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2007-08-31

〔NEWS〕 米軍、対イラン攻撃を準備 ダン・プレッシュ博士ら英国の専門家が警告

 米ネット紙、「RAWストーリー」は8月31日、ロンドン大学国際問題研究・外交センター所長のダン・プレッシュ博士ら英国の専門家チームが、米軍による対イラン攻撃を分析した研究論文をまとめた、と報じた。

 私見(大沼)によれば、その中で注目すべきは、以下の3点である。

 ① 米軍の対イラン攻撃はいますぐ実行可能な状態になっているが、攻撃目標は核開発施設に限定されていない。イランの政権転覆もしくはイランの弱体・無力化を狙った全面攻撃、「フル・スペクトル・アプローチ」が採用される。

 ② 核も実戦配備されているが、使用されない公算が強い。かりに使用されるとすれば、ナタンツの核施設に対する通常爆弾による攻撃が失敗に終わったときだろう。

 ③ 米軍は本格的な地上侵攻を回避する考えだが、ペルシャ湾に海兵隊を配備しており、同湾のタンカー通行の確保などのため、イランの湾岸部への上陸作戦が行われる可能性がある。

 アメリカではネオコンたちの「イラン攻撃」大合唱が起きている。
 ブッシュ政権が攻撃のタイミングをうかがっているのは当然のことだが、本格審議入りできないでいる「イラク石油法」の早期制定をあきらめ、「見切り攻撃」に踏み切る恐れも出て来た。

 「9.11」へ向け、要注意である。 


http://rawstory.com/news/2007/Study_US_preparing_massive_military_attack_0828.html
 

Posted by 大沼安史 at 12:29 午前 | | トラックバック (1)

2007-08-30

〔イラクから〕 サドル師 シーア派内戦回避で停戦宣言 P・コバーン記者が「イラク報道」再開

 英紙インディペンデントのバグダッド特派員で、「イラク報道」の第一人者であるパトリック・コバーン氏が記者活動を再開した。

 再開の「第一報」は、同紙(電子版、8月30日付け)掲載の、シーア派指導者、サドル師による、29日の「停戦宣言」に関する記事。

 それによると、サドル師は、シーア派の聖地、カルバラで起きた、同師率いるマハディ軍団と、現地の警察・治安部隊を統轄する、同じシーア派の「イラク・イスラム革命評議会(SIIC)」傘下の武装組織、「バドル旅団」との間の戦闘を含む衝突で52人が死亡した事態を受け、マハディー軍団の活動を最大半年間、停止すると宣言した。

 コバーン記者による、ほぼ一ヵ月ぶりのイラク報道。
 そのバグダッド特派員電が途絶えていたので、戦火・事件に巻き込まれたのでは、と心配していたが、どうやら休暇をとっていたようだ。
 (コバーン記者の現地報告、『イラク占領』(緑風出版)を邦訳したわたしとしては、実は心配でならなかった。無事と知って、ほっとした)

 コバーン記者の指摘(教示)で、次の二点に興味を覚えた。

 ① コバーン記者は、サドル師が現時点ではSIICならびにアメリカと事を構えることを望んでいないことが明らかになったと指摘している。なぜ、そうなのか? サドル師はマハディー軍団を「リハビリ」するため、としているが、コバーン記者はその「リハビリ」の意味するところがよくわからないと言っている。同感だ。ブッシュ政権による対イラン攻撃の恐れが現実味を増す中で、シーア派の統一と団結を再構築する(と見せて、アメリカを牽制する)。これがサドル師の狙いではないか、というのが、わたしの見方だ。

 ② これはまたもコバーン記者に教えられたことだが、シーア派の信者の中に、第12代イマームのマーディがすべての暴君を退治し、地上の正義を打ち立てるため、この世に復活すると信じている者がいる、という事実である。
 今回のカルバラでの事件は、このマーディの誕生を祝う巡礼者がカルバラに集まったとき、起きたものだそうだ。

 シーア派のパワー(宗教的な底力)と、同派の分裂回避に動いたサドル師のしたたかな現実主義。
 コバーン記者の久々の記事から、イラク情勢の底流に流れるものを、またまた教しえられた気がした。
    


http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2906339.ece
 

Posted by 大沼安史 at 11:39 午後 | | トラックバック (0)

〔イラクから〕 少年らが戦闘に参加 外国人戦士を上回る 米軍拘束800人にも

 イラクの少年が、反米ゲリラ活動に続々と参加しているらしい。
 その数、米軍が拘束している者だけで800人。ことし3月と比べ、8倍もの数で、サウジなどから来た外国人戦士の拘束者を上回る状況だ。

 米紙ロサンゼンルス・タイムズ(電子版、8月27日付け)が報じた。

 それによると、米軍が拘束しているイラク少年の最年少は11歳。
 少年たちは誘拐や殺害、路肩爆弾の埋設などに従事しているという。

 拘束中の少年の85%がスンニ派の子どもたちだが、サドル派(シーア)のマハディ軍も少年たちが参戦していることを誇示している。

 イラク占領米軍は8月13日、バグダッドに少年たちの「教育センター」を開設した。

〔大沼・注〕
 タイムズ紙によれば、武装抵抗勢力は子どもたちに、爆弾埋設代として200ドルから300ドル(相当)を支払っている、と報じている。
 家族が2、3ヵ月暮らせる額だそうだ。

 生活のため? いや愛国心?
 答えはたぶん「両方」である。

 「イラク占領」に悲しい現実がまたひとつ、生まれた。 


http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-childfighters27aug27,1,3038038.story

Posted by 大沼安史 at 01:30 午前 | | トラックバック (0)

2007-08-27

〔いんさいど世界〕 地球SOS 「川ヘドロ」 世界の清流に広がる 魚類、死滅の恐れ

 世界の川で異変が起きています。「ディディモ」とも、あるいは「岩の鼻汁」とも呼ばれる「藻」の一種が各地の清流に突如、出現し、生態系を脅かしています。

 このままでは、世界中の川が魚が棲めない場所になってしまうかも知れない……。

 いったい、地球のECOはどうなったのでしょう?

 問題の「藻」はふつう、学名を縮めた「ディディモ」の名で知られていますが、英語圏ではその形状から「ロック・スノット」、「岩の鼻汁」と呼ばれ、忌み嫌われています。

 「鼻水」ではなく「鼻汁」……ネバネバでベットリした感じ。
 日本語なら「川のヘドロ」といった感覚ですね。

 色は緑、あるいは白色。「岩の鼻汁」と言われるように、川底の岩にまとわりついて、ベットリした緑の岩にしてしまいます。それが千切れて川水に流されると、ティッシュペーパーみたいに見えることも。

 もともとは標高の高く、栄養分の少ない川に棲んでいるものですが、これがこのところ、低地の川にも出現、異常発生しています。

 「震源」は南半球の極東の島国、ニュージーランド。
 この国は北島と南島のふたつの島からなる島国ですが、「川ヘドロ」は南島でブレークし、なんと55の河川が汚染されてしまったそうです。

 ニュージーランドで確認された「川ヘドロ」の厚さは、最大約20センチにも。
 こうなると、ほんとうに不気味ですね。

 危機感を強めたニュージーランド政府は鉛を使ったトリートメント(どういうものなんでしょう?)で蔓延を防ぐ一方、「川ヘドロ」を故意に広げた人(そんな人、いるんですかねぇ?)を最高5年の刑に処すなど、対策をとっていますが、焼け石に水の状況のようです。

 さて、この「川ヘドロ」、ニュージーランドに限ったことであれば、局地的なものとして見過ごすことも出来るでしょうが、ヨーロッパや北米でも同時多発で異常発生したことから、世界中、大騒ぎになっている。

 ヨーロッパではイギリスやアイスランドの川で発生が確認されていますが、いま最も被害が深刻なのは北アメリカです。

 最初、カナダのバンクーバー島で発見されたあと、アーカンソー、サウスダコタ、テネシー、ミズーリ、バーモントなど北米各地の河川に瞬く間に広がり、サウスダコタではブラウン・トラウト(ニジマス)がやられ始めた。

 釣り人が「かかったかな」と釣り上げると、ネバネバした「川ヘドロ」の塊だったりしている。

 この「川ヘドロ」、細胞一個が釣具などでに付着して持ち込まれるだけで飛び火してしまう「感染力」を持っているといい、バーモント州などでは、釣具の消毒、ボートの水洗いの徹底などを、ラジオを通じてキャンペーンしているそうです。

 それにしても、どうして「川ヘドロ」の蔓延が起きているのか?
 これがまったく分かっていません。

 この「ディディモ」という藻、もともと栄養分の少ない、標高の高い川にいるものなのですが、これがなぜ低地へと爆発的に広がったのか、地球温暖化と川の汚染(富栄養化)との関連から言っても、それぞれ真逆ですから、ちょっと説明がつかない。

 それだけにますます不気味に感じられるわけです。

 日本ではどうなのでしょう?
 ふるさと、宮城県の川はどうなっているのか?

 関係機関による早急な調査が望まれるとことです。

 
⇒ http://www.epa.gov/region8/water/didymosphenia/White%20Paper%20Jan%202007.pdf

Posted by 大沼安史 at 12:45 午後 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-08-21

〔いんさいど世界〕 北極資源戦争 ロシアが先手 北極真下の海底に「国旗」 核爆撃機のパトロールを再開

 世界のてっぺん、北極を舞台に「資源戦争」が勃発しかけています。北極海の海底に眠る石油・天然ガスをめぐる戦いが始まろうとしている。

 先手を打ったのは、ロシアです。
 北極の「真下」の海底に「ロシア国旗」を据え付けて領有権を主張したあと、北極圏の空に核搭載の爆撃機を繰り出し、戦略哨戒飛行を再開しました。

 これに対して、カナダ、デンマークなど関係各国はロシア領有権の無効を主張、ホットな「冷戦」が続いています。

 ロシアのミニ潜水艇が北極直下、水深4000メートルの海底に潜航、海底にチタニウムのカプセルに入った「ロシア国旗」を据え付けたのは、8月2日のことでした。

 3人乗りのミニ潜水艦2隻によるチームプレーの快挙。
 チームを率いたのは、プーチン大統領のスポークスマンを務めるペズロフ特使で、潜航の模様はテレビで生中継され、ロシア全土に放映されました。

 冒険のためではありませんでした。
 目的はハッキリしていた。
 狙いはただひとつ、北極点の海底にロシア国旗を翻らす(?)ことで、北極地方に対するロシアの領有権を全世界にアピールすることでした。

 ロシアは北極海を走る「ロモノゾフ海嶺(海の山脈)」を中心、北極地方の半分の領有権をかねて主張しており、そのことを目に見えたかたちで示す、「潜航ショー」を決行してみせたわけです。

 その理由は何か?
 実はシロクマの楽園の北極の海って、海底に石油や天然ガス資源の眠る宝庫なんです。
 推定埋蔵量、100億トン。
 地球に残された最大かつ最後のエネルギー資源です。

 それが手付かずのまま、開発される日を待っている。ロシアはこれにいち早く、ツバをつけてみせたわけです。

 早速、北極圏の関係諸国から批判と抗議の声が上がりました。

 カナダ政府はレゾリュート湾に軍事訓練施設の名目で基地を開設、バフィン島には海軍基地をつくり、軍事力で権益を保全する構え。

 グリーンランドを抱えるデンマークも、ロシアの領有権主張の根拠となっている「ロモノゾフ海嶺」が実はグルーンランドから伸びるものと主張し、海底の地形調査に乗り出す考えでいます。

 アラスカを持つアメリカも神経を尖らせていますが、国連の海洋法条約を締結しなかたことで、アラスカ沖に対する領有権を主張できず、指を咥えながら苛立ちを隠せないようすです。

 ロシアが北極に触手を伸ばした背景には、プーチン大統領の資源戦略があります。資源を武器に、ロシアを超大国として復活させる……そんな戦略をとってプーチンさんは成功し、政治的な基盤を固めて来ました。

 ヨーロッパ向けの天然ガスパイプラインをストップするぞと言っては脅しをかけ、外交上の切り札にして来たわけです。

 そんな新生超大国・ロシアの復活を賭けたことですから、ロシアは真剣です。
 マジ、北極資源をゲットしようとしている。そう見なければならないわけですが、それを裏付けることが最近、起きて、西側関係者に衝撃を与えました。

 それが核搭載爆撃機による戦略哨戒飛行の再開です。

 核哨戒飛行は「冷戦」の最中、続けられていたもので、文字通り核爆弾を装備した爆撃機が北極の空をパトロール飛行し、有事の場合、直ちに攻撃に入るという危険きわまりないものでした。

 それが冷戦の終結で1992年に中止され、これまで続いていたのですが、これをロシアは今月(8月)17日から再会しました。
 爆撃機14機が一斉に飛び立ち、哨戒飛行を開始したそうです。

 北極はロシアの「北方領土」、国際社会に何として認めさせるんだという、これはもう断固たる意志表示ですよね。

 このように、ロシアが北極の海の海底資源確保に動き出した背景には、実は意外なものが潜んでいます。
 それは、なんと「地球温暖化」。

 地球温暖化によってさしもの北極海の寒さも和らぎ、氷が溶け出すなど、開発しやすい状況が生まれつつある……。

 地球温暖化も遂にここまで来たか、という感じがしますね。
 開発が進むと、シロクマたちもおちおち冬眠してられないわけで、「おい、いい加減にシロ。クマるじゃないか」な~んて怒っていたりして……。

 でも冗談じゃないですよね。
 「北極産の石油」まで世界に(日本に)に出回る日には、真夏の暑さはどのくらいになっているのでしょう。
 45度、50度……。
 考えるだけで背筋が寒くなります。 

Posted by 大沼安史 at 10:40 午前 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-08-13

〔いんさいど世界〕 巴里は自転車に乗って 好調「ベリブ」 市民、ツーリストの「足」に

 「ベリブ」、ベロ(自転車)とリベルテ(自由)の合成語です。訳して「自由自転車」。
 この「自由自転車」が、パリ市民やツーリストの間で、いま大人気で、新しい街の風物詩になっているそうです。
 パリは自転車に乗って……花の都は「ベリブ」がお似合いのよう。

 「ベリブ」がパリ・デビューを果したのは、7月15日のことでした。
 市内750ヵ所の専用パーキングロットに、1万600台が配置され、貸し出しが始まった。

 そう、「ベリブ」はパリ市役所の交通局が始めた、公営貸し自転車。

 でも、ふつうの貸し自転車と違うのは、レンタカーのように行き先で乗り捨てることができる、その名通りの「自由」さにあります。つまり、借りたところに返す必要がない。だから便利。
 
 たしかに自転車ではありますが、特徴的です。明るいグレーの車体。自転車というより、おしゃれなバイクのようなデザイン。それでいてハンドルの前に、ちゃんとカゴがついている実用性……。
 耐久性も抜群で、アンチ・パンク・タイヤを装備しているそうです。

 どうしたら、これを利用できるか?
 パリ市民でなくとも、外国人でも――ということは日本人観光客でも利用できます。

 カードがあればいい。電話ボックスのような、銀行のキャッシュディスペンサーのようなところで手続きすれば、誰でも使えるんだそうです。
 フランス語が読めなくてもOK。ちゃんと日本語を含む外国語7ヵ国語で使用法が表示されているのだそうです。

 カードで前払いして予約する。そうすると、データが入力された「ベリブ・カード」がもらえます。その「ベリブ・カード」を、パーキングロットの「ベリブ」に挿入すれば、ロックが外れ、乗り回すことができる。

 お値段は「1日パス」が「1ユーロ」(日本円で166円前後)で、「1週間パス」が5ユーロ(830円)、「1年間パス」だと29ユーロ(5800円)かかります。

 これさえ払えば、1回につき30分以内なら、何回乗っても「無料」です(これを超えると超過料金を払わなければなりません)。

 つまり、けっこう安い。
 専用のパーキングロットは、300メートル間隔で設置されていますから、目的地の近くまで乗って行って、そのまま乗り捨てれきる。用件を済ませたら、また乗って、別の場所に回る。

 安いし便利ですよね。

 この公設貸し自転車のシステムを開発したのは、「J・C・デコー」という広告会社でした。
 パリ市役所のPR掲示板、1628ヵ所の使用と引き換えに、自転車から何からすべてを用意して、市役所に「話に乗りませんか」と持ちかけたわけです。

 市役所の負担はゼロ。おまけに、市内の交通渋滞の緩和も期待できる……とあって、デラノ市長も乗り気になり、一気に実現しました。

 といって、パリが実験の先頭を切ったわけではありません。
 実はフランス国内では、「J・C・デコー」というフランスの広告会社と、「クリア・チャンネル」というアメリカ系の広告企業が先をあらそって、地方都市を舞台に「公営貸し自転車」システムの売り込み合戦を続けて来たのです。

 レンヌというフランス西部の町では、1998年から実施され、リヨンでは2005年5月からスタートしている。

 まるでツール・ド・フランスのように全国で広がり、ついにパリでも始まった、というのが現実の姿です。(参考まで言うと、マルセイユではことし9月から、トゥルーズでは来年1月からスタートします)

 つまりで地方で成功したのを、パリでも始めた。2匹目、3匹目のドジョウ、というわけです。
 パリ市って、けっこうしたたかですね。「事故」など考えられない、ただ乗りの“安全運転”を始めたわけですから……。

 で、利用状況はどうかというと、やっぱ好調です。ベリブ1台あたり、一日平均9回の利用がある。
 「平均」の中には雨の日も入っているはずですから、これはもう、かなりのものですね。
 まさに「乗っている」というか「乗りまくられて」いる。

 ルモンドという新聞(8月11日付け)には「争いがたい大成功」と出ていました。

 この「公営貸し自転車」、パリなどフランス各地でなぜ、成功したのか?

 ヨーロッパでは実は1968年、オランダのアムステルダムで、同じような乗り捨て方式の「自由自転車」システムが鳴り物入りで始まり、見事に失敗したことがあります。
 自転車がみんな盗まれちゃったんですね。

 ところが、それから40年ほど経ったいま、フランスではうまく行っている。

 その秘密は、カードを使った決済と一元的なデータ管理にあるといいます。
 つまり、自分のカードで自分の身元を明かさなければならない。それに「ベリブ」はふつうの自転車とは違ったスタイルをしているので、目立ってしまい、盗めないんですね。

 この「自由自転車」システム、フランス国内ばかりか、スペインのバロセロナ、セルビア、ドイツのベルリン、ノルウェーのオスロへと今後、飛び火して行く見通しだそうです。

 ということは、遅かれ早かれ、日本に上陸することはまず間違いのないところで、いずれ、宮城県にもやってきそうな感じがします。

 仙台市では一度、同じような実験が試みられたことがあるようですが、市役所の交通局あたりが率先して、導入に向け、検討を始めてもらいたいところですよね。

 ところで、気になるのは、この「ベリブ」でパリのタクシードライバーのみなさんが悪影響を受けていないか、という点ですが、ルモンドによると、「相補的」で共存に成功しているのだそうです。

 短距離はベリブ、中距離以上はタクシーという具合にすみわけができているんですね。

 これからパリ観光に行かれる方は、これはもう、一見の価値ありというか、一乗の価値ありで、ぜひベリブに乗って来ていただきたいですね。「これはいい」の実感が積み上がれば、市役所や広告会社が動いて、案外早く、実現するかも知れません。

 その場合の愛称として、「ジデ」なんてどうかしら?
 「ジデ」……そう、「自由自転車」の略称――!!!??? 
 
 

Posted by 大沼安史 at 06:00 午後 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-08-09

〔重要NEWS〕 巣鴨釈放:「いまや、われわれは民主主義者だ」、「復活」のお披露目はCIA高官との歌舞伎座そろい踏み、エージェントの情報で国会での「反乱」を阻止 CIAに「恒久支援」を求める CIAに金で買われた岸信介首相 賀屋興宣氏も手先に ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者(ピュリッツアー賞受賞記者)の近著、『灰の遺産 CIAの歴史』で暴露

 「岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった」 
 
 ニューヨーク・タイムズ紙のピュリッツアー賞受賞記者、ティム・ワイナー氏の近著、作、『灰の遺産 CIAの歴史』に、こんなとんでもないことが出ていた。

 「CIAの秘密の武器は……冷たい現金だった」という書き出しの、同書の第12章。

 祖父の岸首相を尊敬しているという安部首相にはぜひとも読んで点検してもらいた部分だ。例のごとく、「客観的な事実ではありません」というなら、ワイナー記者を相手に名誉毀損の裁判を起こしてほしい。

 ことは一国の名誉にかかわることである。「60年安保」を強行した岸首相が、米国の諜報機関、CIAの操り人形だったと決め付けられているのだから、ただちに「反論」すべきであろう。

 岸首相は、対米戦争の宣戦の詔勅に署名した、東条内閣の一人。そんな戦争指導者の命令に従い、彼らを信じて「鬼畜」との戦いに死んだ、「靖国」の「英霊」たちが聞いたら、「そんなバカな。おれたちは何のために死んだんだ?」と、唖然とすることだろう。

 岸信介氏らを信じ、死んで行った「英霊」たちのためにも、安部首相はワイナー記者相手の裁判で、「岸信介=CIAの犬」説は完全なデッチ上げだと証明し、祖父の名誉を、日本の戦争指導者の名誉を、戦後の日本の保守政治の名誉を守り抜いていただきたい。

 それでは、ワイナー記者は、『灰の遺産』第12章で、どんな「事実」を暴露しているか?

 この章でワイナー記者は、岸首相とともに、児玉誉士夫についても書いているのだが、ここは岸信介氏に限って、主なポイントを列挙しておこう(敬称略)。

 ① 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。〔大沼・注〕つまり、影響力を行使できる立場にあった」

 ② 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」

 ③ 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。

 ④ 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。

 ⑤ その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。

 ⑥ ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか
聞いた。

 ⑦ 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。 
 
 ⑧ CIAと自民党の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。

 ⑨ CIAはイタリアでの失敗に懲り、アメリカの実業家を金の運び屋に使った。その中には、岸が建設しようとしていた自衛隊に売り込みを図る、ロッキード社の重役も含まれていた。

 〔大沼・注〕後の「ロッキード事件」に登場する「ロッキード社」は、CIAに実は使われていたのだ! ロッキード事件が田中角栄追い落としを狙った、CIA陰謀であるとの見方に、またひとつ、傍証が出た。

 ⑩ 1957年11月、岸は「自由民主党」の名の下、保守勢力を糾合した。自民党の指導者として岸は、国会に議席を持つ人間をリクルートし、彼の配下に入れる工作を、CIAに許可した。

 ⑪ 政権トップに登り詰める中で岸は、安保条約の改定をアメリカ側に約束した。岸との連絡役のCIAのケース・オフィサー、クライド・マカヴォイは、戦後日本の外交についてレポートすることができた。

 ⑫ 1957年2月、岸が日本の首相になる日、国会で安保条約にかかわる死活的に重要な手続きが行われる予定だった。これについて、マカヴォイは、こう証言した。「岸とわたしはその日のクーデターを流産させた」と。マカヴォイはさらにこう語った。「アメリカと日本は、合意に向かって動いていた。これを日本共産党は特別な脅威を感づいた。投票が行われるこの日、共産党は国会で反乱を起こす計画を立てた。このことをわたしは、わたしの情報源の、左翼の社会党の本部員の通報で知った。岸は天皇に謁見する予定だったが、わたしは緊急会談を申し入れた。岸はモーニングにシルクハット、縞のズボン、コートの出で立ちで、秘密の会合場所に現れた。わたしは岸に話す権限を与えられていなかったが、岸に共産党が国会で反乱を企てていると教えた。国会の慣例では、午前10時半か11時に、食事などのため審議が中断することになっていた。岸は休憩と取るなと自民党の国会議員に命じた。自民党議員以外の議員が退席したすきに、自民党は彼らだけで法案を採決し、通してしまった」

 ⑬ 1957年6月、岸はアメリカを訪問、ヤンキースタジアムで始球式を行い、白人専用のゴルフ場でゴルフをした。岸は新しい日本大使に決まっていた、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー2世に、もしアメリカが権力基盤強化の手助けをしてくれれば、日米安保条約は国会で成立するだろうし、高まる左翼の潮流も取り除くことができると語りかけた。岸は、一連の内密の支払いではなく、CIAによる財政的支援の恒久的な財源を求めた(Kishi wanted a permanent source of financial support from the CIA rather than a series of surreptitious payments.)。

 ⑭ アイゼンハワー大統領は自民党の有力者へのCIAの金の支払いを承認した。CIAの役割を知らない政治家は、アメリカの大企業からの金だと思い込まされた。CIAの金はすくなくとも15年間、4代の大統領にわたって続いた。

 ⑮ 岸信介とともに、戦時内閣で大蔵大臣を務めた元戦犯の賀屋 も釈放され、国会議員として復活した前後に、CIAによってリクルートされた。賀屋のCIAとの関係は、1968年にピークを迎えた。賀屋は、選挙戦を自民党に有利なものにするCIAの秘密作戦で中軸の役割を果した。

 ―― 以上が、ワイナー記者の暴露のハイライト部分である。
 CIAの機密文書の解禁で、岸信介がCIAのエージェントであったことは明らかになっていたが、これほど深い関係だとは知らなかった。

 安部首相にお願いする。どうか、従軍慰安婦問題と同じように、「嘘だ」と言ってくれ!
 国会答弁の公式の場で、ニューヨーク・タイムズ記者の書いていることは嘘だと言って、裁判を起こしてくれ!
 
 あなたの祖父ばかりか、日本の戦後政治の正統性が問われているのだ。日本人全体の名誉がかかっているのだ。

 ピュリッツアー賞の事務局にも、賞の取り消しを要求してくれ!

 そうしたあとで、「靖国」に公式参拝し、祖父の岸信介は潔白だと「英霊」たちに報告してほしい。
 
 それがあなたの、日本の首相としての、岸信介氏の孫としての責務である。

Posted by 大沼安史 at 09:53 午後 | | トラックバック (3)

2007-08-04

〔イラクから〕 パトリック・コバーン記者 イラク国内難民キャンプをルポ 殺戮を逃れ流入 悪臭のなかの安全 

 英国のジャーナリスト、パトリック・コバーン記者(インディペンデント紙特派員)が、イラク国内の難民キャンプに入り、ルポを書いた(電子版、7月30日付け)。

 悪臭の立ち込めた、にわかづくりのスラムだそうだ。
 地元の当局が、難民に定住されるのを恐れ、トイレを掘ることを禁じているのだという。

 97家族、470人が住む、イラク北部、スレイマニアの「カラワル難民キャンプ」。そのほとんどが、スンニ派の人びとだ。バグダッドやヒラ、ディヤラから逃れて来た。

 バグダッド市内西部、サーディヤー区を脱出して来た人が多い。7月半ばまでの1ヵ月間に、84人の死体が回収されたところだ。犠牲者の大半は若い男性で、拷問を受け、縛られていた。

 サーディヤーから来たひとり、38歳の男性は11ヵ月前からキャンプで暮らしている。
 コバーン記者が話を聞いていると、横にいた人が黙って死亡証明書を差し出した。男の息子の死亡証明だった。

 男性はカラワルの「市長」だった。難民たちは、国際赤十字社の食糧と水で生きている。「ここは少なくても安全だから」と、「市長」は言った。

 電気も水道も煮炊きする油もないスラム。強烈な真夏の光の下、汚物と物の腐った臭いが漂うキャンプ。

 コバーン記者のルポを読むと、難民たちの過酷な生活ぶりが感覚的にも伝わって来る。

 現地にはスペインの市民団体が入って、移動診療所の運営を後押しする活動を続けているそうだ。

 コバーン記者によれば、イラクでは1日平均、2000人が家を捨てて難民化している。7人に1人、400万人が難民となり、半数が国外に流れ、半数がイラク国内にとどまっている。
 
 イラクの難民にとって、ことしの夏はさらに「酷暑」である。
 

http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2816666.ece

Posted by 大沼安史 at 06:18 午後 | | トラックバック (0)