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2006-10-09

〔For the Record〕 ロシア女性ジャーナリスト  アンナ・ポリトコフスカヤは何を書いて殺されたか?

 モスクワのアパートのエレベーターのなかで10月7日、ロシア人女性ジャーナリスト、「ノバーヤ・ガゼータ」の記者、アンナ・ポリトコフスカヤさんが射殺体で見つかった。

 遺体のそばに、ロシアのヒットマンが殺しに使う「マカロフ」という拳銃と薬莢4発が落ちていた。
 現場では20歳代の、黒い野球帽をかぶった細身の男が目撃されていた。この男がアンナさんを射殺したのに間違いなさそうだ。

 アンナさん、48歳。2人の子どものシングルマザー。
 ロシアで最も勇敢で、有名な女性ジャーナリストだった。

 彼女が暗殺されたニュースは衝撃派となって、モスクワを震源に世界に広がった。

 フランスのルモンド紙の電子版の記事には彼女のポートレートが添えてあった。やや度の強いメガネをかけた、聡明な感じの女性が、やわらかく微笑んでいた。

 この女性のどこに男まさりの勇気があったのか、わからなかった。でも、写真をじっと見ているうちに、だんだんわかって来た。
 胸のうちに秘めた決意が、透明な優しさになって、メガネの奥の、その両の目に漂っていた。

 チェチェン紛争、(いや彼女にならって)「チェチェン戦争」におけるロシア軍の暴虐を告発してやまない記者だった。

 2年前には、北オセチアの紛争地に向かう機内で、何者かに紅茶に毒を盛られた。
 繰り返し「死の脅迫」を受けながら、それでも取材をやめなかった。

 エリート外交官の家庭に生まれた。出生地はニューヨーク。父親が国連の代表部にいた。
 モスクワ大学のジャーナリズム学科を卒業。イズベスチアなどで働いたあと、「ノバーヤ・ガゼータ」に移った。 プーチン大統領が始めた「第2次チェチェン戦争」の取材を始めた。

 1999年、ロシア軍がグロズニイの市場や産院に長距離ロケット弾を撃ち込んだ事件を取材し、モスクワに戻ったアンナさんに対し、夫は離婚を通告した。
 女手ひとつで2人の子を育てながら、取材を続ける毎日が始まった。

 彼女はいったい、どんな記事を書いて殺されたのだろうか?
 暗殺を報じる英紙ガーディアン(電子版)に、ことし(2006年)3月1日付けの彼女の記事(の英訳)が添えられていた。

 読んでみて驚いた。
 チェチェン戦争で、現地の住民をターゲットに毒ガスが使用されていることを告発するルポルタージュだった。

 チェチェンのシェルコフスクの病院。
 その一室のベッドの上で、20歳になるシーナさんが痙攣に苦しんでいた。蒼白の顔面は黄色に変わり、赤変している。口をこじあけるようにしてスプーンがひとつ。いざとなったら、舌を引き出すためだ。母親が娘の痙攣を抑えようと、必死になって体を覆いかぶせている。不可能なほど弓なりになったシーナの身体。
 発作が始まって47分後に医師が駆けつけ、鎮静剤を打った。
 視覚も聴覚も失ってしまったシーナさんが涙を流した。痙攣はようやく終わろうとしていた。

 シーナさんはシェルコフスク地区のスタロガドフスク村の学校で教生をしていた。
 その学校で昨年(2005年)12月16日、異変が起きた。
 子どもたちが異様な笑いを浮かべながら興奮状態に陥り、挙句に意識を失って次々に倒れだした。

 原因はいまもって特定されていないが、現地の医師はアンナさんの取材に対し、「神経系を高度に過敏にする、なんらかの毒物が使われた」と語った。
 スタロガドフスク村の住民たちによれば、学校の女子トイレが発生源で、ガス化する物質が仕掛けられていた可能性が強いという。

 こうした毒ガス被害は、アンナさんの取材によれば、これが初めてのことではなかった。いまから6年前、2000年の7月26日にはスタリエ・アタジという集団農場で、爆発が2回あり、銀紫色のチューリップ状の雲が上空150メートルまで立ち上がった。興奮状態になって痙攣し気絶する住民が出た。
 昨年(2005年)9月23日にも、スタロシュシェンドリンスカヤ村の学校でも同じようなことが起き、子どもたち19人と教師1人が病院に運び込まれた。

 そして、昨年12月。
 それまでは単発的な発生だったのが、波状的に連続発生するようになった。

 最初は12月7日、スタロガドフスク村の13歳の少女が仮死状態になって痙攣がとまらなくなった。
 2日後の9日、村の学校の高校生2人が病院に運び込まれ、16日には子ども19人と大人3人が、19日にはさらにコビ村の子どもたち17人が入院。23日にはシェルコフスク地域だけでさらに81人の事例が報告された。

 これに対し、チェチェンの親ロシア政権はメディアが増幅させた集団ヒステリアであるとして、毒ガス説を否定。真相はなお闇の中にある。

 こんな状況のなかで、アンナさんは「軍専門家の覚書」のコピーを入手し、ルポルタージュのなかで暴露した。
 覚書は「毒性のある蒸気を発生する液体もしくは固体」によるものとの断定、政府の「集団ヒステリー説」を真っ向から否定する内容だった。

 こういうことを書いて、アンナさんは殺されたのだ。
 

 アンナさんは1昨年(2004年)10月、自著『プーチンのロシア』の英語版出版のためロンドンを訪れた際、ガーディアン紙のインタビューを受け、英語でこう語っている。

 「わたしはわたしが生きているうちに、誰もがひとりの人間として尊敬される、そんな人間の生を生きることができる日が来ることを欲しています」

 I want to be able to live the life of a human being, where every individual ie respected, in my lifetime.
 

 勇敢なるジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんの早すぎる死を悼みつつ、彼女に銃弾を放った権力を憎む。    
 
 

http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1890857,00.html

http://www.guardian.co.uk/russia/article/0,,1890838,00.html

http://www.guardian.co.uk/chechnya/Story/0,,1720522,00.html

Posted by 大沼安史 at 05:10 午後 |

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