小生が翻訳作業を続けていた、ジェームズ・キャロル氏の『戦争の家』(仮題)の原著前半部分が、近く「上巻」として発刊されることになりました。版元は緑風出版です。 その「訳者まえがき」(未定稿)を掲載し、内容を紹介したいと思います。
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戦争の家 アメリカ帝国 権力の爆心
訳者 まえがき
米国の著名な作家・新聞コラムニスト、ジェームズ・キャロル( James Carroll )氏によって書かれた本書、『戦争の家』(原著、House of War, Houghton Mifflin社刊、二〇〇六年)は、その名の通り「戦争の家=ペンタゴン」を軸とした、「アメリカの権力」の全体像を描ききる、壮大な「同時代」の物語である。
「ペンタゴン=五角形」とは言うまでもなく、米国の首都、ワシントンの川向こう、バージニアに建つ、五角形の巨大な「国防総省」のことだ。
今、「同時代」の物語と書いたが、これは米国(だけ)の現代史を意味しない。日本を含む、世界の、「戦争の家」をめぐる「同時代」史である。また、ここで言う「物語」も、フィクションのことではない。ノンフィクションである。大河物語のようなノンフィクション。
原著は二〇〇七年の「ガルブレイス賞」に輝いた。高名な経済学者を記念したこの賞は、アメリカ・ペンクラブが二年ごと、最優秀ノンフィクション作品に対し授与している権威ある賞である。
本書が綴る「同時代」の時間的な範囲は、「第二次世界大戦」から「イラク戦争」の現在まで。つまり本書、現在から見詰めなおした「現代史」、六〇年の物語である。
そこには「冷戦」を含め、常に「戦争」があり、その中核にはいつも「戦争の家」があった。その「家」を核とする「アメリカの権力」があった。それこそが、この六〇年のわれわれの同時代史を貫く中心線である。その線分上のさまざまポイントで、さまざまな悲劇がつくられて来た。
本書、『戦争の家』上巻は、原著の前半部分である。本来は、邦訳作業を全て終えた時点で、上下二巻、同時刊行の形をとるのが理想だが、二〇〇八年になってイラク・アフガン戦争がいよいよ行き詰まり、秋にはウォールストリート発の金融・経済危機が世界を覆い尽くすなど、「アメリカ帝国」の没落が一挙に明らかになったことから、訳出済みの原著前半部分を急遽、邦訳の上巻として先行出版することにした。
ブッシュ政権下において最悪なものと化した「アメリカの権力」――史上空前の規模へと巨大化したその実態に迫るうえで、本書の提示する、「戦争の家=ペンタゴン」を軸とした史的・構造的なパースペクティブは、(日本のわれわれにとっても)きわめて有効な理解の道具となり得る……そんな願いを込めた先行出版である。
原著の副題は、直訳すると、「ペンタゴンとアメリカの権力の破滅的な勃興(The Pentagon and the Disastrous Rise of American Power )」になる。
世界は今、まさにその「アメリカ権力の破滅的な勃興物語」の「最終章」を迎えているような気がしてならない。
訳者(大沼)の私が今、そうした理解に立ち得ているのも、著者であるジェームズ・キャロル(James Carroll)氏が精魂傾け、精緻に綴った「戦争の家」の物語を、読者の一人として一通り辿り終えたからである。
私は戦後生まれの「七〇年世代」。学生の頃、ベトナム反戦デモにも加わり、就職して新聞記者となってから、特派員として「湾岸戦争」を追うなど、それなりに国際問題に対する関心を持続して来たつもりでいたが、そこで得た知識がどれだけ断片的なもので表層的なものだったか、本書を読んで痛切に思い知らされた。
「戦史」も「現代史」も、「外交史」も「軍縮史」も、それなりに目を通していたつもりが、本当のところ、実は「何も知らなかった」ことに気付かされ、愕然とした。
ここでいう「何も知らなかった」とは、個々の(しかし、それも限定的ものだが)知識は「知っていても」(知ったつもりになっていても)、その深い連関を知らず、実は何の全体像を持ち得えいなかった(知らなかった)ということである。
とりあえず、ひとつだけ告白するとすれば、それは、われわれのヒロシマ、ナガサキである。わかったつもりでいた、「私のヒロシマ、ナガサキ」である。
トルーマンはなぜ日本の都市(民間人)に対して、原爆攻撃を敢行したのか? そもそも「原爆」とは何なのか?
私は何もわかっていなかったのだ。その現場の恐ろしさも、その悲劇の世界史的な意味も。私はキャロル氏の記述を読んで、たとえそれが入り口の理解であるにせよ、初めてわかった気がした。
キャロル氏は、原爆攻撃に反対する「シラードの嘆願書」がトルーマンの元へ事前に届かずに終わった背景、キョートが標的から外れた経過など、それぞれ決定的な意味を持つ個別の事実を積み重ねながら、あの「原爆攻撃の真の目的」論争についても説得力ある議論を行っている。
この「目的」論争に対するキャロル氏の結論は、「日本本土への侵攻回避」(「トルーマンの正論」)と「ソ連への威嚇」(いわゆる「歴史修正主義」の見方)の二元論的対立を超えた、総合的なものだ。
このように「原爆」を含む、われらが同時代の全体像を歴史の忘却と隠蔽の霧の中から析出し、歪曲を正して、われわれ読者に巨大なその姿を開示するもの――それが、ジェームズ・キャロル氏という、当代きってのリベラルな作家・新聞コラムニストによる、この「戦争の家」の物語である。
この同時代の物語には、同類の歴史書、解説書以上に、われわれに対し圧倒的な力で語りかけて来るものがある。その迫力は、著者のキャロル氏自身が「戦争の家の子」だった事実による。
キャロル氏は自分自身に「戦争の家の子」だった霧に包まれた過去があるからこそ、自分の人生の問題として、「戦争の家=ペンタゴン」を問い、その「家」を核とする「アメリカの権力」の構造と歴史の謎に立ち向かったのだ。
では、キャロル氏の言う、この「戦争の家の子」とは何を意味するものなのか?―― 第二次世界大戦最中の一九四三年一月二十二日(この日付を暫しの間、憶えておいていただきたい)に、シカゴで生まれたキャロル氏は、FBI(連邦捜査局)のエージェントだった父親の転勤でワシントンに移り住む。そして戦後間もない一九四七年、父親が米空軍のOSI(特別捜査局)の初代局長に抜擢されたことで、父親の勤務する五角の建物、「戦争の家」を、時々、父に連れられて遊びに行く、少年時代の「遊び場」とするようになるのだ。
父、ジョセフは米軍の情報機関、DIA(防衛情報局)の初代局長になるなど、最後は中将まで昇進した人物。キャロル少年はそんな「将軍の子」として、将来の空軍入りを目指し、多感な青春時代を過ごすことになる。
そんなキャロル氏に転機が訪れるのは、ワシントンのジョージタウン大学の学生時代。「ベルリン危機」をめぐる核戦争の不安の最中、軍人への道から、神父の道へ針路を変え、カトリックの大学でキリスト教神学を学ぶことになる。
それから暫く経って、ボストン大学づきの神父になり、かたわら作家活動を始めるキャロル氏だが、「戦争の家」との縁は切れない。
その「家」には「父」がいて、その「家」は「ベトナム戦争」という不正義の戦争を続けていたからだ。
「父」のいるペンタゴンへの反戦デモ。
その「家」で、「父」は何をしていたのか、という心の中で疼き続ける疑問……。
それら「戦争の家」をめぐるキャロル氏の人生のすべてを込めた自己定義、それが「戦争の家の子」である。そんな「戦争の家の子」による「戦争の家」の物語――それが本書である。
キャロル氏は父ジョセフとの「父と子」の関係に絞った回想録を、『あるアメリカ人の鎮魂歌(An American Requiem: God, My Father, and the War that Came Between Us)』として出版し、ライターとして最高の栄誉である一九九六年の全米図書賞(ナショナル・ブック・アワード)を受賞しているが、本書では、「父の子」から「戦争の家の子」へと、視野を一気に拡大し、「戦争の家」の物語として書き上げたのだ。
キャロル氏自ら言う「戦争の家の子」の含意はしかし、これだけではない。氏がこの世に生まれ出た誕生日(一九四三年一月二十二日)が、「家」の誕生の時期と重なるのだ。記録によれば、ポトマック河畔に五角の「家」が完成したのは、同じ「一九四三年一月」の「十五日」。つまり、「家」とキャロル氏はほぼ時を同じくしてこの世に生を享け、ともに歳月を重ねて来たのである。
キャロル氏が、この「一九四三年一月」下旬のこの週に、物語の第一の山場を置いたのは、「自分」と「家」の「誕生時期の一致」という「偶然」に、全ての意味を求めているからではない。
それは、この年の、この月の、この週こそ、それ以上に世界の運命を分けた、歴史の分岐点だったからである。
カサブランカ会談で「無条件降伏」要求が打ち出されたのも、この時。
「家」の建築を監督したレズリー・グローヴズの指揮下、「マンハッタン計画」が本格的に動き出したのも、この時……。
「無条件降伏」要求は戦争を「全面戦争」化して、敵の「全面破壊」、すなわち民間人をも標的とした、「トーキョー大空襲」などの「空爆」の道を切り拓き、「マンハッタン計画」はヒロシマ、ナガサキへの「原爆」を産んで、「核」という戦争テクノロジーの悪魔を解き放った。
二〇世紀後半から今世紀初めにかけての「戦争の家」による世界覇権の土台は、実にこの運命の週に築かれたのである。
(本書が言及している、「偶然の一致」をもう一例挙げれば、それは「九月十一日」である。二〇〇一年のその日は同時多発テロで、「ペンタゴン」にアメリカン航空七七便が突っ込んだとされる日だが、その「ペンタゴン」の起工式は一九四一年の「9・11」に行われた……)
上巻は、この歴史の分水嶺としての「一九四三年一月」を最初の山場に、アイゼンハワー大統領が「軍産複合体」への警戒を呼びかけて退任し、ケネディーが新大統領になって「ベルリン危機」など一連の危機を潜り抜ける時期までを主にカバーしている。「朝鮮戦争」も、「スーパー」と呼ばれた「水爆」の開発も、米ソ核競争の開始も、この期間内のことだ。
これら一連の出来事は下巻が描くその後の事件を含め、本書では「家」をめぐり、相互に連関し合い、一つに収斂してゆくものと捉えられているのである。
キャロル氏はこうした歴史的な出来事の意味を、「戦争の家」という、アメリカ権力の爆心(グラウンド・ゼロ)とも言うべき原点に繰り返し立ち返りつつ、明らかにして行くが、「戦争の家の子」としての、さまざまな個人的な体験も同時に綴っている。
中でも印象的なのは、「ベルリン危機」がその頂点を迎えていた「一九六一年八月のある夜」の出来事である。
当時、大学生だったキャロル氏は「戦争の家」まで、父を車で迎えに行き、自宅へ戻る途中、「将軍」である父に、こう言われたというのだ。
「その時が来たら、みんな〔家族〕を車に乗せるんだ。そして南へ走れ。一号線(ルート・ワン)を行け。リッチモンドに向うんだ。行けるところまで行け」
言うまでもなかろう。核戦争になってソ連の核攻撃があるかも知れないから、その時が来たらワシントンを脱出しろ、という指示だった。
世界はそこまで破滅の淵に近づいていたのである。
もうひとつだけ、こんどは日本に関わるところで、キャロル氏の体験を紹介するなら、第二次世界大戦中、米陸軍航空隊で「空爆」を効率化する分析任務に就いていた、ロバート・マクナマラ元国防長官に対するインタビューの描写を挙げないわけにはいかない。
「そしてあの時、一九四五年に、あなたはトーキョーで何が起きたか、ほんとうのところ、知らなかった?」
「そう、その時は知らなかった」
「でも、今は?……今、あなたはそれについてどう思いますか?」
マクナマラの目に涙があふれた。
「今?」
「はい、今」
「今思うと、そうだね、あれは戦争犯罪だった」
そう言うなりマクナマラは、いまにも嗚咽(おえつ)しそうになり、こらえながら続けた。
「あれは、わたしが咎(とが)められるべき、二つの戦争犯罪のひとつだった」――
前口上はこのくらいにして、最後に読者の参考のために以下を付記しておく。
この「あとがき」と内容的に一部、重複するが、著者、ジェームズ・キャロル氏の経歴や作品については、巻末の「著者紹介」を参照していただきたい。
キャロル氏が『ボストン・グローブ』紙に書き続けている新聞コラムを読みたい人は、同紙のサイト(http://www.boston.com/bostonglobe/editorial_opinion/oped/)を覗くとよい。
米国を代表する歴史家、ハワード・ジン氏が称賛するキャロル氏の「エレガントな文体」と硬質な批判精神に、リアルタイムで触れることができるだろう。
なお、本書の下巻は、この上巻と同じ分量になる。
「戦争の家」の壮大な物語はまだまだ続く。
二〇〇八年十一月、米大統領選でオバマ氏が勝利した翌日、横浜にて
大沼 安史