〔コラム 机の上の空〕 天安門事件20周年 日本政府の悲しき沈黙
天安門事件20周年……
英紙ガーディアン(電子版)のサイトで、特集ビデオを観た。
(⇒ サイト内のマルチメディア参照 http://www.guardian.co.uk/ )
パンパンパンと乾いた音が耳に残った。
病院のフロアが一面、血で染まっていた、という証言が耳に残った。
犠牲者の母の「頬が冷たかった」という言葉の字幕が目に残った。
広場に残ることを決意し、座り込んだ学生たちの姿が目に残った。
英紙フィナンシャル・タイムズのサイトに入ると、米政府が「最も強い調子で、中国人権問題に関する声明を発表」という記事が出ていた。
(⇒ http://www.ft.com/cms/s/0/96c78f34-504e-11de-9530-00144feabdc0.html )
ヒラリー国務長官が、「殺され、拘禁され、行方不明になった人について」公開説明を要求していた。
米国務省のサイトに入ると、ヒラリーの声明が出ていた。
(⇒ http://www.state.gov/secretary/rm/2009a/06/124292.htm )
経済危機もあり、このところ中国指導部に擦り寄る姿勢を見せていた米政府だが、「天安門」では違っていた。
ことが「人権」というデモクラシーの原則にかかわることだから、厳しい姿勢をとるのだろう。
日本の外務省のサイトに入った。
見当たらないので、検索(⇒ http://search.mofa.go.jp/mofaj/index.php?sort=date%3Az&q=%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6&site= )をかけた。
なかった。
日本政府に、人権外交はない。
日本政府の「沈黙」は、「戦時中」と「戦後」の「忌わしき過去」を、それぞれ起源とする「双子の沈黙」のように思える。
ひとつは南京事件など、中国侵略の歴史的事実を否定していることから来る沈黙。
もうひとつは、「60安保」の際、日本の天安門広場というべき国会前で、樺美智子さんという、一人の女子大生の命を奪っていることから来る沈黙である。
「6月4日」の「天安門」は、「6月15日」の「国会前」に、時空を超えて結びつくものだ。
日中両国民衆の「連帯の橋」は、ここに架かる。
来年は「60年安保」50周年。
「人権」を尊重しない権力者たちに、退場を迫るべき時が来た。
Posted by 大沼安史 at 06:38 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink