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2006-03-27

〔いんさいど世界〕 「英雄」パット・ティルマンの死をめぐる謎 米軍、再調査へ 「謀殺」疑惑も

 きょう、わたしは、ある「英雄」の、ある若いアメリカ人の、悲劇的な死の物語をお話したいと思います。
 もちろん、フィクション(虚構)ではありません。実話です。
 その人の死を悼みつつ、「ヒーローの死」の真相に迫ってみたいと思います。

 みなさん、パット・ティルマン(Pat Tillman)をご存知ですか? 名前、聞いたことありますか?
 アメリカのプロ・フットボール(アメフト)に関心のある方なら、耳にしたことがあるかも知れません。
 でも、一般の日本人にとって、聞いたこともないはずです。
 その人、パット・ティルマンという、元アメフトのスター選手が、悲劇の主人公です。

 パット・ティルマン氏(軍曹)が27歳の若さでその生涯を終えたのは、2004年4月22日のことでした。
 場所は、アフガニスタン南東部。
 「頭部に3発の銃弾」(ニューヨーク・タイムズ紙)を浴びて死亡しました。

 米国防総省は、戦死したパット・ティルマンに「銀勲章」を贈り、「敵の待ち伏せ攻撃に遭って死亡した」との新聞発表を行いました。

 ブッシュ政権が氏の「戦死」を悼んだのは当然のことです。
 ブッシュ大統領は、「テロとの戦いに究極の犠牲を払った他のすべての戦死者と同様、フットボールのフィールドの内外で、人々を鼓舞してやまなかった」と称賛しました。
 氏こそ、ブッシュ政権の「テロとの戦い」の呼びかけにこたえ、すべてを投げ打ってアフガンの戦地に赴いた「英雄」だったからです。

 パット・ティルマン氏はカリフォルニア州サンノゼの出身。地元の高校を出たあと、アリゾナ州立大学に進み、マーケティングを専攻、最優秀の成績で卒業しました。
 学生時代からアメフトのディフェンスの名手として鳴らし、卒業後、ドラフトで「アリゾナ・カーディナルス」に入団し、プロのアメフトの選手として活躍します。氏が3シーズン目(2000年)に達成した「224タックル」は、チーム記録で破られていません。

 そんなアメフトのスター選手に、間もなく決定的な転機が訪れます。
 あの2001年9月11日の「同時多発テロ」。
 パット・ティルマン氏は、「アリゾナ・カーディナルス」が提示した、「3年間・360万ドル」という契約を蹴って、米陸軍の特殊部隊である「レンジャー」の一員となります。

 アメフトの「英雄」が「テロとの戦い」の第一線に……。
 「9・11」を口実に、イラク・アフガン「石油戦争」を仕掛けようとするブッシュ政権が、これを見逃すはずはありません。
 ラムズフェルド国防長官が、氏の決断をたたえる「私信」を送るなど、「愛国的アメリカ人」のモデルとして宣伝に使ったのは言うまでもないことです。

 パット・ティルマン氏は、同じく「レンジャー」となった弟のケヴィンさんとともに最初、イラクに送られます。米軍がイラクに侵攻した2003年3月のことです。
 サンフランシスコ・クロニクル紙によれば、ティルマン兄弟は同じ部隊に所属し、バグダッドへ向かう途中、「数回にわたって戦闘を目の当たりにした」と言います。
 そして、翌2004年の早い時期に、アフガンへ移される。
 アフガン南東部の渓谷地帯で、ようやくビンラディンら「テロリストとの戦い」に従事することができたのです。
 
 そして、そのわずか数ヵ月後に、2004年4月22日に、銃弾を浴びて死んだ。
 
 戦闘のなかで倒れた「名誉の戦死」が実は真っ赤な「嘘」だったとわかったのは、その1ヵ月後のことでした。
 アフガンで一緒に戦ったレンジャー部隊が帰国し、遺族に「真相」を伝えたからです。
 同じ部隊で兄である氏と行動をともにしたケヴィン氏が、「事実」を知らされたのも、そのころのことでした。
 米軍は(あるいはブッシュ政権は)、それまでパット・ティルマン氏のほんとうの「死因」を隠し続けて来たのです。

 その「真相」とは何か?
 それは「友軍による誤射」でした。
 パット・ティルマン氏は、アルカイダなどテロリストの弾丸に当たって倒れたのではなく、仲間の銃弾で死亡していたのです。

 遺族は早速、米政府に真相の徹底調査を求めました。
 米陸軍はこれまで3回にわたって調査を繰り返し、計2000ページに及ぶ報告書にまとめましたが、ニューヨーク・タイムズ紙が精査したところ、矛盾だらけで、証拠の隠滅まで行われたことが明らかになりました。
 こうしたなかで、米国防総省の監察官がようやく重い腰を上げ、このほど、関係者の刑事罰も視野に入れた再調査を行う旨、決定を下しました。

 サンノゼで法律事務所を営む父親のパトリックさん(51歳)は、そんな動きに対して、悲観的な態度を崩していません。
 米軍は、国防総省は、ブッシュ政権は、「嘘」「嘘」「嘘」のつき通しだったからです。
 パトリックさんはニューヨーク・タイムズ紙の取材に対し、「たった70ヤード(63メートル)だよ。その距離で、どうして?」と嘆きました。
 そんな近距離で、なぜ「誤射」したのか、という根本的な問題提起です。

 サンフランシスコ・クロニクル紙の調査報道によると、「誤射」は以下のような状況下で起きたようです。
 パット・ティルマン氏(軍曹)の所属するレンジャー部隊は、運命のその日、敵の掃討に出かけます。
 そのときなぜか、部隊は二手に分かれます。
 氏の直属の上司は、二手に分かれるのは危険だと上申しますが却下され、パット・ティルマン軍曹らはアフガンの地元兵1名とともに先鋒を受け持ちます(弟のケヴィンさんは後続の部隊に振り分けられました)。

 その先鋒に対して「70ヤード」の距離から銃弾が浴びせられます。
 パット・ティルマン軍曹は銃を振って「間違うな」となんどもアピールしましたが、アフガン兵とともに直撃弾を浴びて死亡しました。
 額に3発の銃弾。
 正確な狙撃でした。
 パット・ティルマン軍曹とともに先導グループに振り分けられたレンジャーのひとりは、軍曹は断末魔の苦しみのなかで、最後
まで「撃つな。戦友たち。おれはパット・ティルマンだ」と声を振り絞っていたと証言しています。
 それはまさに「誤射」というより、「狙い撃ち」としか言いようのない「事故」でした。

 では、かりにそれが「誤射」ではなく、友軍兵士のひとり、または複数による「故意の射殺」だったら、どういうことが考えられるか?
 サンフランシスコ・クロニクル紙の調査報道は、それに関して重要なヒントを提供しています。
 それは、パット・ティルマン氏が、スポーツマンであると同時に極めて知性的な人だったという事実です。
 アリゾナ州立大学を卒業後、プロのアメフト選手として活躍する一方、修士号を取得しようと歴史学の勉強を続けていたといいます。
 アフガンの戦地では宿営地のテントにミニ図書館を開設し、仲間にコーヒーをふるまっていました。詩人にもなりたいと言っていたそうです。
 
 そして、その尊敬する人は、なんと、米国におけるイラク戦争反対の急先鋒である、ノーム・チョムスキー氏。
 同紙によると、パット・ティルマン氏は復員後に、チョムスキー氏と会見する予定だったといいます。
 氏はアフガンから一時帰国して、シアトルでアメフトの試合を観戦したことがあるそうですが、そうした機会にチョムスキー氏と連絡を取っていたかも知れません。

 かりにそうだとすると、どういうことが考えられるか?
 チョムスキー氏は、米国防総省の下部機関であるNSA(国家安全保障局)によって監視下に置かれている人物のはずです。
 (NSAが米国内でスパイ活動をしていたことは、最近になって明らかになり、大問題になっています)
 氏の電話やファクス、メールは、常に「傍受」されていた(いる)に違いありません。
 もちろん、パット・ティルマンとのやりとりの中身も、盗聴その他の手段でつかんでいた!

 そうすると、ブッシュ政権としては、「英雄」パット・ティルマンが「裏切り」、復員後、チョムスキーとともに反戦運動を開始すると判断しないわけにはいきません。
 そんなことになったら、ブッシュ政権としてまさに「命取り」。たいへんなことになってしまいます。
 「テロとの戦い」の「英雄」が、一転して「反戦と平和」の「英雄」になってしまうわけですから。

 もう率直に申し上げましょう。
 わたしは、パット・ティルマン氏の死は「謀殺」だったと疑うひとりであります。
 「9・11」が大掛かりな謀略であったとすれば、元アメフトのスター選手を殺すことなど、何ほどのことがあるでしょうか。

 氏の友人のひとりは、クロニクル紙の取材に対し、こう証言しています。
 「パットはイラク戦争のすべてに対し、非常に批判的であった」と。 

 氏が16歳のときから欠かさず付けていた「日記」も行方不明になっています。
 おそらく米軍当局の手で処分されたのでしょう。

 「日記」に何が書かれていたか?
 ブッシュ政権にとって都合の悪いことが書かれていたと推測するのは、当然すぎることだと思います。

 悲劇の死から間もなく2年。
 遅ればせながら、パット・ティルマン氏の「戦死」を悼みます。
 

   

Posted by 大沼安史 at 04:12 午後 1.いんさいど世界 |

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