〔コラム 机の上の空〕 Sの追悼に代えて 死に逝く人を送る歌 千の風を起す「臨終」コーラス
講演で、北海道・十勝地方、中札内(なかさつない)村に行って来ました。
東京から1時間半。帯広空港から車で10数分。
「幸福」駅行きの廃止された線路は雪の中。雪原は前日の季節はずれの雨で漆喰のような質感を湛え、真冬のまばゆい陽射しを反射する純白の面となって、はるか彼方、日高山脈の連山の麓へと続いていました。
ところどころに、歯ブラシを立てたように防風林や万年筆のまるいキャップのようなサイロがあって、白一色の風景にアクセントを添えています。
わたしにとって12年ぶりの「北海道の冬」でした。大気を凍らせ、清冽な寒さが身に沁む「冬の北海道」が、そこにありました。
北海道の新聞社での25年に及ぶ記者生活を中止し、故郷の仙台に戻ったのが、1995年のこと。その後、仕事で何度か出かけたことはありますが、「冬」はこれが初めて。生まれ育った家に戻ったような懐かしさを覚えました。
講演のテーマは、「教育改革」でした。わたしはトルストイの学校のことから話を始めました。そう、あの「戦争を平和」のトルストイが、モスクワの南西200キロ、ヤースナヤ・ポリャーナで開いた、世界初の「自由学校」の話から、90分の講演を始めたのです。
話の全体を貫くものは「白樺」でした。トルストイの学校の白樺、「学力世界1」とされるフィンランドの白樺(キシリトールはフィンランドの発見です)、日本の「白樺派」による大正自由教育……。
そうした「白樺の教育」の流れを歴史的に辿ったあと、そのなかに、わが国がいま進めようとしている「教育再生」路線を位置づけてみたのです。
話してみて、ますますはっきりしたのは、日本の「再生」路線が、「白樺の教育」と逆行するものであることです。
真逆。
授業時間数の増も教師の締め付けも、トルストイの学校を水源とする、教育の流れの反対方向をゆくものでしかない――。
そんなこの国の時代錯誤と焦燥を、わたし自身、改めて確かめることができました。
中札内の白樺の並木が、確信をさらに深めてくれたような気がしました。
*
その夜、わたしは帯広市内で新聞社時代の旧友と12年ぶりの再会を果たしました。ビール工場のレストランで、わたしは友人から、かつての仲間の消息を教えてもらいました。
分厚い胸板を持ち頑強そうに見えたわたしの同期生Sが、ハイキングの途中で倒れ、帰らぬ人となった日のことを。
定年退社した先輩記者が野鳥観察や合唱の趣味に生きていることを。
わたしもすでに58歳――。友人の話はわたしに、「お前もそろそろだな」と、人生の終盤にある事実をさりげなく告げるようでもありました。
翌日、中札内村役場での会合を終え、帰路についたわたしは、帰宅するなり、スクラップ・ファイルの山から目当ての一冊を探し当て、綴じ込んでいた記事をもう一度、読み返しました。
再読してわたしは、すぐに決めました。
わたしは仙台のラジオ局(東北放送)で、週に一度、世界の話題を紹介するコーナーに出演しており、次回はその記事の紹介で行くことに決めたのです。
理由はかんたん。その記事を改めて読んで、雪原の上を吹く「千の風」を感じた気がしたからです。
わたしはSへの追悼として、ラジオで話すことにしたのです。
米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版、1月30日付け)に「死にゆく人びとへの歌の翼(Wings of song for the dying)」という記事が出ていて、感動したわたしはプリントアウトしたものをファイルに綴っていました。
わたしと同世代、現在57歳になるケイト・マンガーさんという、カリフォルニア在住の女性が始めたコーラス・グループの活動を紹介した記事でした。
グループの名は「扉の聖歌隊(Threshould Choirs スレショールド・クワイア)」。その名の通り、あの世の入り口に立つ人々(つまり死に行く人びと)を、歌で送る合唱隊です。
2000年に、ケイトさんの呼びかけで、サンフランシスコ湾岸地区に住む有志15人で結成したものですが、いまではカリフォルニア州外を含め、30の合唱隊を持つまでに成長し、隊員も700人に達するまでになっています(男性はわずかに1人、あとは全員、女性だそうです)。
創始者のケイトさんは小学校の音楽の先生です。その彼女の友人のラリーさんというキルトの作家がいました。彼女は、エイズで死期を迎えたラリーさんの家で草むしりをしたりして手伝っていたのですが、ある日の午後、ベッドのラリーさんに歌を歌ってあげたそうです。昏睡するラリーさんに対する、歌の贈り物。1990年のある昼下がり、ふと思いついて歌ったことが、やがて「扉の聖歌隊」結成につながっていくのです。
ラリーさんがなくなって10年近く経ったある日、ケイトさんはモンタナ州からカリフォルニアに向かって、帰路、車を走らせていました。道路際に動物の死骸があって、彼女はそのそばを走っていた。ケイトさんは無意識に死んだ動物に向かって、こんなふうな歌を口ずさんでいる自分に気づいたそうです。
May your spirit rise safely.
May it soon become a cloud……
(魂よ、安らかに舞い上がれ、そしてすぐに雲となれ……)
ケイトさんはそのとき、ラリーさんとのことを思い出し、歌で送り合唱隊をつくろうと決めたのだそうです。
ケイトさんたちはいま、数人のチームを組んで週に2、3回、死期のベッドにいる人びとを訪ねているそうです。
サンタ・クルズの病院に入院した、94歳のミリアムおばあちゃんのところへは、ある秋の日、3人の聖歌隊が出かけました。元ホテル・マネージャーの息子さんから依頼があったからです。
意識をなくしていたミリアムさんは息を荒げて苦しそうだったそうです。隊員たちはミリアムさんの額を撫でたあと、「あなたのために歌いますね」とささやきかけて歌いだしました。
We walk not into the night
We walk up toward the stars.
(夜に向かって歩み行くのではなく 星に向かって歩むのだ)
数分後、不規則だった呼吸が元に戻り、そして止まりました。
顔を見合わせる合唱隊の3人。
その瞬間、ミリアムおばあちゃんは呼吸を再開しました。
もう一度、歌を歌った3人は、そのあと忍び足で病室を去り、ホールでたがいに抱き合ったそうです。
ミリアムおばあちゃんが息を引き取ったのはその翌日。息子さんは音楽が安らかな死をもたらしたと思っているそうです。
隊員のひとり、マリエットさんは80歳の母親を、他のメンバーとともに歌で送りました。
モルフィネ投与で意識を失っている母親に、マリエットさんたちは「シャル・ウィー・ダンス?」を歌って聞かせました。ミュジーカルが好きだった母親のための選曲でした。
驚くべきことが起きました。母親はなんと指でリズムを取り始めたのです。マリエットさんの手の平でタップを叩き出したのです。
それから10日後、マリエットさんはアンコールで呼び出され、病室を訪ねました。
母親は歌を聴きながら息を引き取ったそうです。
扉をくぐりぬけ、天国へと旅立っていった……。
ケイトさんによると、青春時代の思い出の歌を聴きたがる人が多いそうです。たとえば、コール・ポーターとかビートルズとか(そう、ビートルズもいまや歴史、です……)。
総じて好まれるのは、子守歌だ、といいます。
*
こんなふうに「扉の聖歌隊」の話を書き終えて(この記事はこのままラジオの放送原稿になります)、わたしは友人との帯広の夜に思い出したことを思い返しました。
ハイキング中に倒れた同期生Sは実に人情味のある早稲田出身の男で、飲み屋ではよく、義侠の歌を歌っていたことを。
友人とビールを飲んだ翌日昼過ぎ、わたしは帯広空港に向かう車のなかから日高山脈の雲母の結晶のような稜線を眺めました。
その向こうには日高地方があって、静内の町があります。(中札内から静内に向かう道路開設計画は、環境への配慮から中止になったそうです)
その静内は、1971年春、Sが同期入社のわたし(わたしは根室)と同時に新聞記者生活を始めた振り出しの地。
「千の風」がひとつ、Sの声を乗せ、はるかな山の呼び声のように通り過ぎた気がしました。
Posted by 大沼安史 at 02:52 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink
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