〔コラム 机の上の空〕 ギターを弾く、小鳥のような少女
今朝、コンビニで買った朝日新聞(統合版朝刊)をめくっていたら、ひな飾りの前に座る、おばあさんが、同じ背丈の、ギターを弾く木彫りの少女に手を添えている写真が目に飛び込んで来た。
木彫りの少女は、高野悦子さん。あの『二十歳の原点』の高野悦子さんだ。学生運動に加わって苦しみ、自死した人だ。
(東京などでは朝日の夕刊に掲載されている)「ニッポン 人脈記」の記事。
あの高野悦子さんも、ギターを弾く少女だった!
ジョン・バエズさんのように、新谷のり子さんのように、加藤登紀子さんのように。
そう思った瞬間、数日前の雨の朝、平野ルミさんのあの歌を、40年ぶりに、なぜか突然、思い出したわけが分かった。(そして、急にトチくるって、ブログに「懐メロ」コーナーを設けてしまったわけが……)
私がこんど出す本(『NONOと頑爺とレモン革命』)のカバー用に、イラストレーターのHさんが描いてくれたのが、ギターを持って「国会」へ向かう少女、NONOの絵。本文にはない「ギターを弾く」NONOの姿を、Hさんはレモン色で描いていた……
そう、その絵が伏線になって、40年前の歌を思い出していたのだ――そのことを、高野悦子さんの木彫の写真は教えてくれたのだ。
そして、私の本のカバーの絵を超えたもっと大きな時代の意味をも、教えてくれていたのだ!!!……。
「人脈記」の記事の中で、高野悦子さん同様、「69年」に20歳だった作家の関川夏央さんが、こう言っていた。
「……主体的に考えろ、世界を見ろ、と強要するような空気があった……悩むことを強要し、自分を責めさせたという意味では、時代の悪意があった」と。
同感である。
その通りだと思う。
社会正義がイデオロギー化し、「正しさ」が「理論」として絶対化される中、「プチブル精神」は否定された。
お前、「自己否定」、しろよ! 歌なんか、歌ってる場合じゃねえぞ、ギターを捨ててゲバ棒を握れ!
何が、「ベトナムに、平和を」だ? ホーチミンは反スタ・スターリニストじゃねえか!
「ベ平連」式のフランスデモが、ヘルメット姿のジグザグデモに代わって行く中、「フォーク・ゲリラ」たちの姿も、いつも間にか、消えてしまった。
「自己否定」を迫る「時代の悪意」は、「一人でも始める・一人でもやめる」小田実さんのような市民運動家を個人主義者として侮蔑するまでになっていた。
一言でいえば、それは、「69年世代」から……たぶん、高野悦子さんからも、「ギター」を奪ったのである。
同世代である、僕の場合もそうだった。
仙台の深沼海岸を歩き、歌をつくってはメロ譜に書いて、NHKの『あなたのメロディー』という番組あてにせっせと送りつけていた軟弱な僕も、いつの間にか、歌づくりを忘れていたのだ。
(そうだった、NHKの番組に採用された僕の曲のひとつは、『浜辺でギターを』という歌だった!……)
お母さんの高野アイさんがそばで優しく微笑む、「ギターを弾く高野悦子さん」は、僕にはなぜか、背後のひな人形たちを率いた、小鳥たちの楽団の、歌手兼ギタリストのように見える。
そうとしか見えない僕の耳に、「時代の悪意」を超えて響いて来るものは、今のところ、素敵なラブ・ソングでありながら、あの時代に、まったく歌われることのなかった、平野ルミさんのあの歌である。
「ギターのように愛されたい」……高野悦子さんという「ギターを弾く少女」は、この歌を歌っただろうか?
歌わずとも(亡くなった翌年出た歌だから……)、歌ったはずだ。
今、歌っている……そんな気もする。
⇒ 「ギターのように愛されたい」は、 http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2009/06/i-love-his-for-.html
Posted by 大沼安史 at 01:11 午後 | Permalink