〔コラム 机の上の空〕 ブーヘンヴァルト 摂氏37度の和解
絶滅収容所、ブーヘンヴァルトの地表の記念碑に 6月5日の午後、白バラが4本、置かれた。
オバマ大統領とドイツのメルケル首相、そして、この収容所で死と隣り合わせの日々を過ごした2人の生存者、エリ・ヴィーゼル氏とバートランド・ヘルツ氏の4人が捧げたものだ。
なぜ、「白いバラ」だったか?
ブーヘンヴァルトの現地からの報道(たとえば、シュピーゲル誌、ニューヨーク・タイムズ紙)に特に説明はなかったが、言うまでもない。
「白いバラ」(Die Weiße Rose)……ナチスに対する、ドイツ国内抵抗運動のシンボル。
ヒトラーの狂気と非暴力で闘い、死刑に処せられた、ショル兄妹ら、ミュンヘン大学の学生グループの組織の名である。
収容所のレンガ壁の切片のような、鋼鉄製の四角い記念プレートに白バラを捧げた4人は、一人ずつ、碑の面に手の平を置いた。
冷たくなかった。気温よりも温かかったが、焼却炉の熱さではなかった。
碑は摂氏37度に保たれていた。
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式典ではまず、メルケル首相が発言した。
「この場所に、強制収容所が建ったのは、1937年のことでした。この場所から遠くはないところに、ワイマールがあります。そのワイマールでドイツ人は、ヨーロッパ文化に対して貢献をする、素晴らしい創造を行ったのです。芸術家が、詩人が、思想家が出合ったそのワイマールから遠く離れていないこの場所で、恐怖が、暴力が、専横が、この収容所を支配していたのです」
ワイマールとはもちろん、第一次世界大戦後、あの燦たる「ワイマール文化」を開花させた、ワイマール共和国のワイマール。
その北西、わずか7キロの近郊のこの場所、ブーヘンヴァルトに立つ、ナチスの強制収容所で、ユダヤ人を中心に、6万人近くが殺された……
メルケル首相は、栄光のワイマールに日々に続いて起きた、同じドイツ人による国家犯罪を直視し、ドイツの首相として、痛恨の言葉を吐いた。
はっきりと、こう言った。
Ich verneige mich vor allen Opfern.
「私は全ての犠牲者の前で頭を下げます」と。
これは、歴史に記憶されなればならない言葉である。
メルケル首相はまた、ことし1月、ナチス絶滅収容所の生存者でつくる団体の長たちが、「ドイツ人、そして国際社会に対して出したアピール」を読み上げもした。
アピール文には、こうあった。
eine Welt, in der Antisemitismus, Rassismus, Fremdenfeindlichkeit und Rechtsextremismus keinen Platz haben sollen.
「反ユダヤ主義、人種差別、外国人差別、極右主義なき世界を」
これは、かつてナチスと同盟していた、われわれ日本人としても重く受け止めるべき言葉だろう。
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式典で、次に発言したのは、オバマ大統領だった。
オバマ大統領は演説の冒頭、現存する一枚の写真に触れた。
同席した生存者の一人、ノーベル平和賞の受賞者でもある、作家のエリ・ヴェーゼル氏が写った写真だった。
アメリカ軍によってブーヘンヴァルトが解放されたあと、撮られた一枚の写真。
蚕棚のような部屋の2段目で、顔をのぞかせている(左から7人目)、当時、16歳のエリ・ヴィーゼル。
アウシュヴィッツからブーヘンヴァルトに移送され、生き延びて、戦後、『夜(La Nuit)』という体験記を発表、生き証人として、戦後、証言を続けて来た人の写真だった。
ブーヘンヴァルトの地を再びその足で踏んだエリ・ヴィーゼル氏の立つそばで、その写真に触れたオバマ氏は、つい今しがた、ヴィーゼル氏と収容所跡を一緒に歩いた時のことを語った。
収容所跡には樹木が育ち、緑の葉を広げていた。
歩きながら、ヴィーゼル氏はオバマ大統領に、一言、こう語ったという。
……"if these trees could talk."
「もしも、この樹木たちが語れるのなら」
胸を打つ言葉だ。これまた、記憶にとどめなければならない言葉だ。
演説でオバマ大統領は、彼の個人的な思い出も語った。
祖父(母方)は第二次大戦中、第89歩兵師団の兵士としてヨーロッパ戦線で従軍し、このブーヘンヴァルトを解放した米兵の一人だった。
祖父はオバマ少年に、あまりのショックで、復員してシカゴに帰ってから数ヵ月もの間、独り閉じこもっていた、と語ったそうだ。
オバマ大統領はこうも言い切った。
We are here today because we know this work is not yet finished. To this day, there are those who insist that the Holocaust never happened -- a denial of fact and truth that is baseless and ignorant and hateful. This place is the ultimate rebuke to such thoughts; a reminder of our duty to confront those who would tell lies about our history.
「私たちがいまここにいるのは、この仕事(全体主義との闘い)がまだ終わっていないからだ。今日、この日に至るまで、ホロコーストはなかったと言い張る者たちがいる。根拠のない、無知な、憎悪に満ちた、事実と真実の否定である。そうした考えを、究極において反駁し去るもの、それがこの場所である。この場所は、私たちの歴史に対して嘘を言う者どもと対決する義務を、私たちに思い出させる場所である」
このくだりを読んで(観て)、「ブーヘンヴァルト」が仮に「南京」であったなら、どういうことになるのだろう?――と思った。
「日本の首相」は、いずれ中国を訪問するであろうオバマ大統領、および南京事件の中国人犠牲者の遺族代表とともに、「その場」に立つことが、できるだろうか?
メルケル首相のように、頭を垂れることはできるだろうか?
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式典の最後に立ったのは、エリ・ヴィーゼル氏だった。
エリ・ヴィーゼルはこう語りだした。
「今日、私がここに来たのは、父の墓まいりである――しかし、ここに彼の墓はない。彼の墓は、この空の上のどこかにある。この空は、あの時代に、ユダヤ人最大の墓地となって、今に続いている」
ブーヘンヴァルトは、息子のエリ・ヴィーゼルが生き延び、ともに強制労働に従事していた、父親が死んだ場所であるのだ。
父親は死ぬとき、水が飲みたいと言ったという。下の棚にいた息子は、父親の声は聞いたものの、動かなかった。他の人も動かなかった。
動けなかったのだ。動いてとがめられるのが怖かったのだ。
And then he died. I was there, but I was not there.
「そして、彼(父)は死んだ。私はそこにいたのだ。しかし、私はそこにいなかった」
エリ・ヴィーゼルの悔いの言葉は、しかし、私たちに深い反省を迫る、言葉でもある。「そこにいながら、何もしないでいる、君たち(私たち)とは、いったい何者であるのか」と。
短いスピーチでエリ・ヴィーゼル氏は、「世界は、学ぶことがあるのだろうか?」と、端的な「問い」を投げかけたあと、「ブーヘンヴァルト」が現代の私たちに提起する、ある深い問題の在り処を示唆する言葉を残した。
それは「ブーヘンヴァルト」が、主に東欧のユダヤ人だけを集めたアウシュヴィッツと違って、「あらゆる方角の地平線から」、政治・経済・文化を超えて、あらゆる人々を集めた「国際社会」だったことである。
その「国際社会」をナチスはホロコーストで絶滅を図った!――それは、世界最初の「グローバリゼーション」の所業ではなかったか、いや、そうだったと、エリ・ヴィーゼルは言明したのである。
The first globalization essay, experiment, were made in Buchenwald. And all that was meant to diminish the humanity of human beings.
「最初のグローバリゼーションの試み、実験は、ブーヘンヴァルトでなされた。それはすべて、人類の人間性の抹殺のためのものだった」
この言葉は、「グローバル化」だ、「世界標準」だ、「小学校から英語教育だ」と騒ぎまくる私たち日本人にとっても、重い言葉である。
言われてみれば、たしかにそうだ。バナキュラー(土着)な価値を踏みにじる「グローバリゼーション」の「ブルドーザー」は、ナチスの「ガス室」と、そうそう変わらないものかも知れない……。
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「摂氏37度」――この文章の冒頭で触れた、ブーヘンヴァルトのスティールの碑の温度とはもちろん、私たち人間の体温のことである。
その体温を保って、私たちもまた、この世界に生きている……。
「ブーヘンヴァルト」の私たちに対するメッセージは明快である。
せっかくのその「存在」を、私たちは「不在」にしてはならない。私たちは生ける「不在」でなく、温かみのある「存在」でなけれなならい。
スピーチの最後で、エリ・ヴィーゼルは、カミュの『ペスト』の、こんな言葉――
After all, after the tragedy, never the rest...there is more in the human being to celebrate than to denigrate.
「結局のところ、他の何ものではなく、この悲劇があったればこそ……人間たちの中に、否定すべきもの以上に、祝福が生まれるのだ」
――を引き、最後を、こう締め括った。
Even that can be found as truth -- painful as it is -- in Buchenwald.
「これは真実と思える言葉だ――辛いことではあるが――ここ、ブーヘンヴァルトにおいてさえも」
http://www.nytimes.com/2009/06/06/world/europe/06prexy.html?hpw
Posted by 大沼安史 at 01:00 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink