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2006-07-02

〔いんさいど世界〕 「靖国」と「グレースランド」

 訪米した小泉首相の「グレースランド」視察を見て、戦後日本の保守政治の業のようなものを見る思いがした。

 1945年の夏を境に、「英霊」を「靖国」に押し込め、臆面もなく「親米」へと、一気に転調してみせた、日本の保守権力。

 そんな罪責に充ちた「対米従属」の在りようが、首相の振る舞いの向こうに、透けて見えたような気がした。

 誕生日をともにするエルビス・プレスリーと自らを重ね合わせ、サングラスまでして歌ってみせた、日本の宰相。
 「エルビスのアメリカ」が好きで好きで大好きで、「夢がかなった」と、はしゃぎまくった一国の総理。
 その「異様さ」の裏側から、「戦後日本」の「出自の秘密とコンプレックス」が浮かび上がり、像を結んだように思えたのである。

 それにしても小泉首相は、プレスリーの館で、なぜにあれほど「高揚」したのか?

 それは首相が大のプレスリー・ファンであるという、だけのことではない。
 多分、それは「グレースランド」で、自らが味わった戦後日本の青春の夢を体感することができたからだろう。

 言うまでもなく、「エルビスのアメリカ」は、戦後の日本の前に現れ出た「新しいアメリカ」だった。
 「神の国」である「日本帝国」を、軍事的に粉砕しきった、軍服姿でパイプをくわえた「マッカーサーの米国」ではなく、若々しい「リーゼントのアメリカ」だった。

 それも、支配者=権力者として現れたのではなく、支配者=権力者に逆らう(権力者が眉をしかめる)新しい文化的なイコンとして現れ出た……。

 それは、「英霊」たちが「神風特攻」で体当たりを試みた「鬼畜」としての「米国」ではない、生まれたての新しいアメリカだった。
 空から降り注いだ爆弾ではなく、海を越えて届いた音楽。反逆に臭いさえする刺激的な文化。
 それは国境を超えて、極東の被占領国にも響いて来た、同世代の若者たちに受容を迫るサウンドでありスタイルだった。

 そして、恐らくは、それによって初めて、日本の戦後の若い世代は、アメリカを肯定することができた……。
  
 
 つまり、「エルビスのアメリカ」は、小泉青年にとってもまた、米国による日本の軍事占領と、日米安保下での、その事実上の継続という現実を、敗戦国の若者として受け容れるための文化的な装置だった。
 「少国民」らはエルビスによって、戦後世界のコスモポリタンに変身し、恐らくはこの国の歴史のなかで初めて、アメリカを「文化」として受け容れたのである。

 しかし、小泉青年がその後、保守の政治家として歩みを進めるなかで、「エルビスのアメリカ」と、「覇権国としてのアメリカ」の乖離はどんどん広がって行ったはずだ。
 そしてその開きは、日本の最高権力者である首相の座に就いてからというもの、ほとんど極限に達していたはずである。

 テロを口実にイラクへ石油を取りに行くいったブッシュのアメリカ。
 「プラザ合意」で日本を「経済敗戦」に追い込み、経済的な属国化に成功したあと、こんどは軍事的な属国(ジュニア・パートナー)として、日本を利用するだけ利用しよとする、ブッシュのホワイトハウス。

 その過酷なリアル・ポリティクスの現実を、アメリカという国の権力の悪魔のごとき正体を、一番よく知っているのは、実は小泉首相のはずである。

 しかしながら日米同盟は「英霊」たちを裏切り、「鬼畜」と手を握ることで成立した、戦後保守政権の「存在理由」であるから、小泉首相としても、その生命線から逸脱するわけには行かない。
 毒を食らわば皿まで。
 今回の首相訪米は、戦後、ことあるごとに深化を遂げた、日米間の軍事的一体化――正しくは、日本の軍事的属国化の、ひとつのクライマックスを意味するものだったわけだ。

 遥けくも来つるものかな、ではある。
 戦前、戦中の日本の支配者=権力者たちが、自らの延命のために、ただそれだけのために、恥も外聞もなく、昨日まで仇敵であったはずの米国を手を握り合い、「在日米軍」を「番犬さま」(椎名悦三郎)として利用していただけのつもりが、いまや米国の手先に成り果ててしまった。

 そういう事実を、日本の首相として、知っているからこそ、「小泉純一郎」は「エルビスのアメリカ」に没入することで(あるいは自己同一化を図ることで)、たぶん無意識のうちに、米国の属国になりさがる「罪の意識」から逃れようとしたのだ。

 そう、「罪の意識」……。
 鬼畜である米国との戦いに散っていった「英霊」たちへの罪の意識。

 首相が訪米を前にして、「靖国にはなんどでも行く」と行ったのは、中国を意識してのことではなく、むしろ米国を意識してのことだったろう。

 小泉首相があれだけこだわる「靖国公式参拝」には、いまや米国の傘の下に完全に入ってしまった戦後保守政治における、「贖罪の意識」がある、とみなければならない。

 そうした首相の「負い目」と、「グレースランド」での「はしゃぎ」との間に、何も共通するものはないのか、というと、そうでもない。

 もう一度、言おう。

 「小泉純一郎」は、すこしでも保守政治家としての負い目をなくすため、「エルビスのアメリカ」の中に、かつて「英霊」たちが戦ったのではない、「別のアメリカ」を見ようとしたのだ。
 いや、「見なければならなかった!」。

 だからこそ彼は、ブッシュとの首脳会談後、「グレースランド」に行った。行って、エルビスの歌を歌ったのではないか。

 それはワシントンで、地球規模での「対米属国化」を宣言した彼にとって、「ヘゲモン」ではない、「別のアメリカ」に対する「巡礼」、あるいはまた「失われた時への旅」のような意味合いを持っていたはずである。

 ワシントンで「♪ (ぼくを、日本を)やさしく愛して」と言った首相は、「グレースランド」でも、ブッシュの前で、「♪ 賢い人は言う。(お前のような)バカだけが向こう見ずに突っ込んでいく、と。でも、ぼくは君(ブッシュのこと???)を愛さずにはいられない」と歌ってみせた。

 エルビスの遺族を前に歌う、そのシーンをネット配信の映像で見ながら、突如、仮説のような幻想にとらわれ、しばし考え込んでしまった。

 
 もしかしたら、小泉首相の中の、「靖国」に眠る「英霊」たちへの「贖罪の心」が、意識的にか、無意識でか、米国と一体化をするしかなった、戦後日本の保守の政治家たるわが身への自己批判の歌となり、同時にブッシュに対して「愛」を訴える、ある種の自虐的なラブ・ソングにも変わったのかも知れない……

 そしてふと気づいた。

 あの場で首相がほんとうにブッシュに聴かせたかったエルビスの歌は、「♪ お前は天使の皮をかぶった悪魔だ」ではなかったか……

 「鬼畜」に破れ、「悪魔」を愛してしまった自虐の戦後日本。

  「天使のような悪魔」を、「戦後の青春」の「色眼鏡」で見るしかなかった日本の首相。

 ――あり得ないことではないような気がした。

    
 

Posted by 大沼安史 at 08:15 午後 1.いんさいど世界 |

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