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2005-12-28

〔いんさいど世界〕 クウェート侵攻 米国が“後押し”  はめられたサダム ブッシュの訓令で女性大使が仕掛けた甘い罠 1990年夏、「バグダッド会談」の黒い霧

 湾岸戦争(1991年)に至る、いわゆる「湾岸危機」、すなわちサダム・フセインのイラクによるクウェート侵攻(1990年8月2日)から、早くも15年以上の月日が流れた。

 当時、わたし(大沼)は新聞社の特派員としてカイロに駐在していて、イラク軍のクウェート侵攻の前後、2回にわたり、ヨルダン経由でバグダッドに入った。

 そんなこともあって、第2次湾岸戦争ともいうべき、現在進行中の「イラク戦争」を引き続いてウオッチしているのだが、湾岸危機、そして湾岸戦争に関し、いまなお心に引っかかるものがある。

 それは、「なぜ、サダム・フセインはクウェートに自信満々に侵攻し」、「なぜクウェートはむざむざ、侵攻されねばならなかったか」、という疑問だ。

 カイロ発の特電を報じる記者として、わたしは「疑問の後半部分」(なぜクウェートはむざむざ、侵攻されねばならなかったか)について、以下のような観測記事を書いた記憶がある。 

 クウェートが「侵攻」によってたたきのめされたのは、この湾岸の産油国が、自らの立場をわきまえ、いわゆる「上流」領域に自分の役割を限定して、石油を汲み上げていればよかったものを、「下流」領域、精製ガソリンのスタンド販売に手を染め、「石油メジャー」の怒りを買ったからである、と。

 クウェートは当時、欧州で、「Q8」という、ガソリンのスタンド販売直営事業に着手していた。湾岸の産油国ごとき(?)が、やってはならないタブーを犯していたのである。

 そういうクウェートを、サダム・フセインは、まるで石油メジャーの傭兵のように蹂躙し切った……

 当時の記事のスクラップが手元にないので、引用できないのが残念だが、たしか、こういう内容の記事だったと思う。

 その記事でわたしが暗に指摘したのは、イラクにクウェートをたたかせたのは、「石油メジャー」につながる、当時の米国、ブッシュ(パパ)政権でないか、という疑惑だった。

 疑問の前半部分(なぜ、サダム・フセインはクウェートに自信満々に侵攻したか?)についてわたしは、たしか、湾岸戦争の背景をさぐる解説記事か何かで、米国の女性大使(エイプリル・グラスピー)とサダム・フセイン大統領の会談にふれた覚えがある。

 米国を主力とする「多国籍軍」の攻撃開始が迫り、追い込まれたサダム・フセインが、クウェート侵攻は実はアメリカのゴーサインで始まったものだと、国連に「会談の記録」を提出し、弁明を図った、あの(といっても知らない人が多いはずだが……)「グラスピーとサダム・フセインのバグダッド会談」の中身を、ごく簡単に紹介した記憶がある。
 (イラク政府が国連に提出した「会談の記録」を、わたしはイスラエル紙のエルサレム・ポストで読んだ)

 その「グラスピー・サダム会談」のことが、パキスタン紙(英字紙)、「ニューズ・インターナショナル」(電子版、12月25日付け)にかなり詳しく出ており、懐かしさもあって、身を入れて読んでみた。

 「米国務省はエイプリル・グラスピーをまだ、封じ込んでいるのか?」と題された、カリーム・オマール記者のその記事は、わたしが当時、抱いていた疑念(疑問の前半部分)をあらためて確証するものだった。
 
 オマール記者によれば、「運命の会談」が(バグダッドの大統領府で)行われたのは、1990年7月25日にことだった。イラク軍のクウェート侵攻は、その8日後に開始される。

 エイプリル・グラスピー大使は前年の1989年に着任した、中東問題を専門とするキャリア外交官。サダム・フセイン大統領を一対一で会談するのは、そのときが始めてだった。

 会談を申し入れたのは、グラスピー大使。ブッシュ大統領(当時)からの緊急のメッセージを伝えるためだった。

 その会談で、グラスピー大使はサダム・フセインに何を語ったか?

 オマール記者は、会談の「部分テキスト(記録)」をもとに、やりとりを以下のように再現している。読みにくいかも知れないが、正確を期すため、意訳ではなく、直訳で紹介しよう。

 グラスピー大使
 私はブッシュ大統領からイラクとの関係を改善するよう直接の指示を受けている。私たちは、あなたのより高い石油価格についての要請と、あなたがたがクウェートと対立する直接的な理由に対し、かなりの同情心を持っている。ご存知のように私は、当地に何年もいて、(イラン・イラク戦争後の)あなたの国家再建の非常な努力に対し、敬意の念を抱いている。私たちは、あなたが資金を必要としていることを知っている。私たちはそのことを理解しており、あなたがあなたの国の再建する機会を持つべきだというのが、私たちの意見だ。
 私たちはあなたが(イラクの)南部に大量の兵力を展開しているのを見ることができている。ふつう、それは私たちが関与することではない。しかし、あなたがたがクウェートから受ける他の脅威との関連のなかでこのことが起きているいる以上、私たちが関心を持つのは理にかなったことだ。この理由から、私は対決ではなく、友情心から、あなたの意図するものに関し、以下の質問をするよう訓令を受けている。あなたはなぜ、クウェート国境の至近に大量の兵力を展開しているのか?

 サダム・フセイン大統領
 ご存知の通り、これまで何年もの間、私はクウェートとの対立を解くため、あらゆる努力を払って来た。2日以内に、協議がもたれることになっている。私は交渉に、もう一度だけ、短いチャンスを与える用意がある。われわれが会うと、希望が出るが、しかし何も起こらない。解決をみることがなければ、イラクが死を受け入れないことは当然のことになるだろう。

 グラスピー大使
 どんな解決なら受け容れ可能か?

 サダム・フセイン大統領
 シャトル・アル・アラブのすべての領有を維持できるなら――それはわれわれの対イラン戦争の戦略目標だったが――われわれは(クウェートに)譲歩するだろう。もし、われわれがシャトルの半分をとるか、イラクのすべて(イラクはクウェートもイラクの一部と考えている)をとるか、選択を迫られるなら。われわれは、われわれがそうありたいと願う姿のイラクを維持しようとする、クウェートに関する主張を擁護するため、シャトルを放棄する。これに対して、アメリカの意見はいかがか?

 グラスピー大使
 私たちは、あなたがたのクウェートとの対立にような、アラブ対アラブの紛争に対しては意見を持たない。ベーカー(国務)長官は私に、1960年代に最初にイラクに対して告げた、クウェート問題はアメリカの関与するものではないという指示を強調するよう命じた。

 (サダム・フセイン、笑い)

 以上が、「会談の部分記録」だが、グラスピー大使は実にとんでもないことを言ったものだ。

 要は、アメリカは見て見ぬ振りをするから、ご勝手にどうぞ、クウェートを取ってください、というゴーサイン。

 サダム・フセインが思わずにんまりしたのも当然である。

 オマール記者によれば、その6日後の7月31日(イラクの侵攻開始の2日前)、ブッシュ(パパ)政権は、サダム・フセインに対し、念押しの「最終確約」を行う。

 ジョン・ケリー国務次官補(近東問題担当)が上院で、以下のように証言したのだ。
 「米国はクウェート防衛に関与しない。たとえクウェートが攻撃されても、米国はクウェートを防衛する意志を持たない」

 よくもまぁ、抜けぬけと言ったものだ。

 さぁ、どうぞ、安心してクウェートを攻撃してください、サダム・フセインさん!――

 神聖であるべき議会証言でもって、ブッシュ政権はサダム・フセインを励まし、クウェート侵攻に向け、「最後の一押し」をしたのである。
 
 スパイ組織、CIAの元長官であり、石油ロビーの手で権力の座にまつりあげられたジョージ・ブッシュ(パパ)がいかにもやりそうなことだが、ずいぶん手の込んだ罠を仕掛けたものだ。

 甘い誘いにのったサダムも悪いが、クウェートの西側石油権益を守り、終いには、サウジへの米軍の駐留まで実現してしまった米国も相当なワルである。

 狡猾というべきか、非情というべきか……。

 さて、グラスピー大使はイラク軍のクウェート侵攻後、同年8月になって、バグダッドを離れ、帰国した。

 オマール記者によれば、その彼女がバグダッドの米国大使館を出発しようとしたとき、「会談」の「テープ」を入手していた英国の記者2人が、会談での発言の真意を確かめようと問いただした。

 記者の質問は率直だった。

 「あなたは、侵略を煽った。彼(サダム)の侵略を。何を考えていたんだ?」

 大使は言った。
 「私も、ほかの誰も、イラクがクウェートの全部を取ろうとなんて考えもしなかった」

 さらに質問をぶつけながら、追いすがる記者を振り払い、大使は車に乗り込んだという。

 以来、エイプリル・グラスピーは、沈黙を守り続けている。

 で、バグダッドから帰国した彼女は、その後、どうなったか。

 わたしは、バージニア州立大学で教え始めた、とばかり思っていたが、オマール記者によれば、ニューヨークの国連代表部に勤務したあと、南アフリカのケープタウンに赴任し、2002年、国務省を退官したそうだ。完全黙秘はその後も続いている。

 一方、サダム・フセインとの会談に向け、ブッシュ政権が出した、グラスピーに対する「訓令」もまた、依然として機密のヴェールに包まれたままだ。

 米議会上院の外交委員会や情報委員会にすら、非公開の条件つきでも提出されていない。

 以上、オマール記者が描き出した、湾岸戦争に至る疑惑の構図は、「9・11」の「やらせ同時多発テロ」で憎悪をかき立て、「WMD(大量破壊兵器)」で恐怖を煽ってイラク戦争に突入した、ブッシュ・ジュニアとその「陰謀団」による、悪巧みの原形と言える。

 「湾岸戦争」から「イラク戦争」へ。

 陰謀はほとんど極限、完璧の域に達し、世界を苛(さいな)んでいる。 
 
 

⇒ 
 

http://www.jang.com.pk/thenews/dec2005-daily/25-12-2005/world/w2.htm

Posted by 大沼安史 at 01:38 午前 1.いんさいど世界 |

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