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2007-06-29

〔イラクから〕 「占領を終えることでしか平和は戻らない」 パトリック・コーバン記者 バグダッドからブラウン新首相あて公開状

 英紙インディペンデントのバグダッド特派員、パトリック・コバーン氏が、6月29日の同紙に、ブラウン新英首相に対する「公開状」を発表した。

 「交渉で占領を終えることでしか、ワシントンとロンドンが、クルド人に支持され、イランの影響を受けたシーア派の宗教諸政党が、この国を支配することになる、を受け入れることでしか、平和は戻らない」

 ブレア前首相の後を受け、英国の新指導者となったブラウン氏に対する「撤退勧告」。

 「米国の元情報高官が言っているように、政府支援のため兵力を増派するのは、酔っ払いにウイスキーを与えるようなものだ」

 「イラクの政治はますます、犯罪マフィアと政治家が結託し、揉め事は暴力で解決していた1920年代、禁酒法下のシカゴに似て来ている」

 「英兵はイラク南部で、標的となる以外、何の役割も果たしていない」

 精確かつ水際立ったイラク報道で世界的に有名なコバーン記者の「撤退の勧め」とあって、同紙電子版の「公開状」のリンクは、アクセスが殺到し、一時的に接続不能状態になるほどだった。

 米国の「イラク占領」を支持し、挙句の果てには「集団自衛権」でもって、われらが自衛隊をイラクの戦場に送り込もうと画策する、安部政権。

 ブッシュの顔色を気にする暇があるなら、下記リンクのコバーン記者の「公開状」を一度、じっくり読んでみてはいかが。

   


http://comment.independent.co.uk/commentators/article2720048.ece

Posted by 大沼安史 at 11:16 午後 | | トラックバック (0)

2007-06-27

〔NEWS〕 「日本兵を憎まずにいられますか?」 米下院委「慰安婦」決議採択のその日、中国人「慰安婦」が名乗り出て告発

 米下院外交委が「慰安婦」決議案を圧倒的多数で採択したその日、6月26日の朝、米紙ワシントン・ポスト紙は中国発のロイター電を掲載、現在91歳になる中国人女性が長い沈黙を破って、日本軍の「慰安婦」だった過去を明らかにしたと報じた。

 名乗り出たのは、江蘇省・如皐(ルガオ)に住むザオ・フェニンさん。

 証言によると、彼女が「日本の兵士(複数)」によって、夫の姉妹の一人とともに、中国・東部の村から拉致されたのは、22歳のとき。粉引きの石の下に隠れていたのを見つかり、足首をつかんで引きずり出された。

 ザオさんらは車につながれたあと、縛られて車に乗せられ、慰安所に連れ込まれた。そこには少なくとも20人の中国人女性がいた。

 「1日4、5時間、拷問を受けたあと、食べ物を出されたが、わたしたちは泣いて、食べたいと思わなかった」とザオさん。
 
 ザオさんはロイター記者にそれ以上、語ろうとしなかったが、息子のジアンさん(62歳)によると、ザオさんはジアンさんに、日本兵に毎日、強姦されていたと打ち明けた、という。

 「もしもあなたがそうだったら、彼ら(日本兵)を憎ますにいかれますか? もちろん、わたしは憎んでいます」とザオさん。

 「でも、戦争のあと、日本人はみな帰って行った。わたしは年老いた。日本兵たちはもう死んでいるだろう」と語った。

 息子のジアンさんによると、ザオさんは、「慰安婦」だったと名乗りでたレイ・グィユンさんがことし4月、脳内出血で死亡したあと、自分の過去を語り出した。

 
                 ◇

 一方、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙(6月27日付け、電子版)に掲載された台湾発のAP電によると、台北の日本政府代表部前で同日、86歳になる元「慰安婦」の台湾人女性が2人、謝罪を求めて、抗議行動を行った。

 チェン・タオさんとチェン・ヤンさんの2人。

 タオさんは「日本政府がいまなお、謝罪を拒否していることが不思議でならない。わたしは闘いをやめない」と語った。
 
 台北婦人支援財団によると、台湾の「慰安婦」は推定、2000人。そのうち、生存者は25人しかいない。

〔大沼・注〕

 元「慰安婦」に対する安部政権の“姿勢”とは、以下のようなものだ。

 ザオさん、2人のチェンさん、悔しかったら、「(拉致を裏付ける)公式文書」を探し出して、それから言いなさいよ(と、涼しげな「カメラ目線」で!!!)。

 そしたら「客観的事実」として認めます。

 えっ、公式文書がない!!??、なら事実として認めるわけにはいきませんなぁ……。
 残念ですが……(と、またも涼しげな「カメラ目線」で!!!)

 まるで「社保庁」。

 

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/26/AR2007062601445.html

http://www.iht.com/articles/ap/2007/06/27/asia/AS-GEN-Taiwan-Comfort-Women.php

Posted by 大沼安史 at 09:56 午後 | | トラックバック (1)

2007-06-26

〔NEWS〕 フランス政府 カナダ製の携帯端末「ブラックベリー」を使用禁止 米諜報機関、NSA(国家安全保障局)による盗聴の恐れ

 ルモンド紙(電子版、6月19日付け)が報じたところによると、フランス政府はカナダ製携帯端末「ブラックベリー」の公務に関する使用禁止の徹底を図ろうとしている。

 「ブラックベリー」は米英のサーバーを通じて携帯電話はメールが配信されているが、フランス政府の経済防諜責任者は、同紙に対し、「傍受の危険は現実のものである。これは経済戦争だ」と語った。

 フランスの国防相による「ブラックベリー」禁止通達は、1年半前に出され、今回、改めて通達された。こっそり使っている政府関係者がまだいることから、禁止を徹底した。「政府情報が外国の手のなかに出回るのは問題外のことだ」と、通達は述べている。

〔大沼・注〕
 米国のNSAといえば、英国、カナダなどアングロ・サクソンの同盟国を配下に、グローバルな盗聴・盗視網、「エシェロン」を運用している本家本元である。「ブラックベリー」の通信傍受など、お手のものだろう。

 ルモンドによれば、「ブラックベリー」利用者は、全世界で、700万人近く。日本でも普及している。

 政府や企業関係者はただちに使用を中止すべき、かもしれない。


http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0,36-925472,0.html

Posted by 大沼安史 at 12:33 午前 | | トラックバック (0)

2007-06-23

〔コラム 机の上の空〕 「慰安婦」決議で米紙に反論広告 社保庁並みの「恥の上塗り」 RAAの米兵「慰安所」は、ほんとうに占領軍のごり押しだったか? 

 日本の「国会議員有志」や「言論人」らが、今月(6月)14日の米紙ワシントン・ポストに、「慰安婦」問題に関する全面広告を出した。

 朝日新聞(19日付け)の報道によると、(「慰安婦」集め)に「強制性を示す文書」はないとする意見広告で、米下院外交委での謝罪要求決議を睨んだものだったが、逆に議会側の反発を招き、逆効果に終わったとする見方も議会筋から出ているという。

 意見広告には、「1945年に占領軍当局は、米兵による強姦を予防するため慰安所の設置を日本政府に要望した」とあり、「これが反発を招いた可能性もある」と、朝日新聞のワシントン特派員は指摘している。

                □

 その記事を読んで、「意見広告」の主張(安部首相の主張)は、なんだか「年金」問題に似ているな、と思った。
 領収書がなければ、支払った「客観的事実はない」、だから払わない、という開き直りと、文書が見つかっていなから、強制性はない、責任はない、という居直りと。

 まさに、社会保険庁顔負けのゴーマンさ、だ。
 

 「占領軍当局が……慰安所設置を日本政府に要望した」というくだりも気になった。

 かりにそうした事実があったとして――占領軍が慰安所設置を日本政府に要望し、その「要望」に唯々諾々従って、日本政府が慰安所を設けたとしたなら(RAA=特殊慰安協会による米兵相手の「慰安所」は各地につくられたから、日本政府は占領軍の要望を拒否しなかったのは明白な事実であろう)、昨日の「鬼畜」に「大和撫子」を差し出した、日本政府の弱腰もまた、大いに批判されるべきところだろう。

 
                □

 昭和8年、東京・大森に生まれ、戦後、下町の町工場で職人生活を長年続けた、作家の小関智弘さんは、わたしの大好きな作家のひとりだが、少年時代の回想を『東京大森海岸 ぼくの戦争』にまとめている。

 そこに、いまの「平和島入口」あたりに設置された、RAAによる「慰安所」の成り立ちが詳しく書かれている。

 『東京闇市興亡史』という史料(これまた「文書」のひとつであろう)に依拠したもので、それによると、敗戦3日後の、昭和20年8月18日、内務省警保局長から各警察署長あて、外国駐屯軍に対する性の営業に関し、「積極的に指導を行い、設備の急速充実をはかるものとする。性的慰安施設、飲食施設、娯楽施設。営業に必要な婦女子は、芸妓・公私娼妓・女給・常習密売淫売犯等を優先的にこれを充当するものとする」との、秘密無電による準備指令が発せられたという。

 そしてその日のうちに警視庁保安課の課長が東京料理飲食業組合の代表3人を呼び出し、「婦女子の安全をはかるには、防波堤となるものが必要だ」と「懇願」(中略)、「警視庁のお墨付き、大蔵省の肝煎りでRAAは生まれ」、早くもその9日後の同月27日、大森海岸の小町園に第1号施設が「開店」するという慌しさ。

 内務省が「準備指令」を発したのは、昭和天皇の「玉音放送」の記憶も生々しい、敗戦のわずか3日後の18日。
 占領軍第一陣の日本上陸は同27日だから、日本政府(内務省)はその9日も前に、早々と「準備」を始めていたことになる。

 占領軍当局の「要望」というより、日本政府のイニシアチブでことが進められたような印象を拭いきれない。

 事実は逆で、政府(内務省)が積極的に慰安所開設に動いたのではなかったのか?

 さて、そのRAAの話に戻るが、「募集」には「明日の食糧も、着るものもない若い女性が群が」り、その10人中9人までが裸足で現れたそうだ。

 食うに事欠き、裸足で慰安婦に身を落とした、戦争難民の若い女性たち……。
 ポスト紙に広告を出した「有志」たちなら、彼女たちは自発的なボランティアであって、強制性はなかったと、またも澄まし顔で言い切ることだろう。

 ちなみに、このRAAの慰安所は、米メディアの報道で米国内に伝わり、米兵の妻や家族の猛反発で、約7ヵ月で閉鎖された。

 本土の家族や一般国民の知らないところで、敗戦ぎりぎりまで開設されていた日本軍の「慰安所」との違いがここにある。

                 □

 先日、中国で、ある「奴隷労働」の実態が明るみに出て、中国内外から厳しい批判の声が集まった。「レンガ工場」にだまされて連れてこられた少年たちが、暴行を受けながら強制労働にあえいでいる現実が、ビデオ映像などで表面化したのだ。

 その「レンガ工場」の「主」がかりに、少年たちを連れてきたのは「業者」であり、その「強制性を示す文書は存在しない」から、われわれの「児童虐待」は正当化されこそすれ、批判される筋合いはどこにもないと言い張ったとしたら、世界の人びとはどう思うことだろう?

 ポスト紙への意見広告は、それと同じことである。

 そして、「アメリカさんよ、慰安所開設、お前さんたちだって、おれたち、日本政府に要望したじゃないか。お互いさまじゃないか。お前たちに、おれたちのこと、批判する権利はあるのか」と言わんばかりの、犯罪者同士の泥仕合に持ち込んでウヤムヤにしようとするような、あの言い草……。

 ひとことで言えば、恥の上塗り。
 対日イメージのさらなる悪化が心配される。       
 
 

Posted by 大沼安史 at 05:01 午後 3.コラム机の上の空 | | トラックバック (1)

〔いんさいど世界〕 「闇の都市」巴里(パリ)にようこそ

 そろそろ、夏休み。バカンスは海外、行き先はパリという方も多いと思います。
 そこで今日は「花の都=パリ(巴里)」の話題を。

 日本では「花の都」と呼ばれているパリですが、世界的には「光の都(市)」と呼ばれています。「花」であれ「光」であれ、「芸術の都=パリ」にふさわしいたとえですね。

 そのパリに実は、もうひとつの「顔」(といっても、不可視の顔というか、見えない顔ですが……)がある……「花」も「光」もない、もうひとつの「顔」が……。

 みなさん、ご存知でしたか?
 わたしも昔、どこかで聞いたような気もするのですが、詳しいことは知りませんでした。パリにはほんとうに意外な、驚くべき「隠れた顔」があるのですね。

 その「もうひとつの顔」のことを、ちょっと調べてみました。リサーチの結果を報告しましょう。

 その予想外の「顔」とは、「闇の都(市)」という「側面」(というより、土台、基礎部分といった方がいいかも知れません)です。

 そう、光の届かない、花の咲かない「闇の都(市)」が、パリにはある。どこに? どのあたりに?

 地上ではなく、地下に。

 「花と光の都」の地表下になんと、巨大な「地下都市」が眠っているのだそうです。トンネルで結ばれ、ところどころに広場もある、広大な「闇の都(市)」。その名も「カタス」!

 トンネルの総延長は300キロ以上。「地図」まで発行され、週末ともなると、当局の目を盗んで、400人もの地下生活愛好家(こういうモグラのような人びとを「カタフィル」というのだそうです)が、闇のなかのハイキングを楽しんでいる、といいます。ちょっとした冒険観光の名所といったところですよね。

 この闇の地下都市の名、「カタス」ですが、「カタリエール」(石切場)と「カタコンベ」(初期のキリスト教徒が隠れていた地下の避難施設)から出た言葉のようです。

 そんな名前から分かるように、パリの地下は昔、石灰岩の石切り場でした。地表から井戸のように縦穴を掘ってゆくと、36メートルもの分厚い石灰岩の層にぶちあたります。そこから石灰石が切り出されていた。

 パリで石切りの地下作業が始まったのは、12世紀から。あのノートルダム寺院も、そんな石灰岩で建てられたものだそうです。
 その後、石の切り出しはどんどん進んで、18世紀には大規模な陥没事故も起きたそうです。

 そのとき、陥没の現場につけられた名前が「地獄通り」。いまの「サンミシェル大通り」だといいます。

 ではなぜ、パリの地下に石灰岩の層があるのか?

 それはいまから4500万年ぐらい前までは、このあたりには浅い海が広がっていた。 
 海生生物の死骸が体積し、石灰石が形成されて行った。

 そんなせいで、「パリ地下」の石灰岩は、1立方メートルあたり、300万もの海生生物の殻が含まれ、それが独特の蜂蜜色をかもし出しているのだそうです。ルーブル宮の石灰石の色合いの秘密は、ここにある、といいます。

 石切りは19世紀になる前、終わりを迎えますが、その跡はそのまま放置され(修復しようもありません)、地下生活者の住み着く「カタス」となって行きます。迷い込んだら、出てこれない、恐ろしい、闇の迷宮。

 1793年11月には、グラス谷病院の地下室から、「カタス」に入り込んで行方不明になった男が、11年後、白骨化した姿で発見されるという事件も起きているそうです。

 第2次大戦中は、ナチスドイツの占領軍を闘うレジスタンスの「地下」司令部が、デンフェール・ルシェロウ地下の「カタス」内に設置されました。

 1968年の「パリ5月革命」でも、警察に追われた学生たちが「カタス」に逃げ込み、追っ手をまいたりした。

 そんな「カタス」が、闇の観光名所になったのは、1983年に『カタフィルたちの都市』というガイド本が出てからだといいます。

 地底探検の冒険ハイキングを楽しむ場所として人気になっていたのですが、強盗やレイプ犯まで出没するようになり、現在は300箇所あるアクセス・ポイントが封鎖され、ときどき、警官隊が坑内跡のトンネルなどをパトロールするなど、取締りを強化しているそうです。

 でも、それでおめおめ退散するような「カタフィル」たちではありません。当局の監視の目をかいくぐって、今なお、もぐりこんでいる。

 当局がアクセス・ポイントを封鎖したおかげで、湿度が100%まで上がって(坑内温度は平均15度)、「快適」とはとても言えない環境になっていますが、それでも「カタフィル」たちはもぐって行く。
 なかには地下でキノコを栽培している「カタフィル」もいるそうです(キノコって光が差し込まなくても育つのでしょうか?)。
 まあ、地下水はそれなりに豊富でしょうから、都会生活の快適さを投げ打てば、けっこう生きていけそうな気もします……。

 そのパリの地下都市、「カタス」で最近、ちょっとした異変が起きているそうです。
 さきほど、当局が入口をふさいだことで湿度が100%に達しているといいましたが、おかげで手のついていない石灰岩層の侵食が進み、ひび割れが起きているのだそうです。
 
 そう、入口を開放して風通しをよくしないと、またも陥没事故が起きて、「花と光の都」に、現代の「地獄通り」が出現しかねない……。
 
 そんな危険も秘めた場所ですから、ルーブルのあとは「カタス観光」などと、パリでのバカンスを計画中の方には、「冒険心」を起こさないでいただきたいですね。

 誘われてもやめた方がいい。捕まれば罰金、です。

Posted by 大沼安史 at 11:24 午前 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-06-19

〔NEWS〕 国連、ガンジー生誕の日を「国際非暴力の日」と宣言

 国連はガンジー生誕の日である(1869年)「10月2日」を「国際非暴力の日」とすることを宣言した。
 各国政府に、この日を「非暴力を広げる日」として記念するよう求めている。 

〔大沼・注〕

 「イラク戦争」を続ける米国は、そしてそれを支持する日本政府は、「10月2日」をどう迎えようとするのか?


http://www.un.org/News/Press/docs/2007/ga10601.doc.htm

Posted by 大沼安史 at 12:59 午後 | | トラックバック (0)

2007-06-18

〔NEWS〕 イスラエル ガザ攻撃を計画 サンデー・タイムズ紙が報道

 ハマスが武力制圧したガザに対して、イスラエルが攻撃を計画している、と英紙サンデー・タイムズ(電子版、6月17日付け)が報じた。

 イスラエル軍筋が同紙に明らかにしたところによると、攻撃は「数週間」以内に実施される。2万の兵力を投入、数日のうちにハマスの拠点を制圧する。

 ハマスはガザに12000人の兵力を展開。ファタ派との内戦の勝利したことで、同派の武器・弾薬を手中に収めており、イスラエルが軍事侵攻するとなれば、激しい抵抗に遭うそうだ。

〔大沼・注〕
 ブッシュ政権の「イラク戦争」を軸とする中東政策の失敗は、西はガザ地区、東はパキスタンまで、イスラム穏健派の凋落を加速させ、過激派を台頭させる「負の戦果」を生み出してしまった。

 いまや、収拾のつかない事態になっているともいえる。


http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/middle_east/article1942918.ece

Posted by 大沼安史 at 01:32 午後 | | トラックバック (0)

2007-06-16

 〔いんさいど世界〕 日本の女性に比べ、オランダの女性はなぜ落ち込まないか? 答えは彼女たちの「自由」に オランダの女性学者が著書で指摘

 『オランダの女性たちはなぜ落ち込まないか?』――こんなタイトルの本がオランダで出て、世界の注目を集めています。権威ある世界紙(グローバル・ニュースペーパー)、IHT紙(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン、6月8日付け)が紹介して、一気に世界的な関心の的になりました。

 なぜ、世界の関心を呼んでいるのか(なぜ、IHT紙は世界の読者へ、この本を紹介したのか)? それは、たぶん、それだけ世界中の女性たち(日本の女性も含めて)が落ち込んでいるからでしょう。

 表面上、元気を装ってはいても、実は陰々欝欝としている暮らしている。挫折感のなかで自分を呪ったりしている……。それが全世界に共通する、真実であるからです。
 

 IHT紙の記事によれば、このオランダの本には、日本人やフランス人女性との比較論も出ていておもしろい。

 つまり、「日本人の女性にとって、年をとったり太ることはいけないことで、フランス人女性には太ることはいけないことだけけれど、オランダ人女性はそんなこと、あまり気にしていない」……これが、オランダ人女性が「落ち込まない」=「幸せでいられる」ひとつの理由だそうです。

 なるほど、言われてみればたしかにその通り……。日本人&男性のぼくにも、わかるような気がしますね。
 東京の通気電車の車内広告にあふれる雑誌の見出しや商品の広告は「痩せろ。痩せろ」「メタボがどうの」の大合唱。

最近では(ぼくのようなオジンどもの)「加齢臭」まで取りざたされるようになり、気持ちは暗くなるばかりです。

 さて、話題の本、「フランス、日本の女性たちへの回答」という副題つきの『オランダの女性たちはなぜ落ち込まないか?』を書いたのは、エレン・デ・ブルインという、オランダ人女性心理学者兼ジャーナリスト。

 歴史家、ファッション・デザイナー、お店の売り子、雑誌編集者など、さまざまな職種の(ふつうの)大勢のオランダ人女性たちにインタビューをして分析した結果、オランダの女性たちは「自由、だから幸せ、なので落ち込まない」という結論にたどり着いたそうです。

 話を進める前に、前提の説明をしておくと、オランダ人って、男も女も「世界で最も幸せの国民」だっていうことが、わかっています。

 オランダ・ロッテルダムのエラスムス大学に、ルート・ベーンホーベンという、世界的に有名な男性社会心理学者がいるのですが、そのベーンホーベンさん比較研究で、オランダ人は世界トップの「人生満足度」であることが確認されている(10点評価で7.5)。
 ちなみに、日本は「6.2」で、フランス(6.5)や米国(6.4)にも劣っている……。

 政府がしきりに「美しい国」だと言い立てている「日本」って、世界的には、やっぱり「不幸せな国」なんですね(自殺者年間3万人、「年金」「介護(保険)」の、あのザマを見ればわかります)。

 で、ではなぜ、「オランダ人の女性」は幸せかという本論に戻ると、「オランダ人女性は日本人やフランス人女性に比べ、自分たちの人生をより自由にコントロールできる社会組織を持っているから」だそうです。

 それに比べて、日本には「非常に集団主義的な文化があって、個人の自由はほとんどない」とも。

 著者のデ・ブルインさんによれば、「オランダ人女性の経済的な自由」は14世紀以後の中世に起源を持つ、伝統的なものだそうです。
 男たちが疫病(ペストでしょうか?)で倒れたあとを、女性たちが担って以来、オランダの女性は経済的な自由を享受している。

 パートナー選びの自由も中世以来です。13世紀にローマ法王のグレゴリオ4世が出した、「同意による結婚」奨励の勅令を遵守して以来、「性の自由」を謳歌する、現代に至っているんだそうです。

 こうなると、ホイジンガのいう「中世の秋」は、むしろ「中世の春」、ですよね??!!(オランダの中世は、いよいよもって暗黒時代ではなかった!!)

 「女性上位」……女性が男性を組み敷く「婦唱夫随」は、早くも16世紀の文献にも現れるオランダの伝統で、オランダ人女性はマッチョな男を好まず、逆に男性はボス的な女性を好む現在につながっているそうです。(ちょっと驚きですね、知リませんでした!)

 こんなオランダに比べ、日本人女性を取り巻く状況は、まだまだ、ですね。
 女性の、ひとりの個人としての自由、一個の人間としての自立を煙たがる向きも多い。

 IHT紙の記事には、本を書いたデ・ブルインさん(アムステルダム在住)が大学での講義に自転車で向かう姿の写真が載っていましたが、服装は実にカジュアル。天下(?)のIHT紙の取材を受けるのに、こんな(?)カッコウでよく出られたものだ、と思わせるような、スーパー質素な出で立ちです。

 つまり、この1枚の写真が物語るように、オランダの女性は、自由を普段着として着こなし、幸せを自然に身にまとっている。

 そんな彼女たちが、日本に来て、「夏まで痩せる」とか「セレブな生活」とか「ブランドを持たなければならない10の理由」とか、「不自由な記事・広告」であふれる雑誌を見たら、どう思うことでしょう?
 
 氾濫する情報に負けず、流されない、自立と自由。
 そんな内面の強さをゲットすることが、落ち込まず、幸せを感じる近道のようです。 

 

Posted by 大沼安史 at 11:16 午前 1.いんさいど世界 | | トラックバック (1)

2007-06-14

〔For the Record〕 イラク占領     「日本もモデル」 ゲイツ米国防長官が言明 

 ゲイツ米国防長官は5月31日、ハワイ・ホノルルで記者会見し、イラク戦争をめぐる基本的な考え方を示した。

 このなかでゲイツ長官は「イラク占領」のあり方について、「韓国モデルもひとつだ。われわれが日本と結んでいる安全保障モデルも、もうひとつのモデルである」と言明した。

 And the idea is more a model of a mutually agreed arrangement whereby we have a long and enduring presence, but one that is by consent of both parties and under certain conditions. And the Korea model is one. The security relationship that we have with Japan is another.  

 ゲイツ国防長官のこの「ホノルル発言」は、米軍による「イラク占領」の恒久化を意図したものとして注目を集め、「韓国」をモデルにしているとの報道が広がっていたが、実は「日本」もまた、米国が望む「占領」形態のひとつとされていることが明らかになった。

〔大沼・注〕

 占領の「韓国モデル」とは、米軍の恒久基地を国内に展開、休戦ラインで敵(イラン)と対峙するもので、「日本モデル」とは、全土を制圧の上、親米政権との間で安保関係を構築、国内に恒久基地網を広げる構想とみられる。

 今回のゲイツ長官の「ホノルル発言」は、すくなくとも米側の認識おいて(もちろん、事実においても)「日本」が米国(米軍)によって事実上「占領」されている現実をはしなくも示したものだ。

 そう、その通り、日本は米軍の軍事「占領」下にあるのだ。
 だから、首都圏の空を米軍機がわがもの顔に低空飛行し、沖縄を「基地の島」に使いまくっている……。

 安部首相が「戦後レジーム」からの脱却を言うなら、この「美しい国」から、米軍をまず、たたき出すべきである。


http://www.defenselink.mil/transcripts/transcript.aspx?transcriptid=3974

Posted by 大沼安史 at 03:16 午後 | | トラックバック (0)

2007-06-13

〔いんさいど世界〕 アスペルガーの天才 ダニエル・タメットさんの精神世界

 英国、ケント州の田舎に、ひとりの天才が暮らしています。28歳の男性、ダニエル・タメットさん。アスペルガー症候群という「障害」、いや「個性」を持った「天才」です。

 アスペルガー症候群というのは、自閉症など広汎性発達障害のひとつで、一般にはそのうち言葉の遅れの少ないもの、と定義されています。急にパニックに陥っていまう、とか、限られた関心への極度の集中とか、そんな性向を持った人たちのことです。

 タメットさんは、そういうアスペルガーのひとり。この障害にありがちな天才的能力を持ったひとりです。

 そのタメットさんが、自伝を書いたので、取り寄せて読み出しました。
 読んで驚きました。
 「アスペルガー」というものが、どういうものか、当事者として、実に冷静に描き出しているのです。
 「本人」によって明らかにされた「アスペルガーの人の精神世界」……自伝、『青の日に生まれて』に書かれた中身を紹介しましょう。

 タメットさんは「数」と「言語」の天才です。
 まず、「数」から紹介すると、自伝に、こんなことが書いてありました。
 タメットさんは「カレンダー」が大好きだそうです。カレンダー……数が1列7個ずつ配列されている。

 そのカレンダーに関して、タメットさんはこんな「法則」を紹介しています。

 ① その月の13日目の曜日は、その月の初日の2日前の曜日に等しい(ことしの6月13日は水曜日。6月1日は金曜日だから、その2日前は水曜日になりますね)

 ② 1月と10月、9月と12月、2月と3月の初日の曜日は同じ(これも、たしかにそうです……。月・月・木)

 数に弱いぼくなんか、これだけでも「うーん」とうなってしまいますが、こんなのほんの序の口。
 タメットさんの数学の能力をたしかめた、ある大学教授によると、たとえば「37の4乗」なんて問題など、瞬間で答えてしまうのだそうです。1,874,161と。
 また、「13割る97」は割り切れませんが、少数点以下100桁まで言いなさいと言われれば、たちどころに数字を並べていくのだそうです。
 まるで人間コンピューター。すごいですね。

 問題はタメットさんの頭のなかで、いったい何が起きているか、ですが、たとえば、53×131の掛け算を解こうとすると、頭のなかに「53」の(空間的な)「塊」と「131」の「塊」が出現して、その2つの塊が形を変えながら融合して、「6943」の塊の「かたち」になるんだそうです。

 タメットさんにとって数はかたち「イメージ」として現れてくるのですね。

 たとえば、「89」という数。
 ぼくらはたんに「80+9」(90-1)といったふうに認識しますが、タメットさんの場合は「(白い)雪が降っているありさま」に見えるのだそう。

 つまり、タメットさんの「数たち」はそれぞれ、色さえ持っている。

 たとえば「1」は、眩い、明るい白として認識されるんだそうです。

 「美醜」の感覚もある。
 タメットさんにとって「189」は「116」より、明らかにビューテイフルなんだそうです。

 タメットさんは人に会うと、その人にふさわしい数を連想するそうです。背の高い人なら9を、太ったひとなら3を。

 タメットさんのもうひとつの天才領域の「言語(コトバ)」に移りますと、たとえば火曜日(Tuesday)というコトバは、暖かなな色にイメージされる。木曜日は、ぼやけた色。

 彼の「自伝」の題、『青の日に生まれて(Born on a Blue Day)』も、まさにそんな感覚からつけられたタイトル。
 タメットさんは、1979年1月31日の生まれですが、その日は水曜日(Wednesday)で、彼によって水曜日は「青の日」なんだそうです。
 「誕生日は青、すれは数字の9や大声での言い合いの音のよう」と、タメットさんは書いています。

 タメットさんは語学の天才でもあります。アイスランド語、リトアニア語など10ヵ国語を自由に話すことができます。
 コトバを色つきのイメージで吸収してしまうので、ものの数週間でゲットしてしまう。

 タメットさんは語学の才能を生かし、自分のHPを通じ、語学の勉強法を教えたりもしています。

 住んでいるのは、英国ケント州の片田舎。両親とネコのアビーと暮らしています。
 静かなところが住みやすいそうです。

 そんなタメットさんなら、日本語なんかもかんたんにモノにしてしまいそうですね。
 そのうち、ケント州のコテージ風の自宅から、この番組に電話出演してくれるようなことにもないとは限りませんね。

 日本にも、もちろんアスペルガーの人(子ども)がいます。そんなアスペルガーの子どもを受け入れている私立の特区学校、「ライナス学園」といいます)が神奈川県の小田原市にできたりしていますが、日本ではまだまだ、支援態勢が整っていません。

 タメットさんのように、アスペルガーの才能が認められ、受け容れられて開花するような、日本社会にしたいものですね。 
 

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2007-06-11

〔イラクから〕 あるイラク人女性ジャーナリストの死 パトリック・コバーン記者がレポート

 英紙インディペンデントのバグダッド特派員、パトリック・コバーン記者が、6月11日付けの同紙電子版で、あるイラク人女性ジャーナリストの死を報じていた。

 北部の中心都市、モスルで活動して来た、フリーランスの女性記者、サハル・ハイディリさん(45歳)が、先週、待ち伏せ攻撃に遭い、機関銃を掃射されて死亡した。

 サハルさんは3児の母。これまで13回、死の脅迫を受けていたという。

 以前はペンネームで記事を書いていたが、それでも一度、誘拐されたことから、実名で報道していたそうだ。

 サハルさんは、スンニ派原理主義過激派のアンブレラ組織、「イラク・イスラム国」が出していた、「死の宣告」リストに挙げられていた。

 犯行声明は、スンニ派の武装組織、「アンスール・スンナ」が出した。
 「聖戦士たちの評判を捻じ曲げた」のが、殺害理由だった。

 サハルさんは「いずれ殺される」わかっていながら、記者活動を止めなかった。
 
 イラク開戦後、殺されたイラク人ジャーナリストは、彼女で106人目。

 極限の状況下、最後まで活動を続けた彼・女らに敬意を表し、冥福をお祈りする。

 そしてコバーン記者、あなたもくれぐれも気をつけて!
  


http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2643057.ece

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2007-06-10

〔いんさいど世界〕 天才ランナー、それとも児童虐待 スラム生まれ それでも走る5歳の少年 インドのマラソン・ボーイ ブディア・シン君 2016年の「インド(?)五輪」に照準

 インドに5歳のマラソン・ランナーがいます。スラムに生まれたブディア・シン君。

 昨年(2006年)5月、「70キロマラソン」に挑戦したことで一躍、スターダムに躍り出ました。

 いま、インドで最も有名なアスリートといえば、このマラソン・ボーイ、ブディア・シン君のことです。卓球の愛ちゃんのインド版といったところでしょうか?

 しかし、この「天才ランナー」、シン君をめぐって、目下、インド国内で激論を交わされています。早期英才スポーツ教育のモデルとして認めるか、児童虐待の事例として出走を禁止するかで、裁判にまでなっています。

 スラムの育ったシン君を行商人から買い戻して引き取り、天分を発揮してスター・アスリートに育てた専属コーチを務める養父の柔道家、ダスさんは、9年後、2016年の五輪を目指したいとしていますが、シン君がそれまで「順調」に育つかどうか、先行きは微妙になっています。

 シン君は1昨年、3歳の年からマラソン・ランナーとして走り出しました。
 有名になったのは、昨年(2006年)5月2日、地元、オリッサ州(インド東北部、コルコタ〔旧名カルカッタ〕の南西に位置する、ベンガル湾に面したところです)で、州都ブバネスワルから、沿岸の町、プリを目指す「70キロ」マラソンに挑戦、地元の軍警察官ランナーたちを打ち負かしたときのことです。

 気温37度近い暑さのなか、シン君はひたすら走り続け、数百人もの警官ランナーたちのほとんどを振り切り、脱落せずに残った数人の警官ランナーとともに、ゴールまであと5キロというところで、ドクターストップにかかり、レースを中止させられました。
 ドクターストップがなければ、「優勝」もありえたわけです。

 「70キロ」のマラソンを、「残るところ、あと5キロ」まで走ったということは、65キロを走り抜いたわけ。
 それも猛暑の最中に。
 時間は「7時間2分」だったといいますが、これって、マジ、ものすごいことですね。

 この「激走」で「時の人」になったシン君、インドのギネス・ブックの「リムカ・ブック」に載るなど、一躍、スーパー・スターに。インド各地で行われるマラソン大会などスポーツ行事に呼ばれるなど、「インドで最も有名なアスリート」の座へと一気に登りつめました。

 その人気を支えたのは、オリッサ州の州都、ブバネスワルのスラム(貧民窟)出身というシン君の生い立ち。スラム生まれの小さな、最強アスリートということで、拍手を喝采を浴びたわけです。

 たしかに、シン君は厳しい環境のなかに生まれ落ちた。
 物乞いをしていた父親はシン君が生後10月のとき亡くなり、皿洗いをしていた母親は生活に困窮し、シン君のことを行商人に、800ルピー(2000円)で売り渡しました。

 そんなシン君に目をとめたのが、シン君をランナーとして育て上げた、スラムの近くでタクシー業を営む、柔道家のダスさん。
 シン君を行商人から買い戻し、自分の道場に住まわせ、稽古をつけ始めました。

 そんなダスさんがシン君に「走り」の才能があることを発見したのは、偶然のことです。近くのホステル(簡易旅館)で、同じ年頃の子どもに悪罵を投げつけた罰に「走って来い」と命じたところ、その走りっぷりが凄いので、柔道ではなくランニングのトレーニングを始めたそうです。

 1日に48キロも走り込む、厳しいトレーニングをしたこともあるそうですが、いまは1日おきに早朝、5キロから20キロ走り、午後に1時間、水泳し、その後、夕方まで昼寝するのが日課。
 チキンカレーやマトンのカレー、バナナ、パンアップルジュース、山羊の脚のスープで体をつくって来たそうです。

 さて、そんなスラム生まれのシン君とダスさんの「父子鷹(?)」コンビは今、地元オリッサ州から活動拠点を旧都デリーに移し、ホステルに暮らしながらトレーニングを積んでいますが、ふたりの行く手に「人権の壁」が立ちはだかり、こんごの選手生活が危ぶまれています。

 人権団体が「児童虐待」だと非難する一方、地元オリッサ州の当局も、シン君を身体検査するなど調査に乗り出し、今月、シン君が挑戦する予定だった、オリッサ州からコルコタまで、500キロの「マラソン・ウォーク」では、「出場禁止」処分を言い渡す騒ぎになっています。

 州政府の処分に対して、シン君サイド、つまりダスさんは、裁判所にその取り消しを訴える裁判を起こし、現在係争中。
 敗訴の可能性もあり、シン君の今後のマラソン人生に暗雲が漂っているかたちです。

 現在、5歳のシン君の(というよりダスさんの?)「夢」は、2016年のオリッピックに、インド代表で出場すること。

 北京、シカゴのその次、2016年の五輪はインドで開催されることも大ありですから、シン君が出場するようなことになれば、東京五輪の円谷選手並みの注目度のなるはずです。

 シン君もまた、ダスさんに教え込まれたのか、「インドの誇りのために走ります」などと、五輪を意識した発言をしている。

 けなげ、というか、いじらしい、というか……。

 シン君がいま暮らすデリーのホステルの近く、旧デリー駅の一帯はスラムで、同じ年頃の子どもたちが路上生活をするなど、厳しいサバイバルの毎日を送っているそうです。

 シン君も「走る」才能がなかったら、そういうスラムで、おそらくは短い一生を終えざるを得なかった!!……

 経済大国に離陸しはじめたインドの現実を映し出すような、マラソン・ボーイ、シン君の話ではあります。
 

http://www.hindu.com/2007/06/07/stories/2007060702842200.htm

http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4241958.stm

Posted by 大沼安史 at 01:14 午後 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-06-08

〔NEWS〕 CIA秘密収容所 ポーランドとルーマニアに 欧州評議会が調査報告書 タイも開設を受け入れ 

 「テロ容疑者」とされる人物を拘禁、尋問する米国CIA(中央情報局)の秘密収容所が、2002年から2005年の間、ポーランドとルーマニアに開設されていたことが、6月8日公表の欧州評議会調査報告書で確認された。
 
 仏紙ルモンド(電子版、8日付け)によると、欧州評議会の調査に当たっていたのは、スイスのディック・マーティー上院議員。

 マーティー議員の調査の結果、CIA秘密収容所はポーランドのズィマニーと、ルーマニアのスタレキエクティ両空軍基地に、両国政府首脳の承認の下、設置されていたことがわかった。
 
 このうちズィマニー基地の施設では「9・11」テロの「頭脳」とされる、ハーリド・モマメド容疑者が拘束されていた。

 このCIA秘密収容所は、ブッシュ大統領が「9・11」後、2001年9月27日に秘密大統領令に署名して承認された。

 これを受けて、NATO同盟国(ポーランドを含む)と加盟希望国(ルーマニアを含む)が翌月、2001年10月4日に対応を協議。

 米国の援助に頼らざるを得ない「経済的な弱さ」を抱えた両国が、設置国に選ばれた。

 報告によると、タイとディエゴガルシアも同様の施設を受け入れたという。

〔大沼・注〕
 CIAの不法活動が、欧州評議会という、権威ある国際機関の公式調査でついに暴かれた!

 このことの持つ意味は大きい。注目点は2つ。

 ひとつは、米国がグローバルなかたちで「影の帝国」支配を広げ、違法な活動を続けていたことが正式に確認されたこと。

 もうひとつは、ヨーロッパが米国の「無法」に対して、ささやかな「反旗」を翻したことだ。(ヨーロッパは米英主導の「エシェロン」にも反発したことがある)  

 「アメリカ帝国」の、「終わりの始まり」(のひとつ)を示すものかも知れない。


http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3222,36-920487@51-919940,0.html

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〔イラクから〕 ガーディアン紙カメラマン バグダッド 米軍同行・写真ルポ 

 英紙ガーディアン(電子版)に、同紙カメラマン、ショーン・スミス記者の、バグダッド米軍同行写真ルポが掲載された。


http://www.guardian.co.uk/news/gallery/2007/jun/04/iraq.internationalnews?picture=329970523

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2007-06-07

〔NEWS〕 イラク労働運動女性指導者 ワシントンで「イラク石油法」と「イラク占領」に抗議

 UPI通信(電子版)が6月6日に報じたところによると、イラクの労働運動の女性指導者、ハシミヤ・ムーシン・フセインさんが同日、ワシントンで、イラク国会に提案されている「石油法」に抗議し、民主党有力議員に面会するなどロビー活動を行った。

 ハシミヤさんはイラク電力労組の委員長。米国の平和団体の招きで訪米した。

 ハシミヤさんは、ブッシュ政権の思惑通りのかたちで石油法が成立すると、「新たな悲劇の連続が始まる。石油の利益の70%以上もが外国の石油企業の支配下に入るためだ」と警告した。

(大沼・注)

 「イラク石油法案」のパッケージは現在、イラク国会にかかっているが、イラクの各派の綱引きと抵抗で、審議は難航している。

 かりに「石油法」の成立が流れたら、アメリカにとって何のためのイラク占領だったか問われる、ブッシュ政権にとって極めて困難な状況が生まれるだろう。

 それは、リビー補佐官有罪判決などとは比較にならないマグニチュードを秘めており、ブッシュ批判が一挙に噴出。政治的な危機を突破するため、政権が「イラン攻撃」に踏み切る、最悪の事態も予想される。


http://www.upi.com/Security_Terrorism/Briefing/2007/06/06/iraqi_labor_protests_oil_law_us_troops/9212/

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〔イラクから〕 トルコ軍 イラク北部に侵攻 パトリック・コバーン記者がレポート

 トルコ軍が6月6日早朝、イラク北部のクルド人居住区に侵攻した。
 トルコ国内で分離運動を続けるクルド人組織、クルド労働者党(PKK)のゲリラを追走しての越境だ。

 英紙インディペンデントのパトリック・コバーン記者が7日に伝えた。

 侵攻規模は数千人で限定的なものだが、イラク情勢をさらに複雑化しそうだ。  


http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2621819.ece

Posted by 大沼安史 at 06:49 午後 | | トラックバック (1)

〔イラクから〕 米兵戦死者 3500人に

 米国防総省の発表によると、6月6日に3人が戦死したことで、イラク戦争における米兵戦死者は3500人に達した。

 民間団体のカウントでは3503人となっている。 


http://icasualties.org/oif/prdDetails.aspx?hndRef=6-2007

http://icasualties.org/oif/

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2007-06-06

〔イラクから〕 米軍駐留延長に“No” 意思表示へ イラク議会が通告可能決議 消える「イラク占領」の「正当性」の幻

 米ネット・メディア、AlterNet(オルタネット)が6月6日に報じたところによると、イラク議会は同日、米軍の駐留延長に同意する判断を、こんごはマリキ大統領ではなく、イラク国会が行うとの拘束性のある決議案を採択した。

 米軍の駐留に対するイラク政府の同意の更新は、ことし年末に行われるが、それに向けてイラク議会が駐留に「NO」と言い、米軍の撤退を求める可能性が出て来た。

 こうしたイラク議会の「不同意」に対してマリキ首相は拒否権を発動するとみられるが、イラク議会が米軍の撤退を公式に求める事態になれば、ブッシュ政権による「イラク占領」の「正当性」は根拠を失うことになる。

 オルタネットの電話取材に対し、イラク議会のサドル派代表は、米軍の駐留延長に「無条件拒否」する方針を明らかにした。


http://www.alternet.org/waroniraq/53230/

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〔イラクから〕 女性がカミカゼ攻撃 撃たれたあと自爆

 Yahoo!ニューズが伝えたバグダッド発のAFP電(6月5日付け)によると、この日、バグダッド市内、サドル・カナート地区のの警察官リクルートセンターに不審な女性が近づいて来たので、警官が立ち止まるよう命じたところ、女性が従わなかったことから警官が発砲、その瞬間、女性は着用していた爆薬ベルトを爆発させ自爆死した。警官3人が軽傷を負ったという。

 またも、女性のカミカゼ攻撃! 灼熱のイラクの、この地獄!


http://news.yahoo.com/s/afp/20070605/wl_mideast_afp/iraqunrestbaghdad

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2007-06-04

〔NEWS〕 トルコ軍 イラク・クルディスタンを砲撃 軍事侵攻の恐れも

 イラクのアルビル発ロイター電(電子版、6月3日付け)が伝えたところによると、イラク国境に結集したトルコ軍は1日、イラク・クルディスタンのトルコからの分離独立を求めるクルド人グループ、クルド労働者党(PKK)の軍事拠点に砲撃を加えた。

(大沼・注)
 トルコ軍はクルディスタンの石油を狙って、軍事侵攻を開始するかも知れない。要注意である。


http://www.alertnet.org/thenews/newsdesk/COL342931.htm

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2007-06-03

〔いんさいど世界〕 ヨドク(耀徳)、忘れまじ 北朝鮮・政治犯強制収容所 脱北者の悲劇 明らかに

 軍事独裁の全体主義国家……いまの北朝鮮は、戦時中の「美しい国(=日本)」そっくりです。「天子様」を頂く支配のピラミッドの底で、民衆の人権は踏みにじられ、飢えに苦しんでいる……。
 「北朝鮮」はわたしたち日本人にとって、「美しい国」の「過去」を映し出す「鏡」のような存在です。

 先日、英字国際紙、IHT紙(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙、電子版、5月31日付け)に、脱北者に関するソウル発の特電が載っていました。英国のインデペンデント紙も“おっかけ”の記事(電子版、6月2日付け)を載せ、この問題に対する欧米の関心の強さを浮き彫りにしました。

 IHT紙の記事で、いまから7年前、国連が介入して救おうとした、北朝鮮からの脱北者7人の、その後の運命がわかったからです。

 7人はロシア政府の手から中国政府の手へ引き渡され、最後には北朝鮮に送還されていた。

 北朝鮮は7人のうち、5人は故郷に戻し、年少者は学校に通わせると、国連に約束していたのですが、実はそうではなかった。
 あの悪名高き政治犯強制収容所、「ヨドク(耀徳)管理所」などに送られ、地獄のような日々を送ることになりました。7人のなかの唯一の女性などは管理所に着いて2週間後に亡くなったそうです。

 こんな7年前の真実がなぜ、いまごろになって明るみに出、IHT紙を通じ、全世界に報道されたか?

 それは7人のなかの最年少者、当時、14歳だったイル少年が、その後、脱北の成功、自分の悲惨な過去を隠しながら、いま21歳の青年となって韓国の大学に通っていることが、もうひとり、韓国入りを果たした、6歳年上の脱北者仲間、チュルさん(27歳)と韓国内の人権擁護団体によって確認され、当時の状況を語り始めたからです。

 チュルさん、イルさんを含む7人が北朝鮮を逃れ、中国東北部の延吉市に潜伏したのは、1999年の秋のことでした。
 一行のなかにはパンさんという女性と、その夫のヘオさんが含まれていました。
 飢えに耐えかね、食べるものを見つけるための脱北でしたが、パンさんとヘオさんの場合は、駆け落ちでした。ヘオさんは北朝鮮軍を不名誉除隊させられており。パンさんの親が結婚に反対していたのです。

 延吉のキリスト教会にかくまわれていた7人は、韓国人の口車に乗り、その男に金を払って、その年の11月10日、国境線の鉄条網をくぐり、黒龍江省からロシアに逃れます。しかし、結局はロシアの官憲につかまり、ウラジオストクへ。

 ロシアのテレビ報道でこれを知った全世界の人権団体が7人の釈放を要求、国連も7人を難民に認定し、ロシア外務省も出国査証を発行するところまで行ったのですが、そこで北朝鮮政府が巻き返しに出ます。

 ついに7人は全世界の人権団体の猛烈な抗議になか、ロシアから中国に引き渡され(このとき実は、最年少のイルさんだけは逃亡に成功しましたが、その後、北朝鮮に戻ったところを逮捕されました)、ついで中国政府の手で北朝鮮に送還された。
 このことは当時、日本でも報道されたことなので、覚えている方も多いことでしょう。

 このとき北朝鮮政府は国連に対し、パンさんとヘオさんだけを盗みを放火の疑いで逮捕したが、ほかは全員、故郷に返し、学校に戻す、と約束していたのです。

 それが嘘だとバレた。最年少のイルさんだけは浮浪児の収容施設を転々としますが、残る6人はピョンヤンの北東110キロにある、ヨドクの強制収容所に送られました。

 女性のパンさんは拷問で「犬のように体で」担架で収容所に運び込まれたそうです。彼女と再会したヘオさんは自分の食べ物を食べずに、それをキャンディーに変え、彼女になめさせていたそうです。その彼女が2週間後に亡くなったとき、ヘオさんは狂ったように泣いて、精神に変調をきたしたそうです。
 
 また、逃亡仲間の男性のひとりは、ヨドクのなかでも最悪の「特別管理所」に入れられてしまったそうです。入ったら最後、2度と出て来れないところだそうです。

 ヨドクに入れられたチュルさんは、そこで3年間の重労働に耐え、昨年、韓国への逃亡に成功しました。
 最年少のイルさんは一足早く、いまから5年前に韓国に逃れ、過去を隠して生きて来た……。
 
 ロシア官憲から中国当局に行き渡される際、唯一、逃亡に成功したイルさんは郷里に戻ったところを逮捕されますが、北朝鮮の治安当局は、イル少年に、熱く焼いた鉄板の上に正座させる拷問を加えたそうです。

 米国務省によると、北朝鮮では20万人もの「政治犯」が、ヨドクをはじめ各地の強制収容所で過酷な重労働を強いられているそうです。戦前の日本の言葉で言えば「非国民」ですね。

 北朝鮮は自分の国のことを「地上の楽園」と呼んでいたそうです。「美しい国」だと言ったかどうかは知りませんが……。
  
 ヨドクなど国内の強制収容所に「拉致」されている北朝鮮の人びと……。
 わたしたちはこうした「拉致」問題にも注目していかなければなりません。

 全体主義国家、北朝鮮の抑圧のシンボルとしての、ヨドク、忘れまじ!!!


http://www.iht.com/articles/2007/05/31/asia/refugees.php

Posted by 大沼安史 at 11:00 午前 1.いんさいど世界 | | トラックバック (0)

2007-06-02

〔NEWS〕 イラク帰還兵 ピース・ウォーク開始  カリフォルニア州議会議事堂を24時間周回 市民らが連帯の共歩

 米カリフォルニア州の州都サクラメントで、ひとりのイラク帰還兵が「ピース・ウォーク」を始めた。
 戦没者追悼記念日の5月28日午前8時から歩き出し、1周800メートル、州議会議事堂の周りを黙々と歩き続けている。

 イラクで戦士したカリフォルニア出身の米兵は362人。

 黄色いリボンを身につけた帰還兵は、議事堂前に戻るたびに、同郷の戦死者の名前を1人ずつ読み上げ、その短かった人生を語っている。

 次の水曜日(6月6日)の午後、目標の「362周」を歩き切るのが目標だそうだ。

 1日24時間、歩き出した米兵は、衛生兵としてイラクに送られた。イラク侵攻が始まった2003年3月のこと。

 そのとき、生涯忘れられないことがあった。戦闘で倒れた仲間の遺体を収容しに行ったときのことだ。遺体はイラクの人びとが、犬に食われるのを防ぐため、とっくに埋葬していた。

 スコップを持っていなかったので、同僚とふたりで素手で掘り起こした。

 指の骨が出てきた。白骨化が進んでいたのだ。

 上官は遺体の放棄を、彼に命じた……。

 帰還兵は生還後、負傷米兵がわずかな補償金とともに軍隊から放り出されるありさまを見た。

 戦争の悲惨と不正義。帰還兵は反戦に立ち上がることを決めた。

 帰還兵の歩みに、市民たちも加わった。平和団体のメンバーらが、イラク戦争で死んだイラクの人びとの名前を書いた白い紙を手に、ピース・ウォークに加わった。

 連邦議会民主党指導部のふがいなさを憤り、運動の「顔」として使われるのを拒否した「平和の母」、シンディー・シーハンさんの夫のパットさんも、一緒に並んで歩き出した。

 ネット紙「トゥルースアウト」の記者によれば、帰還兵は疲れきったいるが、歩みをやめないという。万一に備え、医療関係者が付き添って、見守っているそうだ。

 自分の名前を名乗らない、無名の帰還兵による無言の歩み。
 イラクに平和が戻る日に向け、その日に向かって少しでも近づくために、一歩、一歩、地を踏みしめて歩いているのだろう。

 そのサクラメントの空の下に向かって、わたしもまた、連帯の挨拶をおくろう。
  


http://www.truthout.org/docs_2006/060107D.shtml

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