルバチョフの登場は、この流れの中でのことである。

 「戦争」の流れと、「非暴力・平和」の流れは、それぞれの「九・一一」を自己の歴史の中に刻んで来た。
 「九月十一日」――二〇〇一年の「九・一一」は最早、言うまでもなかろう。ニューヨークの世界貿易センターとともに、「ペンタゴン=米国防総省」が「テロ攻撃」で破壊された日だ。
 一九九〇年の「九・一一」。これは「パパ・ブッシュ」が、「冷戦」終結という格好の平和のチャンスに目をつぶり、米国による一極支配、すなわち「新世界秩序」を宣言する演説を行った日だ。
 そしてその四十九年前、一九四一年の「九・一一」は、「戦争の家=ペンタゴン」着工の日である。

 一方、「平和」の流れの「九・一一」は、一九〇六年に始まると、キャロル氏は言う。南アフリカで、一人のインド人が、人種差別に抗して立ち上がった。あの、ガンディーだった。ガンディーの「非暴力の運動」は、この日に始まった。
 その流れは第二次世界大戦直後の米国において――一九四五年の「九・一一」において、時の陸軍長官、スティムソンに、「核の独占」の放棄を主張させるようになる。ヒロシマ、ナガサキのすぐ後のことだ。
 スティムソンのこの主張は、もうひとつの「九・一一」の流れに抑え込まれ、実を結ぶことはなかったが、この「平和の九・一一」の流れの中から、ケネディの、いまなお私たちの胸を打つ、あの「平和の戦略」演説が生まれたのだ。マーチン・ルーサー・キング師の「私には夢がある」演説が生まれたのだ。

 キング師の演説は、一般には人種差別の撤廃を呼びかけたものと見られているが、それだけではなかった。「反戦」と「平和」を呼びかけていた。キング師もまた、ガンディー主義者だった。
 そんな流れがあったから、一九六七年十月二十一日(「十・二一」、当時、日本ではこの日を「国際反戦デー」と言った)の「戦争の家=ペンタゴン」への大デモも起きたのだ。

 この大群衆の中に、当時、カトリックの神学生だった、若いキャロル氏もいた。
 米国史上初の国防総省に対するデモで、ヒッピーたちは「悪魔祓い」の儀式を執り行ったという。その幼稚さを笑うなかれ! 
 デモが解散させられた後、現場に残った人々の間から、静かに湧きあがったのは、「聖しこの夜」の合唱だった。平和を祈るそのナイーブさを、笑ってはならない。
 『戦争の家』の物語は、だから「戦争」に抗する、「平和」を願う、非暴力の直接行動の物語でもある。

 上巻の読者はもうご存知のように、ジェームズ・キャロル氏の父親、ジョセフ(ジョー)・キャロル氏は、「家(ペンタゴン)」の首脳だった人物だ。中将まで昇り詰めた高級軍人だ。国防総省に乗り込んで来たロバート・マクナマラによって、DIA(防衛情報局)の初代局長に抜擢された男だ。
 ベトナム戦争を続ける「家(ペンタゴン)」の首脳である父に、ベトナム戦争に反対する息子は反発し、父と子の関係は冷えたものになるが、父、ジョセフ・キャロル中将は、ソ連の核戦力と意図の評価をめぐって、軍備増強(ABM配備)を正当化する「過大評価」を拒否し、時のレアード国防長官によって左遷人事を発令され、そのショックで緊急入院、そのまま退役の道を辿ることになる。
 下巻では、父が語らずに逝ったその真実が、父の年齢に達した息子によって――このことを書くためもあって、作家・ジャーリストになった息子によって、遂に明かされることになるのだ。
 父親、ジョセフ・キャロルが、ベトナム戦争でも、アメリカは戦争に勝てないとの正確な情報評価を下し、それが当時の上司、マクナマラの議会証言の根拠となり、マクナマラの辞任につながった事実も含めて。
 そう、息子、ジェームズ・キャロルは、父の名誉のために、この『戦争の家』を書いたのだ。

 「家(ペンタゴン)」の「ナイアガラ」へ向かう流れに抗して弾かれ、緊急入院した父の病室へ、カトリックの神父になってまだ半年の、息子は駆けつけ、ベッドサイドに座った。
 その時、父と子の間に起きたことを、息子はこう書くのである。

   戸惑っている私に、父は握手を求めて来た。父は、嗚咽はしなかった。一点の穢(けが)れもない声で、こう言っただけだった。「私に神の祝福を与えてくれますか? 神父さん」と。
   私たちはそれから少し、ぎこちない会話を交わした。それから私は、父がしてほしいことを分かっていたから、神父の作法で、父の額を撫でた。私は父の銀髪の柔らかさに驚いた。父は眼を閉じていた。私は私の右手で、父の上で十字を切り、そして祈った。「願わくは神の恵みの、聖父と聖子と聖霊の祝福の、あらんことを。今もいつも世々にいたるまで」
                                    
 
 著者のジェームズ・キャロル氏は、父の真実を知らずにいた自分の無理解を悔い、苛まれて生きて来た人である。アルツハイマーを発症、そのまま人生と閉じた父親を破滅に追い込んだのは、自分かも知れないと、自分を責め続けた人だ。
 この『戦争の家』の物語中でも、折にふれ、その点に言及するキャロル氏だが、それは父の思い出を綴った前作、『あるアメリカ人の鎮魂歌(An American Requiem: God, My Father, and the War that Came Between Us)』(一九九六年の全米図書賞受賞作)に書かれた、あるエピソードを見れば、よく分かる。

 父、ジョセフが「家(ペンタゴン)」内で、「ナイアガラ」の流れと最後の闘いを続けていた(左遷人事に遭う半年前の)一九六九年二月、カトリックの聖職に就いた息子は、父の官舎があるワシントン郊外、ボーリング空軍基地の教会で、初めての説教を行った。 
 両親と兄弟、そして軍の高官らが居並ぶ前で、息子は旧約聖書・エゼキエル書の一節、第三七章、「骨の谷」を引用し、こう語りかけた。
 「人の子よ、これらの骨は生くるや? 時間に焼かれた骨は、枯れた骨は生きることができるでしょうか? 日に焼かれ、そして何よりも……」
 ここで一息おいて、神父になり立ての息子は、聖書にない言葉を付け加えた。
 「……(ベトナム人のように)ナパームに焼かれて」

 『戦争の家』の物語は、だから「父と子」の――そして、父を悼み、父の孤独な闘いを讃える息子の物語でもあるのだ。

 ジェームズ・キャロル氏は、その後、カトリックの神父を辞める。そして、作家として生きる決意をする。そして、アメリカの現実から目を逸らさない新聞コラムニストでもある作家(小説家、詩人)となる。
 ではなぜ、キャロル氏は作家の道を志し、この『戦争の家』の物語を書くに至ったか?
 下巻の中で示される理由は、二つだ。
 一つは「言葉」。
 キャロル氏は、こう書いている。

  私が生涯を通して続けて来たことは、まるで単純なことだった。それはただ、「平和」を確立し、もう二度と揺るがないようにする、そんな「言葉」を語ることだった。
   だから、今、私が書いている、この長い「戦争の家」の物語は、その「言葉」そのものなのである。
   その「言葉」は、私たちが生きる基本的な前提を再興するものでなければならない。その「言葉」が語ることができれば、それは(キャロル氏の息子の)パトリックの、あの思い出せない中国語のように、私たち全員を救うものになるだろう。
   が、今、またも明らかなのは、私もまた、その「言葉」を思い起こすことができないでいることだ。

 ここで書かれている「パトリックの、思い出せない中国語」とは、キャロル氏の父(パトリリックにとっては祖父)ジョセフが亡くなった後、幼いパトリックが見た悪夢に出て来たものだ。
 今聞いたばかりの「中国語」を思い出せば、父親は死なずに助かるのに、僕はそれを思い出せない……キャロル氏の長男は、そんな夢を見て、泣きじゃくっていたのだ。
 注釈はこれで十分だろう。

 もう一つの動機は、父親の「命令」である。上巻の読者はすでにお分かりのように、キャロル氏はワシントンで大学生だった当時、夜、父親を国防総省に車で迎えに行った帰り、こう指示される。

 いざとなったら、家族を車に乗せ、お前が運転して、南のリッチモンドに逃げろ!

 幸い、核戦争は、「ベルリン危機」下のその時、回避されたが、キャロル氏はその夜の父の命令を、こう受け止めたのだ。

  父は私に、あの夜、差し迫った核戦争の恐怖を伝えた。それは私に、何事かをなせ、という命令でもあった。だから、私はこの本を書いたのだ。

 『戦争の家』の物語はだから、著者、ジェームズ・キャロル氏が、その人生の重みを「言葉」一つひとつに込め、「私たちが生きる基本的な前提の再興」のため、何事かとなそうと渾身の力を振り絞って書いた、「ナイアガラ」の死の流れに対抗する、一筋の、しかし圧倒的な、平和の言葉の迸りである。
 だから本書は、ふつうの歴史書とは違うのだ。あの五角の「家」に立ち向かう、倒れることを拒否する言葉の大建築である。
 
 『戦争の家』の最後の舞台は、「家(ペンタゴン)」を見下ろすアーリントン墓地の丘の上である。父母の眠る墓所に立って、キャロル氏は最後に、読者に対して、ある呼びかけをして、長い物語を閉じている。
 それは、私たちに合流を求める呼びかけだ。短い人生を破壊する戦争を憎み、限りある命をともに生き抜こうという呼びかけだ。

 その呼びかけに応え、私はこの本を訳したのだ。大学教員の任期切れを幸いに、仙台に帰郷し、春移行、失業をいいことに、いくらか余裕を持って、この下巻の翻訳作業を続けて来たのだ。
 冒頭、述べたように、訳了した達成感の中には、今頃になってようやく気づいた悔しい思いはあるが、本書の翻訳を通じ、自分の人生と重なる「同時代」の歴史と構造の大枠をつかむことができたのは、私個人にとって意味あることであり、私の残された人生に対する確かな指針でもある。
 もう一つ、翻訳をして嬉しかったのは、訳文を綴りながら、憲法「九条」の尊さを何度も噛み締めることができたことだ。それは私たちの手に今、「九条」がある嬉しさだった。

 キャロル氏の両親の墓は、アーリントンの国立墓地にあるが、私の両親は十年以上も前から、今私が暮す仙台市・連坊のアパートに近いお寺のお墓の中にいる。
 仙台生まれの母親は、昭和二十年(一九四五)七月十日未明の「仙台大空襲」の時、死にかけた。炎に包まれ、倒れていたところを、兵隊さんに助けられたそうだ。
 今年(二〇〇九年)の「仙台大空襲」記念日の四日前(七月六日)、ロバート・マクナマラが九十三歳で亡くなった。
 その訃報を、私は翌日、七日の朝、コメンテーターとして出演するために出かけた地元のラジオ局で知った。
 私は早速、自分が受け持つコーナーで、マクナマラが戦時中、仙台を含む日本各地の焼夷弾攻撃で、空爆効率化の任務で携わっていた経歴の持ち主であることを、地元のリスナーに伝えた。
 この『戦争の家』の物語にあるように、マクナマラは仙台を含む日本の諸都市に対する無差別空爆に関わったことを悔い、戦後、何十年も経っているのに、思い出しては嗚咽するような男だったことも伝えた。
 それは、子どもの私に「戦争はやんだ(嫌だ)」と何度も言った、死んだ母親に対する報告でもあった。
 焼夷弾の雨を降らす側にいた、マクナマラという、戦後、国防長官になったアメリカ人は、最後に戦争を否定した男だった、と。

 「戦争の家」の物語は、死者と生者で、ともに「平和の家」をつくる物語である

    二〇〇九年秋   帰郷した仙台にて
                           大沼 安史
   

  

Posted by 大沼安史 at 01:23 午後 |

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