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2007-05-07

〔コラム 机の上の空〕 佐藤享如さんと一叩人さんのこと

 雑誌の「世界」(5月号)で、作家の澤地久枝さんが評論家の佐高信さんと、川柳作家、鶴彬(つる・あきら)をめぐって対談していた。

 日中戦争の戦時下、29歳の若さで警察署に拘留されて死んだ鶴彬は、川柳界の小林多喜二と言われる。

 その鶴彬のことを、わたしは多喜二のふるさと、北海道小樽市の、最上(もがみ)の坂上にある古い木造の民家で、貸間業を営みながら、国を相手に裁判を闘っていた川柳作家、故・佐藤享如(きょうすけ)さんから教わった。1970年代の後半、わたしがまだ20代だったころ。

 当時、北海道新聞の小樽報道部に所属し、新聞記者をしていたわたしは、在宅投票制度の復活を求めて闘う「享如さん」の元へ取材で通い出した。

 享如さんは寝たきりの身障者。玄関を入ったすぐ横に居間(寝室)があって、寝床で腹ばいになった享如さんのそばに腰掛け、話を聞く。

 自身、「冬児(とおる)」を名乗る川柳作家。裁判の話のついでその口から飛び出す政治批判は、自作の川柳同様、辛辣かつ痛快で、わたしは暇ができると、最上の坂の中腹にあるその家まで、話を聞きに出かけるようになった。
 「鶴彬」という、聞いたこともない川柳作家のことを教わったのは、そんなある日のことである。

 享如さんが諳んじてみせた鶴彬の作品は痛烈なもので、わたしはすぐ覚えてしまった。

 たとえば、

   手と足をもいだ丸太にしてかへし

 や

   貞操を為替に組んでふるさとへ

 などの句……。

 言論による批判・抵抗の意味、実例を、わたしはそのとき教わったのだ。

 いまのわたしに、もしも「反骨の小骨」(そういえば、当時、わたしは小樽の飲み屋の女将に、「あんたは軟骨漢ね」と言われたことがある。いま思い出した……)の一本でもあるとすれば、それは鶴彬を高く評価し、国を相手に寝床のなかから、敢然と立ち上がり抵抗を続けた享如さんが遺してくれたものだろう。
 わたしもまた、佐藤享如さんに出遭ったことを、宝のように誇ることができる一人である。

 わたしはその最上の享如さん宅で、川柳仲間の一叩人(いっこうじん)さんにも会った。一叩人さんが小樽までわざわざ訪ねて来たとき、わたしは偶然、寝床のそばにいたのだ。

 一叩人さんは独力で鶴彬の作品を収集、ガリ版刷りで手製の「鶴彬全集」を出版した人である。

 澤地さんは佐高さんとの「対談」のなかで、故・一叩人さん(本名・命尾小太郎)のことを熱く語っていた。一叩人さんなくして「鶴彬全集」もなく、澤地さんが「私家版」を出すこともなかったろう。

 その一叩人さんに関するわたしの記憶は2つ。
 ひとつは、享如さん宅の玄関先で挨拶を交わしたときの、柔和な笑顔と、その周りを包んでいた柔らかな日の光で、もうひとつは、何度かもらった手紙の、新聞のチラシでつくった手製封筒のことである。

 一叩人さんはつましい暮らしを続けながら「全集」刊行という大事業を成し遂げ、享如さんは享如さんで、国を裁判で追い詰め、在宅(郵便)投票制度の復活につながる「実質勝訴」を手にして、生涯を閉じた。

 ふたりとも、見事な人生を生き切ったと思う。

 享如さんの川柳でよく知られているのは、

   投票所 月より遠く 寝たっきり

 だが、わたしは、

   神風が 吹かない空を 赤とんぼ

 が一番好きである。敗戦の年の初秋の作だ。

 
 軍靴の音が遠くに聞こえる2007年のいま、もしも仮に、享如さん、一叩人さんが生きていたなら、どんな川柳を作ることだろう。

 それを想像することが、わたしの義務であり、わたしの指針でなければならないと、わたしはいま思う。

 臨終の際、享如さんは両目を、真正面に向けて、焦点を一点に合わせて亡くなった。そのこともまた、わたしはいま思い出す。

Posted by 大沼安史 at 09:32 午後 3.コラム机の上の空 |

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