そろそろ、ことしもクリスマスである。
先日、ワシントン・ポスト紙の電子版を見ていたら、去年の暮れに、「一日遅れのクリスマス家族再会」を果たしたシングルマザー兵士の話が出ていた。イラクの戦場から戻った日系の女性兵士が、3人の子どもたちとともに、生活を始める話である。
素晴らしい記事だった。感動して涙が流れた(57歳ともなると、涙腺が緩んでしまって……)。
筆者のドナ・セント・ジョージ記者に敬意を表しつつ、記事の中身の概略を紹介したい。
米軍(メリーランド州兵)の通信部隊の軍曹としてイラクの戦場で任務に就いていた、日系の女性兵士、レアナ・ニシムラさん(29歳)が、米国東部メリーランド州トーソンの基地に、生き残った部隊の仲間ととも帰還したのは、昨年11月初めのことだった。
ニシムラさんが送り込まれていたのは、バグダッドの北にあるティクリット。スンニ派の武装抵抗勢力が活動する、サダム・フセインの出身地だった。
ニシムラさんも常にM16自動小銃を携行、通信兵として危険な任務についていた。
生還したニシムラさんたちのバスが、黄色いリボンの基地に到着すると、1人の兵士が降車するなり地面にキスをした。そこには同僚の家族が待っていて、帰還した夫(父)、妻(母)にかけより抱きついた。
その場に、ニシムラさんを待つ家族の姿はなかった。
夫とはすでに離婚、7歳の長男、T・Jを頭とする3人の子は、ハワイの祖母(シンシア・ニシムラさん)の元に預けていたからだ。
帰還の日はもちろん、わかっていたが、戦地から仕送りを続けていた彼女に、3人の子をハワイから呼び寄せるだけの余裕はなかった。
ニシムラさんはイラクに派兵されるまで、学校の教師としており、チアリーダーのコーチでもあった。州兵に登録していたのは、3人の子を抱えたシングルマザーとして、少しでも収入を増やすためでもあった。
イラク戦争は、そんな彼女を戦地に駆り出した。
イラク、アフガニスタンに送り出された米軍女性兵士は、ドナ・ジョージ記者によると、実に15万5000人に上る。そして、そのうちの1万6000人が、ニシムラさんのようなシングルマザーだ。
ティクリットに送り込まれた2年前、ニシムラさんは、枕に3人に子どもたち(T・J=当時7歳、2男・ディラン=6歳、長女・シャイアン=3歳)の「顔」を縫い付けてて、一緒に眠るようになった。基地を離れるときはダッフルバッグに入れ、持ち歩いた。
帰還した彼女に、教職への復帰の道は閉ざされていたが、州兵組織にフルタイムの仕事を得て、なんとか暮らしを立てれるようになった。
新しい勤務先は、トーソンから90マイル離れたアーブル・ド・グラースの州兵基地。
借家を借りて、電話を引くのが精一杯だった。離婚に至る経過のなかで経済状態が悪化し、クレジット・カードも持てないでいた彼女に、もう余裕はなかった。
そんな彼女をみかねて、手を差し伸べてくれる人が現れた。向かいの教会の牧師と信者が食料品を差し入れてくれた。職場の上司が子ども用のベッドを届けてくれた。近くに住むクロフォード夫妻が食品や衣類を持って来てくれた。
ハワイの子どもたち、新しい家から電話をした。
1日に早い再会を願って、「オペレーション・ヒーロー・マイル」というプログラムを利用し、航空チケットをゲットしようとした。申し込んだら、戦傷者とその家族向けの援助プログラムだった。
彼女に寄贈を申し出る人もいたが、有資格者ではないと使えないとわかった。
クリスマスが近づいていた。それまでに、なんとしても子どもたちに会いたい、再会し、一緒に暮らしはじめたい、と彼女は願った。
上司のひとり、ティモシー・ムレン少佐が動いた。復員兵の団体や教会に手紙を書いて、義捐金を募ったのだ。
3人の子どもたちと祖母のシンシアさんの4人をハワイから呼び寄せる格安クリママス航空チケット代(1500ドルを切る額)が集まったのは、クリスマスの12日前のことだった。
子どもたちとシンシアおばあちゃんがハワイから着いたのは、昨年12月26日の朝。クリスマスの1日後だった。安いチケットは、そうでもしないと手にできなかった。
1日遅れのクリスマスの再会だった。
人びと善意に支えられ、一家4人の生活が始まった。彼女と子どもたちに幸せが戻って来た。
もう安心していいはずなのに、そんなニシムラさんを悪夢が襲うようになった。夜、眠られなくなったっり、突然、涙を流すようになった。
こんな夢を見た。爆弾が炸裂する中、2番目の子どもを背負って匍匐前進する夢を。
子どもたちを、探しても、探しても見つけることができない夢を見た。
カウンセラーに相談すると、PTSD(後心的外傷ストレス障害)だと言われた。
家族再会から8ヵ月経ったことし夏のことだった。勤務先の州兵基地で、彼女のイラクからの帰還を祝う式典があった。
制服を着た彼女を見て、長男のT・Jが泣き叫び、膝に抱きついて離そうとしなかった。
式典は彼女なしに行われた。
最近、ニシムラさんは配置転換で、従軍牧師のアシスタントに就いた。
ついこの間、11月半ば、長男のT・Jが参加する「ボーイ・スカウト」の集まりで、イラクの話をした。
イラクの戦場にいる兵士に、クリスマスの贈り物を送る集まりだった。
そこで彼女は、スカウトの子どもたちに、「どこに行くにもM16(自動小銃)を抱えていたわ」と言った。
初めての打ち明け話。
T・Jが目を大きく見開いて聞いていた。
ニシムラさんがスカウトの子どもたちに「(わたしの子どもたちのように)1年間も、パパやママに会えなかったら、どんな気がする?」と聞いた。
一人が答えた。「さびしい」
もう一人が「クレージーになっちゃう」と言った。
T・Jが立ち上がって言った。
「ぼくはいっぱい泣いちゃった」
T・Jは、ほかの男の子と一緒に、イラクへ送るクリスマス・カードにメッセージを書き込んだ。母親に書いた手紙と同じメッセージだった。
Come back safely! そう書かれていた。
――以上が、ドナ・ジョージ記者の長文記事の要約である。
ことしはニシムラさん一家にとって家族が再会し、初めて迎える「1日遅れ」ではない、本当の「クリスマス」だ。T・Jたちにもきっと、サンタがプレゼントをするだろう。
ニシムラさん一家の幸せを、わたしたちも祈ることにしよう。
一足早い、「メリー・クリスマス!」をレアナ・ニシムラさんとその家族へ! お幸せに!!
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http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/11/23/AR2006112301236.html