〔コラム 机の上の空〕 下駄を鳴らして来た阿部謹也さん
新聞(9月10日付け朝刊)に、阿部謹也さんの訃報が載っていた。驚いた。
あの、いつまでも、どこまでも若く、シャープな阿部謹也さんが、こんなにも早く亡くなるなんて。
ぼくが謹也さんと会ったのは、1975年(か76年の夏)だったように記憶している。場所は小樽商科大学。
商大の卒業生で、地元で就職していた親友のO・Sが、「キンヤさんに会いに行こう」と、ぼくを誘ってくれたのだ。
当時、ぼくは小樽で、駆け出し5年目の新聞記者をしており、絵描きのO・Sとは飲み仲間だった。
O・Sは、謹也さんが顧問をしていた商大山岳部の出身で、ある暑い昼下がり、ふと思い立ち、地獄坂を登って商大の研究室まで、アポなしで会いに行った。
ドイツ語を教えていた謹也さんの研究室をのぞくと、大学に来てはいるらしいが誰もいない。
ふたりしてどうしたものかと迷っていると、廊下の奥の方から、「おい、S(悪友の名前)、お前、どうした」と、甲高い声がした。
こっちに向かって廊下を歩いて来る、謹也さんの声だった。
白いワイシャツ姿。
しかも、なぜか下駄履き。
偉ぶらないその姿が、夏休みで閑散とした校舎の廊下で白く輝き、決まっていた。
サマになっていた。
ベストセラー、『ハメルンの笛吹き男』を書いて学界、読書界にある種のカルチャーショックを与えたばかりの謹也さん(当時、40歳。商大の助教授だった)は、実に若々しく、澄んだ目をした快活な人だった。
ぼくらを研究室に引き入れてくれた謹也さんが何を話してくれたか、何も覚えていない。しかし、その澄んだまなざしと、話し方が幾何学的なほど明晰だったことは、いまでもよく覚えている。
当時のぼくは26歳。「一流の知性」とはこういう人のことを指すのだな、と、大きな両の目を見ながら思ったことは、30年という月日が過ぎたいまになっても、ぼくの記憶のなかにくっきり、残っている。
謹也さんはそのあと東京の大学に移ってしまったので、それきりになってしまったが、謹也さんがときどき顔を出していた、「オリエンタル」というスナックには、O・Sとなんどか飲みに行った。
その店は商大山岳部の根城で、顧問をしていた謹也さんは部員のツケを自腹で払っていた。
謹也さん自身は酒を飲まない(飲めない?)人だと聞いた。
計算すると、それから28年後の2003年の夏、ぼくは甲州・八ヶ岳山麓にある清春白樺美術館を訪ねた。そこで、『智恵子抄』の高村智恵子の絵を見たぼくは、もう一度、その絵を見たくなって、翌年もその高原の美術館に出かけた。
広い美術館の敷地に、風変わりな洋館が建っていた。東京の暑さを逃れ、泊り込んで仕事に専念できる、避暑地のアトリエだった。
そこに謹也さんがその何年か前にやって来て、ひと夏かふた夏をすごしたことがあることを、昨年出た『自伝』を読んで知った。
そこへ夏場にまた行けば、もしかしたら会えるかもしれない、と想像を巡らせた。
そこに行けば、白いワイシャツ姿の、下駄履きの先生に、もしかしたら「再会」できるかも知れないと。
清春の、あの「蜂の巣」という、たしか6角形の赤い木造建物のひと部屋は、その西洋的な趣と、文化的な気骨において、謹也先生にはお似合いの仕事場であっただろう。
透明な目で日本の社会を深く見つめた、謹也先生の「世間」論の一部は、満点の星の下、虫の声の囲まれながら、夜風の流れ込む、あの清泉のあの場所で書かれたに違いないと思う。
畏友、O・Sはその後、小樽で画業に専念し、ぼくは新聞記者を辞め、東京に流れた。
一途、一徹な彼は修行僧のように交際を絶って絵を描き続け、ぼくはぼくで、サラリーマンのエスカレーターを中途退職で降り、自己流の自由の迷い道を、とにかくいまだに歩き続けている。
そんなぼくにとって、一度だけでも謹也さんと会えたことは、光源ともいうべき生涯の宝である。
あのごまかしのない澄んだまなざしと、あの気さくさと、あの明晰な論理。
それはぼくにとって、到達することの叶わない、遠い目標として、ずっとこれまであり続けて来たし、これからもそうであるだろうと思う。
阿部謹也さんの死を、ぼくはぼくとして悼む。
Posted by 大沼安史 at 07:40 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink