ニューヨークでひと夏、暮らしたことがある。
ダウンタウンの安宿をねぐらに、会いたい人に会い、行きたいところに行く、気ままな1ヵ月を過ごした。
1980年代半ば。
当時のアメリカは、1985年9月の「プラザ合意」で日本を経済属国化して息を吹き返す直前の頃で、不況の真っ只中。ホテルのロビーには、初夏なのに分厚い靴をはいた娼婦がいて、いつもタバコを吸っていた。
アッパー・ウェストサイドの「ドーム・プロジェクト」という公立のフリースクールに通ったのも、そのときのこと。子どもたちと一緒に、車でキャッツキルというところにある刑務所見学に連れて行ってもらったりした。
そのときのことだった。
ヴァンのハンドルを握るスタッフのボブが、「あれがリバーサイド教会だよ」と言って教えてくれたのは。
当時のわたしはいまにもまして、アメリカのことを知らず、「リバーサイド教会」がどういうところなのか、何もわからないまま、単なる観光案内だと思って、聞き返しもせず、車窓から教会の建物を眺めただけだった。
その「リバーサイド教会」で今月(4月)20日、ウィリアム・スローン・コフィン師の葬儀が行われた
Rev.William Sloane Coffin Jr.
81歳。
バーモント州の自宅で、12日に息を引き取った。
ホスピスから戻って亡くなった。
自宅から運ばれた棺は、その人生の最後を、主任の牧師として務めたこの教会に安置され、人々の別れの挨拶を受けた。
ピルグリムの子孫。家具製作会社を営む一族に生まれ、東部エスタブリッシュメントのエリートコースを歩んだ。
第2次大戦中、エールの音楽学校で学んだあと、米陸軍の歩兵将校として欧州戦線に送られた。戦後、ソ連の政治犯を送還する任務に従事するなかで、スターリン独裁の実情を知った。送り返したロシア人たちは、そのまま闇のなかに消え、二度と戻らなかった。
そんな経験が、26歳の若者をCIAのエージェントに変えた。
反ソ連のロシア人たちを落下傘で送り込む作戦活動に3年間、従事した。
そう、ウィリアム・スローン・コフィン師は、CIAの人間だった!
CIAを辞め、帰国すると、エール大学に戻って、神学校に入った。いずれ米軍の従軍牧師になるためだった。
神学校を卒業後、軍務には就かず、母校のプレップスクール、フィリップス・アラデミーの学校牧師となった。その後、あるカレッジの牧師になり、1958年に、もうひとつの母校、エール大学の牧師となった。
ここからコフィン師の、正義と反戦・平和の活動が始まる。
南部アラマバ州で黒人公民権運動に参加し、3回も逮捕された。
ベトナム反戦運動にも指導者としてその先頭に立ち、エール大学のチャペルは平和運動のサンクチュアリになった。
1967年10月16日、コフィン師はボストン市内の教会で平和を祈り、徴兵を拒否する若者たちから「令状」を預かった。
預かった185人「令状」を、コフィン牧師は4日後、ワシントンの連邦政府司法省に出向き、「返還」した。
そのとき、コフィン師は逮捕されなかったが、当時のニクソン政権は許さなかった。
コフィン師を、スポック博士らとともに、死刑もありうる国家反逆罪で起訴したのである。
控訴審で無罪となったからよかったものの、危うく反逆者としての汚名を着せられるところだった。
1970年春、反戦運動の拠点となったエール大学は州兵に包囲された。
コフィン師は学生たちと州兵司令官の双方を説得、流血の事態を回避した。
オハイオ州のケント州立大学で、学生4人が州兵に射殺されたときのことだった。
コフィン師は、捕虜米兵を引き取りにハノイにも出かけた。1972年のことだった。
師がニューヨークのリバーサイド教会に来たのは、エール大学を去って2年後の1978年のことだった。
「SANE・FREEZE」という反核運動団体の代表も兼ねながら、ニカラグアのサンディニスタを支援するなど活動を続けた。
1991年の「湾岸戦争」に反対し、あのベトナム戦争のように泥沼化した現在進行中の「イラク戦争」にも反対を叫び続けた。
中南米の「戦う神父たち」を思わせる、活動する聖職者としての生涯だった。
そんな師の最後の砦が、わたしがかつて何気なく通り過ぎた「リバーサイド教会」だった。
ニューヨーク・タイムズ紙の訃報に、コフィン師が繰り返し語ったという言葉が紹介されていた。
「第一の美徳は勇気である。それはほかのすべての美徳を可能にする」と。
なるほど、と思った。
ボストン・グローブ紙のコラムニストで、若い頃、コフィン師とともに警察に留置されたこともあるジェームズ・キャロル氏は、師を悼む長文のコラムのなかで、こんな言葉を紹介した。
War is a coward's escape from the problems of peace.
「戦争は、平和の問題からの卑怯者の逃避である」
そういうことか、と思わず頷いた。
ニューヨーク・タイムズのアーカイブで、コフィン師に関する記事を探していたら、わたしがリバーサイド教会のそばを通り過ぎた2年前、1982年の記事が見つかった。
リバーサイド教会の劇場で、「ダンス・フェスティバル」が開かれたという記事だった。
そのときの師の開会の挨拶は、なんとも愉快で素敵なものだった。
モダン・レリージョン(現代宗教)とモダン・ダンス(現代舞踊)との出会いを男女の結婚になぞらえた挨拶だった。
若いころ、師はスコットランド・グラスゴウのパブで、知り合いの女性を結婚しようと一晩、口説いたことがあるという。
「いいわ」と彼女は承諾したが、「でも、わたしたちの結婚を、誰が祝ってくれるの?」と言って、答えを保留してしまった。
そんな「振られ話」を語ったあと、コフィン師はこう続けたという。
「モダン・レリージョン(現代宗教)とモダン・ダンス(現代舞踊)の結婚にも、同じことがいえるかも知れませんよ……」
このふたつが「結婚」できるかどうかは、(観客である)みなさん次第。
みんなで祝って、今夜はめでたく、結婚させてください、というジョーク。
記事には書いていなかったが、そのとき会場は、きっと爆笑に包まれたはずである。
そのくだりを読んで、ユーモアの達人だったという、コフィン師の肉声を聴いたような気がした。
1984年の7月、車でリバーサイド教会のそばを通り過ぎたとき、わたしが一言、ボブに聞き返していれば、実際に会えて聞けたかも知れない声が、はっきり聞こえたような気がした。
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