〔いんさいど世界〕 フラットな市場幾何学@AKIBA 惨劇の意味を問う
東京・秋葉原の電気街で、日曜日の白昼、悲劇は起きた。トヨタ系自動車工場への派遣社員、加藤智大・容疑者(25歳)が歩行者天国にトラックで突っ込み、歩行者を無差別にナイフで突き刺して17人を死傷させた惨劇――。
そこでは、あのオウムのサリン事件のような、世界の救済のために人殺しをしでかす集団倒錯はなく、孤独な一人の青年による、まるでマニュアル通り仕事をこなすような「自己=他者の破壊」の作業が、異様な集中力でもって黙々と演じられた。
犯人の青年に、いったい何があったのか?
動機の核にあるのは、すでにハッキリしている。「派遣労働」に伴う絶望が、青年の怒りを掻き立てた……これはもう、すでにわかっている。
分からないのは、そうした絶望と怒りが、なぜ「AKIBA」に向かったのか、という問題である。
なぜ、青年は「AKIBA」を目指したか?……
わたしになりに到達した結論は、青年は「市場の原理」を、そのフラットな断面、平面の一次元において内面化させ、その限りにおいて、純粋な「自己=世界の破壊」へと突き進んだという、至極、当たり前なことである。
別な言葉で言えば、加藤智大という若者は、労働力が「市場化」され、若者が「使い捨て」されている、日本経済(ECO)の、取り付く島も奥行きもないフラットな「現実」の中で、折り目正しく、対称的な補償行動に走っただけのことだ。
その恐るべき「素直さ」「正直さ」に、わたしは慄然たる思いを禁じ得ない。
自動車工場で塗装の仕事を命じられていた彼は、「解雇通知」を機に、怒りを募らせる。が、その怒りの矛先は、工場あるいは派遣会社に、ではなく、「AKIBA」に向かった。
青年はおそらく、「生産」の現場における絶望的な自らの「生」の「対称点」を、「AKIBA」に見出したのである。「生産」から遠く離れ、しかも、その「生産」から逃れられない、「消費」の聖地でもある「AKIBA」に。
自動車工場における「派遣労働」は、青年にとって「負の労働」でしかなく、永続する自己否定=死ぬまで続く「生の死」を意味した。対する「AKIBA」は、刹那の歓喜の連続する自己肯定=死ぬまで続く「死の生」。
そのことを、青年は無意識にせよ、感じ取っていたのではないか。
青年はたぶん「AKIBA」に、「自動車工場」の日常から連続する、反転してポジ化した「死」の臭いを嗅ぎ取り、その「偽装された生の謳歌」に我慢ならなかったのだ。だから静岡から高名高速で直行し、「AKIBA」の「生」の抹殺を演じた。
「不特定」多数を狙った「無差別」殺人ではない。自動車工場における自分から見て「対称点」に群れる「特定」多数を狙った、ある意味で徹底して「平等」な殺人だった。
「派遣労働」の地獄を許したのは、「小泉構造改革」という「政治」だったが、「AKIBA」の惨劇には、「政治的な怒り」のカケラもなかった。「労働の市場」(工場派遣)において「敗者」を自認し、絶望の人生を送ることを拒否した青年による、「消費の市場」(AKIBA)における、瞬間的な「リベンジ」、一瞬の「勝者幻想」……。
あの殺戮はまさに、「AKIBA」という祝祭の場における、花火のような血祭り。「政治」として制度化される「他者」の存在に一切、目を向けることのない「市場原理主義」的な、生と死の秘儀だった。
フラットで、酷薄なほど公平な、「AKIBA」というマーケット。青年はたぶん、その「市場」の評価を期待して犯行に及んだのだ。「惨劇」を「惨劇」として、エンタメとして評価の秤にかけてくれる「AKIBA」――(青年は犯行の前日、秋葉原でゲームソフトを売り、定価より高く売れたと、携帯の掲示板に書き残していた……)
それにしてもやりきれないのは、「自己破壊」に向かって、一路、「AKIBA」に突き進む、青年の「律儀さ」である。
まるであの「カンバン方式」のように、効率的な「工程表」の指図するまま犯行に及んだ、青年の「段取り」の確かさは異様だ。それはまるで、自動車工場での作業を、そのまま再現したようでもある。
恐らく、それは、たとえ無意識であったにせよ、「真面目」だったというこの青年にとって、曲げてはならない、人生態度であったろう。変身すらできず……いや、変身することを拒否し、「等身大」の、いつもの自分の姿をあくまでも晒し、値踏みをしてくれといわんばかりの懸命の作業ぶりで、車に塗装でもするかのように、ナイフを突き立て、突き立て、次々に新たな血潮を噴き出させた加藤智大容疑者。
彼にとって、「AKIBA」とは、「対極」ではなく、あくまで「対称点」でしかなかった。彼は逆方向の福井に向かい、そこでナイフを買って静岡に引き返してしまうのだが、そのままどうして、たとえば日本海沿いを列車で北上し、ふるさとの青森に戻れなかったか、残念でならない。
(彼は福井でナイフを買った店の店員を、「いい人だった」と掲示板に書き残している。この時点ではまだ彼に、引き返すチャンスはあっただろう……。せっかく福井まで「脱走」し、「AKIBA]を「工場」の向うにある、幻想の対極=対称点としてとらえられるポイントに立てたのに、そこに踏みとどまることができず――あるいは再出発すること叶わず――つまりは「福井」を「対極」ととらえられず――、弓を振り絞るように、己という矢を放ってしまった……)
「対極」は、ラウンドな、まるい大地を前提とし、地平の向うには何かがある。が、「対称点」は一次元の、フラットな平面における、一見、正反対の価値を持った「一点」でしかなく、そこには逃げ場も、隠れ家もない。あるのは任意の必然性だけだ。
ナビに導きかれるまま、トラックのハンドルを握り、アクセルを踏んで、一路、東名をひた走った、解雇された派遣労働者、加藤智大容疑者。
「AKIBA」は彼の、自らの「自己破壊者」としての「価値」を最大化する、「工場」からの線分の延長にある平面幾何学の「対称点」、フラット化した市場社会の、「消点(バニッシング・ポイント)だった。
「対極」として用意された「ウラ=もうひとつの日本」、生を養える逃げ場、再出発の場の制度的再保証(たとえば、派遣労働者への雇用保険の適用……)――「労働」を再建する「政治」が動き出さなければ、この国は滅んでしまうだろう。
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Posted by 大沼安史 at 10:23 午後 1.いんさいど世界 | Permalink
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受信: 2008/06/13 13:33:11