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2006-07-21

〔コラム 机の上の空〕 「靖国クーデター」を阻止 昭和天皇の「象徴的抵抗」

 昭和天皇が靖国神社に対するA級戦犯合祀について、「だから、私はあれ(合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、日経新聞の報道(7月20日付け)で明らかになった。
 死去前年、1988年に、昭和天皇が言いのこした、日本への「遺言」ともいうべき、重大な「証言」である。

 それをメモに書き取っていたのは、警察庁長官もつとめたことのある、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)。「証言」の聴取者、記録者として、申し分のない人物だ。

 「歴史の法廷」へ差し出された、時代の公正証書ともいえる、動かしがたい「証拠の文書」。
 18年の時を経て、光の中へ現れ出た、現代史の真実。

 日経のスクープは、驚きの衝撃波となって、アジア各国に広がった。

 昭和天皇の「証言」の重大さは、「A級戦犯合祀」を境に、「靖国」参拝を止めた、と言い切ったことにある。
 折にふれ、靖国の境内に足を運んだその人が、もう靖国には行かないと決心し、実行したのだ。

 これは昭和という時代をまさに一身に背負い、戦前、戦中、戦後を生きた昭和天皇その人による、「A級戦犯がまつられた靖国」に対する、明確な否定であり、潔癖なまでの拒絶である。

 「合祀」により、「大戦」のA級戦犯、すなわち戦争指導者らによって、その一画(というより、その中枢)が「占拠」された「靖国」は、昭和天皇にとって、そのとき耐えがたきもの、耐え切れぬものになってしまったのである。

 「靖国」は西暦1988年、昭和の「63年」目にして、ついに昭和天皇から忌避されたわけだ。
 
 天皇が参拝しなくなった「靖国神社」――この事実の持つ歴史的な意味は、日本の首相による「靖国参拝」が国際問題化している現在、あまりにも重い、といわざるをえない。

 それにしても、昭和天皇はなぜ、A級戦犯合祀に「不快感」(朝日新聞)を抱いたのか?
 
 それはおそらく、こういうことだろう。

 天皇制は戦後、占領軍によって解体されず、この国の「シンボル」として、「象徴天皇制」のシンボルとして生き延びた。
 「神」であった昭和天皇は「人間宣言」をして、戦後日本の「象徴」たる地位を引き受けることになった。

 鳩が平和の象徴であるように、天皇は戦後日本のシンボルとなった。
 形式的な国事行為を司る、それだけの役目の象徴に徹することになった。

 それはたぶん、昭和天皇自身にとっても、それほど不快な役回りではなかったはずだ。
 戦中、戦前のように、「軍官複合体」に振り回されることもなく、静かな戦後を過ごしていけばよかったのだから。

 しかし、そんな平穏な昭和の黄昏を、いきなり日の丸の血の色に染め上げる、アナクロな事件が起きた。
 それが「靖国」サイドが昭和天皇の「内意」を確かめもせずに、決行した「A級戦犯の合祀」である。
 
 それはこの国の「象徴」として、「政治的行為」を禁止されてしまった昭和天皇には、いかんともしがたい、ある種の政治的クーデターだった。
 「靖国」という神殿の主座に、戦中の戦争指導者たちを据えることで、戦中・戦前の「国体」=国家体制を現代に甦らせる、戦後民主主義に対する、反動的な企てだった。

 「靖国」における「軍国日本」の復活! 神殿の雛壇に軍・官の指導者たちが勢ぞろいしたいま、そこに足りないのは、最上段の空席に座るべき、昭和天皇その人だった。

 A級戦犯の合祀を強行した勢力は、そこへ昭和天皇を呼び込み、連れ込むことで、「靖国」のリバイバルを完成させようとしたのだろう。
 戦前回帰の歴史の舞台を整えた上で、陛下による「公式参拝」を狙った……。

 ――昭和天皇は間違いなくこのことに反発し、不快感を覚えたのである。
 つまり、またふたたびの「政治利用」……。

 もし、東条らを合祀した「靖国」を昭和天皇が参拝したら、それは実に衝撃的な「象徴的事件」となる。
 天皇が「象徴」する「戦後日本」に、ふたたび「軍国=神国日本」が宿ることになるからだ。

 その衝撃度は、昭和天皇による、戦前の靖国参拝などとは比較にならない重大かつ深刻なものになるだろう。

 そのことを完璧に理解し、それが一部勢力が仕掛けた罠であることに気づいていたからこそ、昭和天皇は参拝を止め、「靖国」を拒絶したのである。

 いま思えばそれは――昭和天皇が「靖国」に行くのを止めたことは、実に「象徴的な行為」だった。歴史の舞台を生き抜いてきた、ひとりの「昭和男」による、見事な「不作為による作為」だった。

 そうしたシンボンリックな決断と実行を「証言」として、「史実」として遺こし、昭和天皇は自ら、「昭和の時代」を閉じたのである。
 A級戦犯合祀による「靖国クーデター」を、戦前のような「大権」を行使することなく、「象徴としての不作為(参拝せず)」でもって葬り去り、昭和天皇は逝った……。

 その意味で今回、明るみに出た「発言メモ」は、A級戦犯を合祀する「靖国」を認めてはならないという、昭和天皇による、「平成日本」に対する歴史的な「遺書」であり、「メッセージ」に他ならない。

 
 昭和天皇は毎年、8月15日の「終戦記念日」に武道館で開かれる戦没者慰霊祭に出席される際、会場へはエレベーターを使わず、階段を登っていた。自分の足で登って、式場に向かっていた。(わたしはそのことを、取材の新聞記者として、その場で初めて知った)

 昭和天皇にとって一歩一歩、階段を登ることは、戦没者を慰め、平和を祈るための、絶対の条件であり、自らをその「象徴」と定めた民主憲法、さらには戦後民主主義を体現する、象徴的な行為であったろう。

 そして「靖国」に足を向けないこともまた、昭和天皇にとって、昭和史にぴったり重なり合う個人史の総決算ともいうべき、象徴的行為だったはずだ。

 「だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」……

 あの独特の甲高い声が、どこかから聞こえてきたような気がした。
  

Posted by 大沼安史 at 03:49 午後 3.コラム机の上の空 |

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