〔いんさいど世界〕 ロバート・フィスク記者の見た、ビント・ジバイル村の煙
中東問題の権威ともいうべき、英国人ジャーナリスト、ロバート・フィスク氏が、ベイルートの活動拠点から、イスラエル軍のレバノン侵攻を連日、報じている。
フィスク記者の記事が現れるのは、氏がその中東特派員をつとめる、英国の高級紙、「インディペント」の紙上。
電子版でも読めるので、毎日、チェックしているが、氏の記事はほとんどすべて「有料」なので、1本につき、200円ほど払わなければならない。それでも、定評あるフィスク記者のレポートを、日本にいながらネットと通じて読めるわけだけだから、安いものだ。
7月27日付けのフィスク記者のレポートは、レバノン南部の前線近く、キラヤ発のものだった。
キラヤ村の丘の上からフィスク氏は、精鋭イスラエル軍地上部隊がヒズボラの待ち伏せ攻撃にあって壊滅状態に陥ったビント・ジバイルを眺める。
茶色の煙と黒い煙。
「13人ものイスラエル兵が死んだ」――フィスク記者が伝える戦死者数は、イスラエルの発表(9人)より、4人多い。
目を左に転じると、そこはキハイムの町。25日、国連監視団の監視哨がイスラエル軍のミサイル攻撃を受け、4人が死んだ場所だ。ミサイルは「アメリカ製」、イスラエル軍のヘリも「アメリカ製」。
ビント・ジバイルの戦闘について、フィスク記者はこう書いている。
イスラエル軍の部隊が、人気のない市場に侵入したときのことだった。3方向からヒズボラの待ち伏せ攻撃を浴びた。包囲された兵士たちは、絶望的な思いのなか、救援を求めた。が、助けに来るはずのメルカヴァ戦車や装甲車両もまた攻撃に遭い、炎上した……
手ひどい痛手(人的損害)だが、驚くにはあたらない。
イスラエル占領下のレバノン南部では、1983年に、「たったひとりの自爆テロリストが50人を超すイスラエル兵の命を奪ったことがあった」のだから。
フィスク記者によれば、ヒズボラは、イスラエルのレバノン撤退後、「何年にもわたって、この新しい戦争を待ち続け、訓練し続け、夢見続けて来た」。
だから「彼らは、18年ものゲリラ闘争の末、イスラエルから勝ち取り解放した土地をやすやすと手渡したりしない」と。
フィスク記者はキラヤ村で取材中、人影のない道路ので、ひとりの男とあった。山羊の群れを追う男だった。
話しかけてわかった。耳の聴こえない男だった。
爆弾の炸裂音も聞こえない、耳の不自由な男。
フィスク記者はその彼と、米国のライス国務長官を重ね合わせて、アメリカの姿勢を辛らつに皮肉る。
アメリカもまたヒズボラを侮ってはいけないのだ。
1983年、ベイルート空港で241人もの米海兵隊員を死に追い込んだのは、ヒズボラに近いグループではなかったか?
キラヤ村の丘の上でビント・ジバイルから立ち上がる煙を見ながら、フィスク記者の胸に、こんな疑問がわき上がったという。
「イスラエルがレバノンで、戦争に負けている。そう言えるのではなかろうか、そう考えてもいいのではないか?」と。
イスラエルはビント・ジバイルの敗退を受け、地上侵攻は中止し、こんごは空爆でヒズボラを攻撃する作戦に切り替えるという。
爆弾の雨を降らせて、ヒズボラの息の根をとめようという狙いだ。
イラク駐留米軍がそうしているように、レバノン南部の空を制圧し、制空権下、武装テロリストをたたくだけたたく作戦である。
それは、すぐには負けはしないが、勝たない・勝てない作戦ではある。勝てないまま負けてしまう作戦である。
そのイスラエルにとっての敗戦を予告したもの、それがフィスク記者の見た、ビント・ジバイルの煙だ。